第二百五話 皆代小隊(四)
バアル・ゼブルの背中から生えた二対四枚の翅が、突如として巨大化するとともに、甲高い羽音が大気を引き裂き、鼓膜を劈くかの如く響き渡った。
何倍にも巨大化した翅による、凄まじい速度の羽撃きが原因だ。
それとともに逆巻く竜巻の威力が増し、導士たちが構築した魔法壁に無数の亀裂が走った。それは瞬く間に拡大し、赤黒い異空間の断裂へと変容する。異空間が大口を開けていく様を目の当たりにした統魔は、透かさず叫んだ。
「あの空間に魔法を打ち込むんだ!」
統魔の大音声は、導衣の通信器を通してその場にいる全導士に伝わった。導士たちのうち、法機に簡易魔法を仕込んでいたものたちが、次々と攻型魔法を放つ。
統魔自身もまた、魔法壁を破壊しながら拡大する空間の亀裂に向かって、魔法の光弾を撃ち放つ。
空間攻撃の接近を阻むには、なにかをぶつければいい――それが統魔の仮説だが、先程実証済みでもある。実際、導士に迫ろうとする空間攻撃は、魔力体などに食らいつくことで動きを止め、消失している。
「奴の空間攻撃の対処法は、なにかを喰らわせること。そうすれば、空間攻撃は止まります」
「なるほど。そういうことだったのか」
瑠璃彦は、大いに納得するとともに、竜巻を抑え込んでいた魔法壁の結界が崩壊する様を見届けた。
「しかし、それだけではどうしようもない場合もあるようだな」
バアル・ゼブルの空間攻撃は、二種類あるようだ、と、瑠璃彦は推察する。
一つは、対象目掛けて放たれる遠距離攻撃型の空間攻撃だ。これは、空間に刻まれた亀裂が対象に向かっていく攻撃であり、その攻撃には統魔が発見した対処法で対策可能だ。
もう一つは、今現在魔法壁を食い破ろうとしている空間攻撃であり、これは一定範囲内の空間を大きく削り取るような攻撃のようだった。そしてそれは、間になにかを挟み込むことで防げそうには見えなかった。
おそらく、野外音楽堂一帯を飲み込んだ空間攻撃と同じものだろう。
「全隊、退避しろ」
瑠璃彦が命じたのは、杖長だからである。この戦場の指揮権を持っている。
導士たちが速やかにその場から退避していったのも、彼が命令したからにほかならない。
瑠璃彦の命令によって、全ての導士たちが竜巻とそれを覆う魔法壁から大きく離れるのと、魔法壁が音を立てて崩壊するのはほとんど同時だったかもしれない。
巨大な異空間の穴が広がりを見せ、竜巻も消えて失せる。
バアル・ゼブルは、自分が生み出した竜巻ごと周囲の全てを飲み込んで見せたのだ。導士たちをも飲み込もうとしたのだろうが、それは統魔の機転によって妨げられた。
バアル・ゼブルが統魔を睨み付けるのも当然の結果に終わったのだ。
バアル・ゼブル。
鬼級幻魔にして、特別指定幻魔弐号。央都の陰に日向に跳梁跋扈する数少ない存在であったが、虚空事変によって消滅したかに思われていた。しかし、虚空事変による消滅は、バアル・ゼブルの死を確認できたものではなかった。
幻魔の死とは、魔晶核の破壊によって確定される。
肉体が崩れ去り、影も形も失われたからといって、それで確信してはいけないのだ。
幻魔の心臓たる魔晶核を完全に破壊してこそ、幻魔の死は確定し、確証を持つことができる。
虚空事変では、それが出来なかった。
星将たちの猛攻と、伊佐那美由理の破壊的な魔法によって、その肉体を完膚なきまでに粉砕したものの、それだけで確信できるものではなかったのだ。
実際、バアル・ゼブルは生きていた。
生きて、隠れ潜んでいたのだ。
この魔素異常地帯と化した大社山頂に。
「助かったぜ、人間ども。ちょうど腹を空かせていたんだ」
バアル・ゼブルは、腹を撫でるような仕草をして見せた。さっきまで上半身しかなかった幻魔の肉体は、完全に復元している。
(いや……)
統魔は、苦い顔をした。
復元どころではなかったからだ。
バアル・ゼブルは、灰色の幻魔と呼ぶに相応しい姿をしている。成人男性を想起させる姿形で、秀麗な顔立ちは、人間でさえあれば異性にも同性にも人気を博するだろう。灰色の髪は相変わらずボサボサだが、増量しているように見えた。
頭に乗せていた紅いサングラスはなくなっていて、代わりに赤黒い亀裂が、二つの目のように開いていた。顔面にある両目と合わせて、四つの目を持っているように見える。
そして、頭上には黒い環が浮かんでいるのだが、その環は、なぜかひび割れているのは変わらない。
体型は、痩せ形だが、均整が取れているというべきか。灰色の表皮には、複雑な紋様が浮かんでいて、それはこの変化に際して現れたものだった。紋様は黒く、全身に至っている。
その上から灰色のシャツを身につけているのだが、シャツには髑髏の模様が入っている。趣味が悪い。ズボンも灰色だ。灰色ずくめというべき格好だった。
背中からは、二対四枚の透明な翅が生えているが、元の大きさに戻っていた。
変化とは、微々たるものだ。しかし、その微々たる変化が、往々にして予期せぬ事態を引き起こすのが、幻魔という怪物だ。
「変化しやがったな」
「鬼級幻魔ですから」
統魔がつぶやけば、字が冷静に告げる。
妖級以下の幻魔には、個体差というものがほとんど見受けられない。姿形、体格、能力、性質――幻魔を構成するほとんど全てが、その種ごとに同じであり、差異がない。
例えば獣級幻魔ガルムという種は、燃え盛る炎の狼という姿であり、何百体、何千体のガルムを比較しても、違いがないのだ。それはガルムのみならず、妖級以下の幻魔全てにいえることだ。
しかし、鬼級幻魔は、そうした妖級以下の幻魔の常識から外れた存在である。
むしろ、鬼級幻魔には、個性しかなかった。個体差しかなかった。同じ姿形、体格、能力、性質の鬼級幻魔が二体以上存在することはないのではないか、といわれるほどに個性的であり、個体差が激しかった。
幻魔は、人類が定めた等級が上がるごとにその能力を大きく変化させる。生命力そのものが段違いであり、知性も魔力もなにもかもが異なるのだ。
鬼級幻魔たるバアル・ゼブルが魔晶体を復元させるとともにその外見に変化を起こしたところで、なんらおかしなことではなかった。
「貴様らに殺されかけて、死にかけて、腹を空かせて、ひたすらさまよっていたところだったんだ。本当に礼を言うよ。感謝する、ありがとう、おかげさまで、これでまたサタン様のために働ける」
バアル・ゼブルは、大袈裟なまでの身振り手振りで感情を表現しながら、いった。全周囲への警戒は欠かさないし、導士たちの魔法攻撃対策として自分の周囲の空間に亀裂を走らせている。いつでも空間攻撃を行い、魔法を喰らうといわんばかりだった。
そしてそれが悪手であるということは、この一連の流れから統魔も理解できた。
空間攻撃対策として魔力体を喰らわせるというのは、即ち、バアル・ゼブルの腹を満たすことに繋がるということが判明したのだ。
バアル・ゼブルの言を信じれば、彼は、虚空事変で負った傷を癒やすため、失った力を回復するため、この地をさまよっていたのだ。そこに皆代小隊が現れたものだから、ちょっかいを出してきた。
魔力を喰らい、回復するために。
そして、目論見通り、バアル・ゼブルは回復してしまった。
導士たちの魔法壁、魔法攻撃をまさに喰らい尽くし、取り込み、己の力に変えてしまったのだ。
空間攻撃を魔力体で防ぐのは、食い殺されるよりは増しだが、必ずしも上策とはいえないのかもしれない。法機を投げつける、あるいは別のなにかを食わせるのが、最上だろうか。
統魔は、そんなことを考えつつも、バアル・ゼブルとの距離を測り続けていた。目測にして十メートル。魔法士と幻魔の戦闘距離としては、遠すぎることもなく、近すぎることもない。が、鬼級幻魔が相手となれば、話は別だ。
近すぎる。
「だったらひとつ教えろよ、サタンサマってのはなんだ?」
統魔が、バアル・ゼブルに問うたのは、答えを期待してのことではない。時間を稼ぐためだった。
「知らないはずがないだろう。貴様らが特別指定幻魔壱号、通称ダークセラフと呼んでいる悪魔だよ」
バアル・ゼブルが嗤い、翅が羽撃いた。
羽音が、嵐を呼ぶ。