第二百六話 サタン
「ダークセラフだと!?」
統魔は、驚きの余り、一瞬、我を忘れた。
羽音が統魔の耳朶を貫き、意識を白く染め上げようとした瞬間、彼は、バアル・ゼブルから遠ざかっていくのを認めた。
字が統魔を引っ張って、その場から飛び離れたのだ。
バアル・ゼブルの四枚の翅が超高速で羽撃けば、周囲一帯の空間がねじ曲がり、空間そのものが巨大な竜巻となってなにもかもを飲み込むかのようだった。
大地を抉り、草木を巻き上げ、土砂を吸い込み――まさに天変地異とでもいうべき光景が展開されていく。
「サタン……」
統魔は、空間の竜巻の中心に瞬く四つの目を見ていた。赤黒い幻魔の目は、禍々しくも強烈な光を放ち、人類の遺伝子に刻みつけられた恐怖を存分に思い起こさせるようだった。
そして、空間の竜巻が消え失せるとともにバアル・ゼブルの姿も消えて失せていた。
虚空に穿たれた巨大な空白は、ゆっくりと、だが確実に、元通りになっていく。
世界そのものが正常にあろうとするかのような、そんな光景を目の当たりにしながらも、統魔が考えるのは、六年前の出来事だ。
「サタン……か」
「隊長?」
字は、茫然と、譫言のようにバアル・ゼブルが残した言葉をつぶやく統魔を心配した。空間の竜巻は、超広範囲に渡って展開され、範囲内の全てを飲み込むように蹂躙した。字が統魔を抱えるようにして退避しなければ、巻き込まれていた可能性がある。
普段の統魔ならば考えられないことだが、しかし、致し方のないことなのだろう、と、字は想うのだ。
字は、統魔がなぜ戦闘部に入ろうとしていたのかを知っていたし、一刻も早く昇級し、自らの意志で任務を行える立場になりたがっているのかも知っていた。
星央魔導院に入学した理由からして、そうだ。
統魔は、復讐のためにこそ、戦団の導士となった。
その復讐の相手こそ、特別指定幻魔壱号ダークセラフである。
ダークセラフは、十年以上、戦団が追い続けている鬼級幻魔だ。
鬼級幻魔が人前に現れ、逃げ去るように姿を消すという例外的行動を取ったのは、ダークセラフが初めてだった。そして、ダークセラフは、作為的に幻魔災害を引き起こすことができる存在であるという事実が確認されると、特別指定幻魔壱号に認定された。
それが十年以上昔のことだ。
以来、ダークセラフの出現に関連する幻魔災害の発生は頻発しており、央都が幻魔災害に悩まされるようになった最大の原因と断定されている。
戦団が央都四市の防衛に重点を置く必要に迫られ、外征に慎重にならざるを得なくなった原因でもある。
ダークセラフが暗躍していることがわかっている以上、央都の外に大軍を差し向けることができないのだ。
ダークセラフとは、戦団にとっての後顧の憂いそのものだ。
そこへ、さらにバアルことバアル・ゼブルが現れたものだから、戦団は大わらわとなっていた。しかも、虚空事変で斃したと考えていた矢先、生き残っていたことが判明してしまった。
戦団上層部は、これからこの報告を受けて、頭を抱えることになるだろう。
字は、そんなことは上の人間が考えることがと割り切りながら、ただ、統魔のことを案じている。
統魔は、既に字の腕の中から離れていて、バアル・ゼブルのいなくなった虚空を見遣っている。
「なんということだ、って奴だな、これは」
などと、苦い表情でいったのは、瑠璃彦だ。
「斃したはずのバアル・ゼブルは生きていて、しかも、特定壱号と繋がっていた。そして、ダークセラフは、サタンという名前だった。なんともはや、だ」
『現在、現地に幻災隊を向かわせていますので、展開中の部隊は、速やかに周辺の状況を調査、安全性の有無の確認をお願いします』
「こちら瑠璃色小隊、了解」
「こちら皆代小隊、了解」
瑠璃彦に続いて、統魔が情報官の通信に対応したのを見て、字は少しだけ安心した。統魔は、冷静に状況を判断できるくらいには回復しているようだった。
「サタンのことは後で考えましょう」
「考えたって仕方がないだろ」
「それは……そうですね」
字は、統魔のぶっきらぼうな反応を受けて、普段通りの彼が帰ってきたことを内心で喜んだ。この状況で笑ってなどいられるわけもないが、しかし、字にとっては統魔が全てなのだから、仕方がない。
統魔は、隊員たちを集めると、現場周辺の調査を行うべく指示を飛ばした。
晴れ渡る青空の下、大社山北部には、バアル・ゼブルの竜巻によって穿たれた巨大な空白が、爪痕として残されていて、多数の導士たちがその周辺の調査を始めた。
「バアル・ゼブル……ね」
遥か眼下の様子を見ていた一人の天使が、小さくつぶやいた。
超高空を漂う空中都市の名残たるロストエデン、その中心に座しているのは、この失われた楽園の光源たる大天使ルシフェルだが、その傍らには、常にもう一人の大天使がいる。
ガブリエルである。
受胎告知の天使と同じ名を持つ彼女は、慈しみに満ちた目を手元の宝玉に向けている。宝玉には、地上の様子が映し出されているのだ。そして、そこには幻魔によって破壊された地点を懸命に調査している人間たちの姿があった。
ガブリエルの愛は、そうした人々に向けられている。
琥珀のような目だけでなく、顔立ち一つとっても慈愛に満ち、優しげで、母性に溢れているといっても過言ではない。真っ白な頭髪は長く、風に揺らめく様も美しい。肌もまた、透けるように白く、光を浴びて輝いている。
そんな女性的なしなやかな肢体を包み込むのは、白百合を想起させるような衣であり、ゆったりとその全身を包み込んでいる。絢爛たる宝石が散りばめられてもいて、手元の宝玉もそうした宝飾品の一つだった。
背には三対六枚の純白の翼があり、光の輪を腰に帯びるようにしている。
そんなガブリエルの宝玉を横目に覗き込んでいるのが、崩れかけた玉座に腰を下ろすルシフェルだ。黄金の大天使は、ガブリエルの言葉を拾った。
「バアル・ゼブル。彼はサタンの腹心といっていたが、手先の間違いかな」
「サタンにそう言い含められているのかもしれないわ。可哀想に」
ガブリエルが、心の底からの同情をバアル・ゼブルに向ける。慈愛に満ちた彼女らしい発言ではあるのだが、だからといって、同意は出来ない。ありえないことだ。
悪魔は、滅ぼすべきなのだ。
地上に降りる準備をしていたドミニオンは、そんなことを想いながら、大天使たちを見遣っている。
ドミニオンが動くべきかどうかを判断するのは、いつだって彼自身の意志だ。そこにルシフェルの思惑や指示はない。
だからこそ、今回も地上に降り立とうとしたのだが、そうする暇もなく、状況は変わった。
バアル・ゼブルの撤退によって、彼の出る幕はなくなったのだ。
「彼のような半端者を腹心にするわけもないからね」
とは、ルシフェル。
彼の目には、バアル・ゼブルの不完全性がはっきりと見えるのだ。だから、半端者だと断言する。
不完全で未完成な半端者。
それがバアル・ゼブルなのだ。
元々鬼級幻魔だったのだから、当然と言えば当然なのだが。
だとすれば、サタンがなにを考えているのか、まったく想像もつかない。
なぜ、バアルなどという鬼級幻魔を悪魔に作り替えようとしたのか、そして、失敗してなお利用しているのか、ドミニオンにはわからなかったし、天使たちにも甚だ疑問だった。
「サタンの腹心は相変わらずアーリマンだろう」
「アーリマンは動きませんね」
「動くわけがないさ。彼はサタンの腹心。サタンの計画のため、動くわけにはいかないんだ」
ルシフェルとガブリエルの言葉だけが、このロストエデンの光明に満ちた空間に流れている。
もう一人の大天使メタトロンは、ロストエデンの片隅、神聖回廊の真ん中に座り込み、地上から集めたという指輪を見つめては、ああでもないこうでもないと一人つぶやいている。
メタトロンの行動原理は不明だったし、それを良しとしているルシフェル、ガブリエルの度量の広さというのか、器の大きさには、ドミニオンは、茫然とするばかりだ。
天使は、悪魔に対抗する存在だ。
悪魔が動くのであれば、天使も動くべきだ。
しかし、天使も悪魔も積極的に動かない以上、本能の赴くままに行動するのも当然の結果なのかもしれない。
悪魔たちの動きが激しくなってきたのは、ここ最近のことだという。
それまでは、サタンが幻魔災害を引き起こすことくらいだったらしいのだ。
それくらいならば、わざわざ天使が出向く必要はない。
人間も、自分の身は自分で護ることくらいできなければ、人類復興など夢のまた夢だ。
天使は、人類にとって過保護な親などではないのだから。
とはいえ――。
ドミニオンは、地上を見下ろし、考える。
バアル・ゼブルの存在は、この十年以上に渡る均衡を揺るがすものになるのではないか、と。
だからこそ、サタンは、あのような半端者を野放しにしているのではないか。
そんなことをルシフェルたちにいえば、杞憂だよ、と一笑に付されるのはわかりきっているので、ドミニオンはなにもいわなかった。