第百九十六話 特別(二)
幸多の目の前に展開された複数枚の幻板には、愛たちによって採取された幸多の肉体の一部、毛髪、細胞、体液などが大きく映し出されている。
毛髪も細胞も体液も、どれも何倍にも拡大して映し出されていることは明白だった。肉眼では見えないものがはっきりと見て取れる。
愛が端末を操作し、映像を動かすと、それら、つい先程まで幸多の肉体を構成していたものたちが、次第に変化していった。
まるで、砂のようになって崩れ去っていく。そして、ついには跡形もなくなってしまった。塵一つ残らず、消滅したのだ。
「ど、どういうことですか?」
幸多は、思わず声が上擦るのを認めたが、どうしようもない。自分の肉体の一部だったと告げられたものが跡形もなく消え去っていく様を見せつけられたのだ。驚きと衝撃と混乱が一挙に襲いかかってきて、頭の中を席巻している。まともに考えられないし、冷静にもなれない。
愛は、さらに別の幻板を幸多の前に表示した。そこには、やはり幸多の毛髪と思しきものが映っているのだが、こちらは崩壊していなかった。しかし、幾重もの保護膜のようなものが張り巡らされていることが見て取れる。
それはさながら、生まれ落ちたばかりのころの幸多のようだった。幾重にも取り囲む生体調整槽の中にいる、自分。
「きみは、完全無能者だ。そこに疑問を挟む余地はない。きみの毛髪も、細胞も、体液も――きみの体組織は、どれを取っても、きみの肉体を離れた瞬間からゆっくりと崩壊を始めていた。魔素を有していないから、地上の魔素圧に耐えられないんだ。そしてそれは必然といっていい。本来なら、きみ自身がそうなってもおかしくないんだ」
「ぼく自身が、こうなるのが必然……」
「実際、きみの肉体を離れた毛髪や細胞は、そうなっているからね。そうなって然るべきだ。しかし、きみは生きている。どういうことなんだろうね」
「ぼくは……」
幸多は、愛と幻板と自分を見回しながら、考え込んだ。自分が生きていることへの疑問を考えたことはなかった。そういうものなのだと、思っていた。肉体から離れてしまった毛髪や細胞が時間とともに崩壊するなど、知らなかった。知る由もなかった。
いま、その事実を目の当たりにして、茫然とする。
「実のところ、きみの体については、もっと時間をかけた検査が必要だと考えている。それにはおそらく技術局の協力も必要だろうし、準備にはいましばらくの時間がかかりそうだ」
愛が至極残念そうにいったが、幸多は、そんな彼女の言葉にはなにも返せなかった。
ただただ、自分の体の不思議さ、ありえなさ、異常さに気づかされ、愕然とするばかりだった。
幸多は、医務局医療棟を出てからも、考え込んでいた。
自分の体の不思議について、今の今まで考えなかったのは、無意識のうちに考えないようにしていたのではないか、と、思えてならなかった。
自分の体が他人のそれとはまるで異なるということは、物心ついたときにはわかっていた。ただの魔法不能者ではなく、完全無能者だということを教えられ、知り、理解していったからだ。
この世でただ一人の完全無能者。
稀有どころか唯一無二の存在。
魔法の恩恵を最大限受けることのできない体だということは理解していたし、そのことで不便を感じることはあっても、それが当然であると考えるようになっていた。それだけのことだ。それ以外の部分では、特に問題はなかった。それどころか、身体能力、特に運動能力は他人よりも圧倒的に高かったし、体も頑丈だった。
完全無能者故の不便さは、持ち前の身体能力で補うことができた。
少なくとも、戦団に入るまでは、だ。
そして、窮極幻想計画、F型兵装、白式武器があり、もはや完全無能者であることは、利点かもしれない、とさえ考えるようになりかけていた。
そんなとき、この肉体が常軌を逸しているのだという事実を突きつけられれば、考え込まざるを得ないだろう。
「皆代くん、どうしたの?」
不意に聞き覚えのある声が聞こえてきたものだから、幸多は、顔を上げた。無意識のうちに顔を俯けて歩いていた。
医療棟から総合訓練所に向かって歩いていた幸多に声をかけてきたのは、おどおどした様子の真っ黒な髪の少年であり、彼は、真っ白な髪の少年を盾にするようにしていた。
九十九黒乃と真白の兄弟だ。
「どうもしてないけど……」
「うん、全然どうもしてないようには見えなかったけど……だいじょうぶ?」
黒乃が、ことさら気遣うように話しかけてきたものだから、幸多は、どうしたものかと思い巡らせた。考え込んではいたものの、別段、落ち込んでいるわけでもないのだ。気遣わせたのは、なんだか申し訳なかった。
九十九兄弟は、二人だけで歩いていたようだった。戦団本部敷地内には、様々な施設がある。どこに向かっているのかなど、幸多にはわかりようもない。
「平気平気、なんてことないよ」
幸多は、黒乃に向けて笑顔を浮かべた。
「それならいいんだけどさ。良かったね、兄さん」
「なにがだよ」
「だって、兄さんが心配して声をかけようって――」
「だーっ! んなこたあいってねえっての! いってねえからな!」
などと、真白は肩を怒らせ、黒乃に圧をかけた上で幸多に念を押した。黒乃はそんな兄の反応にため息さえついたようだったが、真白は、弟の反応など気にも留めていない。
そんな正反対な二人の兄弟だったが、幸多が見る限りでは、圧倒的な仲の良さがあり、微笑ましくすら見えたものだった。
「あの一件で閃光級三位に昇進したんだってな」
真白が、幸多の隣を歩きながら、ぶっきらぼうにいった。
幸多が訓練所に向かうといったら、真白が付き合うといいだしたので、黒乃も一緒についてくる羽目になっていた。もっとも、黒乃も満更ではなさそうだ。
「まあ、あの一件だけじゃないけど」
とはいったものの、総長の発言を鑑みるに、仮に過去の数十件に及ぶ幻魔討伐実績がなくとも、あの一件だけで閃光級三位まで昇級させていた可能性は高い。総長を始めとする戦団上層部は、どうやってでも幸多を一刻も早く輝光級に上げ、小隊長にさせたいらしいのだ。それがもっとも効率的な幸多の運用方法だと考えているのだから、当たり前なのだろうが。
「おかげで助かったんだし、そんなに嫌味っぽくいわなくたっていいと思うけど……」
「誰が嫌味を言ったんだよ! おれは褒めてんだよ! 魔法不能者が妖級幻魔を斃したんだぞ!?」
「二人がいたからだよ」
幸多は、言い合いを始めようとする二人の間に割って入るようにして、言った。
そしてそれは本心だった。サイレンとの戦いを幸多が終わらせることができたのは、二人の協力があればこそだ。二人がいなければ、どんな戦いになっていたか。もしかしたら、観客に被害が出ていた可能性もある。
真白の超広範囲防御魔法と、黒乃の強力無比な攻撃魔法――九十九兄弟の協力なくしては、あの完全勝利はなかったのは紛れもない事実だ。
「ぼく一人じゃ、あんな結果にはならなかったと思う」
「そりゃあそうだな」
「またそうやって調子に乗る……」
「誰が調子こいてるって?」
「兄さん」
「黒乃てめえ」
「やめなよ、二人とも」
幸多は、いまにも取っ組み合いの喧嘩を始めようとする二人の間に割り込んだ。真白が黒乃に伸ばした手が幸多の横っ面を叩く。
「あ、ごめん」
「ごめんなさい、ごめんなさい、兄さんが迷惑ばっかりかけて」
「誰が迷惑ばかりの屑野郎だって?」
「だから、やめなってば」
幸多は、苦笑とともに真白の襟首を掴み、軽々と持ち上げて見せた。真白の手が空を切る。
「え?」
「おおー」
きょとんとする真白と目を輝かせる黒乃に対し、幸多は、なんともいえない顔をした。
九十九兄弟とは、なにかと縁があるが、こんな関係性の二人だとは思ってもみなかった。
強気な兄・真白と、弱気な弟・黒乃。
そんな二人を交えた訓練を行うことになっているのだが、果たして、どんなことになるのか、幸多には想像もつかなかった。