第二百四話 皆代小隊(三)
「生きてたんだな」
統魔は、上半身だけのバアル・ゼブルを睨み据えながら、言った。全身全霊で魔力を練り上げながら、警戒を怠らない。わずかでも気を抜けば、その瞬間に命は終わる。
鬼級幻魔とは、それほどまでに圧倒的な相手だ。
だからこそ、枝連は真っ先に防型魔法を発動させ、五人を魔法防壁で包み込んだ。
「……?」
バアル・ゼブルは、上半身だけで空中に浮かんだまま、小首を傾げた。統魔のいっていることがわからなかったからだ。が、すぐに察した。
「……ああ、残念だったなあ、あんなものでおれ様が死ぬものか。おれ様は、サタン様の腹心中の腹心、バアル・ゼブルだぞ」
「サタン? だれだそれは」
「知らないわけがないだろ、貴様らが」
バアル・ゼブルは、一笑に付すと、右腕を大きく振り回した。細長い灰色の指先が虚空を撫でるようだった。
「散開!」
統魔は叫び、同時に法機を投げつけた。大きく飛び退く。空中を走る赤黒い亀裂が巨大な怪物の口の如く開き、統魔たちに向かって直進してくる。そして、統魔の法機が赤黒い空間に飲み込まれると、口を塞ぎ、消えてなくなった。
バアル・ゼブルが、統魔を忌々しげに睨めつける。
「貴様……!」
「何度も見せられりゃあ、対策の一つも思いつくさ」
統魔は、したり顔で告げた。彼は、今日に至るまで、バアル・ゼブルに関する記録映像を何度も見返している。特定弐号と認定され、一度逃げおおせた以上、いつどこに現れるのかわかったものではなかったから、ということもあるが、幸多に重傷を負わせた相手でもある。
そして、虚空事変での消滅も、絶対的な確証が得られるものではなかったからだ。
バアル・ゼブルの魔晶核を完全に破壊したという確信が、当の伊佐那美由理にはなく、記録されてもいなかった。
故に統魔は、バアル・ゼブルの記録映像を漁った。もしも生きていた場合のことを考えれば、対策を練る必要があったからだ。
バアル・ゼブルの空間攻撃は、極めて凶悪かつ強力無比だ。どこからともなく現れ、問答無用で食い散らす。野外音楽堂一帯を消滅させたのも、空間攻撃なのだ。
空間ごと削り取っている。
しかし、それには明確な弱点があった。
それこそ、統魔が法機を投げつけた理由だ。
空間攻撃は、なにかに接触すると、それに食らいつき、口を閉じてしまう。
バアル・ゼブルがバアルとして現出したときの記録映像には、その模様がはっきりと映し出されていた。あの場にいた全ての導士を人質に取るようにして空間攻撃を展開したバアルだったが、伊佐那美由理によって空間攻撃と導士の間に出現した氷壁が、空間攻撃から導士の身を守ったのだ。空間攻撃は、氷壁ごと導士を喰らうのではなく、氷壁だけを喰らい、消失した。
ただし、それが弱点だと断定するには、あまりにも情報が少なかったため、戦団全体での情報共有には至らなかった。
しかも、虚空事変で完全に消滅してしまった可能性も、決して低くはなかった。
バアル・ゼブルの情報を共有する必要性は低く、故に統魔の頭の中に閉じ込めておいたのだが、それがいま役に立った。
「さっすがたいちょ」
「つまり、どういうことだ?」
「奴の空間攻撃は、なにかに当たるとそこまでってこった」
「ふむ?」
「とにかく、攻撃されたらなにかをぶつけろってこと!」
察しの悪い枝連に対し、剣が叫ぶようにいったときには、バアル・ゼブルが動いていた。上半身だけの体を怒りにわななかせ、魔力を迸らせる。その周囲に無数の紋様が浮かんでいた。
魔法の行使に際し、律像が浮かび上がるのは、なにも人間だけではない。
律像は、魔法の設計図であり、魔法を行使するためには設計図を想像する必要があるのだから、幻魔だろうと魔法を使おうとすれば、律像が浮かび上がるのは道理だった。そしてそれは、幻魔が理外の存在ではない、ということを証明してもいる。
人類と同じ法理の上に、存在している。
バアル・ゼブルの上半身を包み込むように展開する複雑で奇怪な律像は、統魔にも読み解けない。
皆代小隊の五人は、その場を飛び離れ、バアル・ゼブルが発する咆哮を聞いた。
赤黒い竜巻が幻魔の周囲の地面を抉り、巻き上げ、吹き飛ばす。広範囲に及ぶ風属性魔法が、破壊の嵐を巻き起こしているのだ。
「隊長、わたしたちは時間稼ぎだけで十分ですからね」
「わかってるさ」
字の忠告を聞きながら、しかし、それこそが至難の業だと言うことも理解している。
鬼級幻魔を相手に、この五人だけでどうやって時間を稼ぐというのか。
幸い、バアル・ゼブルは不完全な状態だ。どういうわけか下半身を失ったままであり、復元する様子も見せない。
幻魔は、心臓たる魔晶核さえ無事ならば、どれだけ肉体を損傷しても瞬く間に再生し、復元するものだと相場が決まっている。復元できないというのは、それだけ魔力を消耗しているからであり、魔晶核からの魔力の供給が追い着いていないからにほかならない。
それは要するに、バアル・ゼブルが窮地に陥っているという証でもある。
が、だからといって、統魔は、油断などはしなかったし、これを好機だなどとは判断しなかった。
相手は、鬼級幻魔だ。
その圧倒的な力は、虚空事変を思い返すまでもなく、身を以て思い知っている。
統魔は、バアル・ゼブルに殺されかけた。麒麟寺蒼秀の救援が間に合わなければ、間違いなく命を落としていただろう。
埋めがたい力の差がある。
五人の全力を合わせても、勝てるとは思えなかった。
とはいえ、この場を離れるなど論外だ。
そんなことをすれば、バアル・ゼブルが野放しになる。
特定弐号は、滅ぼすべきだ。滅ぼし、央都に暗躍する脅威を少しでも減らすべきなのだ。
逆巻く魔力の嵐が、いまや巨大な竜巻となって眼前に聳えていた。先程まで統魔たちがいた空間など消し飛ぶほどの大魔法であり、超威力だ。周辺の木々が根こそぎ吹き飛ばされ、土砂が舞い上がり、まさに災害の様相を呈している。
その災害が拡散しないように魔法防壁を展開しているのは、枝連だ。彼は、防型魔法の使い手であり、皆代小隊の護りの要である。
広範囲に及ぶ破壊を食い止めるべく巨大な防御障壁を構築する枝連を、字が別の魔法で支援する。
字は、補型魔法の使い手だ。
そして、統魔、香織、剣が攻型魔法をほぼ専門とし、皆代小隊の役割というのは、この三人が攻手、枝連が防手、字が補手となっている。
小隊編成において重要なのが、攻手、防手、補手という三つの役割の配分である。防型魔法に特化した防手は一人は欲しいし、攻型魔法専門の攻手も複数名は欲しい。もちろん、補型魔法の担い手たる補手も必要不可欠だ。
故に、四人編成の場合は、攻手二名、防手一名、補手一名が絶対とされる。
皆代小隊の場合は、剣を除く四人が初期隊員であり、そこに今年になって剣が加わった形だ。剣の加入で皆代小隊の攻撃力は大きく底上げされた。
が、だからといって鬼級幻魔に太刀打ちできるなどとは、統魔は思わない。
あのときとは違うのだ。
幸多を殺されかけ、我を忘れていたあのときとは、なにもかもが違う。
冷静に、状況を見ることが出来ている。
荒れ狂うバアル・ゼブルの魔法の被害を抑えようとする枝連と字に対し、さらなる協力者が現れた。
「瑠璃色小隊、現着! これより皆代小隊に加勢する!」
天地に響き渡るような大音声で告げてきたのは、第九軍団杖長・御所瑠璃彦である。
御所瑠璃彦率いる瑠璃色小隊は、既に作戦行動に映っていて、魔法防壁を展開し、暴風の拡散を抑え込み始めていた。
瑠璃色小隊は、八人小隊である。その八人中七人が魔法防壁に協力しているのだから、戦況が一変するのも当然だった。
瑠璃彦は、統魔の隣にまで移動してくると、肩を叩いた。
「よく我慢したな」
「はあ」
統魔は、なにやら満足げな瑠璃彦に生返事を浮かべた。彼がなにを満足しているのか、全く理解できないからだ。
杖長は、軍団における幹部とでもいうべき役職である。軍団長、副長に次ぐ立場であり、軍団に所属する小隊を纏める立ち位置にある。
杖長は各軍団に十人ずついて、多くの場合、煌光級以上の導士が任命される。
もちろん、瑠璃彦も煌光級だ。
この状況下で煌光級の導士が加勢してくれるというのは、あまりにも心強いのだが、統魔には、彼の言ってきた言葉の意味が理解できなかった。
瑠璃彦はといえば、以前、統魔がバアルに飛びかかった現場を目の当たりにしており、故にこそ、今回、統魔がバアル・ゼブルを前にして冷静に対処していることが嬉しくなったのだが。
統魔には、そんな瑠璃彦の内心など、わかるわけもない。
状況は、変わりつつある。
バアル・ゼブルの竜巻が、導士たちの魔法防壁によって押し込まれつつあるのだ。
瑠璃色小隊のみならず、周辺で任務中だった小隊が次々と参戦しているからだ。
『星将到着まで持ち堪えてください。もうしばらくの辛抱です』
作戦司令部の情報官からの極めて冷静な通信に、統魔も、頭が冷えるような気分だった。
逆巻く魔力の嵐の中心で、バアル・ゼブルの上半身は、天を睨み、統魔を睨んでいる。
赤黒い双眸とサングラスが、さながら四つの目のようだった。
そして、翅が巨大化した。