第百九十一話 きみのためにできること(七)
幸多は、愛理が落ち着くのを待った。
以前の彼女ならば、法器に跨がり、飛行魔法を使ってひとっ飛びにここまで飛んでこられたのだろうが、いまはそういう状態ではなかった。魔法を上手く使えないのだ。
だから彼女は、歩いてここまでやってきたのだ。
しかもただ歩いてきたわけではなく、全力で駆け抜けてきたのだろうということは、彼女の様子からはっきりと伝わってきていた。
愛理は生粋の魔法士である。
完全無能者の幸多とは、根本からして体の作りが違うのだ。
魔法の勉強こそすれ、肉体を鍛え抜いているわけではない以上、南海区の小学校からここ――中津区旭町まで走ってくるというのは、結構大変だ。
幸多にとっては極めて気楽な距離感だが、それは幸多が人並み外れた身体能力を誇るからこそだ。
愛理は、小学校からここに来る途中まではバスに乗ってきたらしい。河川敷近くのバス乗り場からここまでの距離はそれほどではないが、それでも全力疾走で来たのであれば大汗もかくだろうし、肩で息をするのも当然だった。
幸多の隣に座った愛理は、たっぷりと水分を取って、全身から噴き出した汗をタオルで拭ったころに、ようやく人心地がついたらしい。
それほどに急がなければならなかったのは、誰にも見つかりたくない一心からだろうし、それほどまでに追い詰められ、切羽詰まっているからだ。
そして、幸多は、そんな彼女の様子を見て想うのだ。
愛理は、自分で自分を追い詰めているのだ、と。
魔法を使えて当たり前であり、使えなければならないし、でなければ受かるはずの試験に受からなくなる。試験に合格するのもまた、彼女にとってはごくごく当たり前のことであって、不合格なんてあり得ないことだ、と、彼女だけでなく、家族や周囲の友人知人の誰もが想っているらしい。
それだけ彼女が幼い頃から優秀だったということだろう。
それほどの才能があるということは、戦団が既に目を付けていたとしてもおかしくはない。統魔がそうだったように。
統魔は、十歳の時に戦団に声をかけられ、星央魔導院へ入学することを勧められた。もちろん、星央魔導院への入学は、小学校を卒業してからという条件で、だが。
統魔は、試験を受ける必要がなかった。魔法士としての才能、実力が、既に入学条件を遥かに陵駕していて、座学においても十分すぎるほどのものがあったから、というのもあるが、それにしたって破格の扱いだったのは間違いないだろう。
統魔のような扱いを受けた人間は、他にはいなかった。
統魔の才能も実力も規格外であり、戦団が彼を特別扱いしたくなるのもわからなくはなかった。実際、その特別扱いに相応しい活躍をしてきたからこそ、あっという間に輝光級導士になれたのだ。
戦団の見る目は確かだ。
しかし、愛理は、統魔のような特別扱いはされていないようだった。統魔と同様の扱いを受けているのであれば、試験を受ける必要がなく、彼女が焦る必要も、苦悩することもないのだ。戦団の人々に相談するなりして、じっくり治していけばいい。
それだけの時間がある。
だが、現実はそうではなかった。
彼女には時間がなく、なんとしてでも、早急に事態を打開しなければならない。
「ばんのうしょうこうぐん?」
「うん。なんでも、よくあることらしいよ。特に、魔法士としての才能に満ちた人間には、ありふれたことなんだって」
「魔法士としての才能に満ち溢れた……」
「愛理ちゃんみたいな、ね」
「……わたし、才能、あるのかなあ」
昨夜とは打って変わって自信なさげにつぶやく少女の覇気のない表情を見て、幸多は椅子から立ち上がった。椅子から離れ、愛理と向き合う。
「あるよ。あるから、万能症候群を患ったんだよ」
そう、それはごくごくありふれた症状であり、優秀な魔法士ならば大半が患うものである、と、伊佐那美由理はいっていた。自分自身も患ったことがあるのだ、とも、美由理はいった。そのときは、時間が解決したらしい。
またそれは、昨夜統魔から直接聞いた証言によってより確かなものとなった。統魔も、万能症候群と思しきものにかかり、一苦労したという。それは星央魔導院時代の話であり、幸多の与り知らぬ所だった。
統魔は、幸多に弱みを見せるわけにはいかないから、そんなことをあった素振りすら見せなかったのだが、いまとなっては笑い話であり、だからこそ話してくれたようだった。
統魔も、時間が解決した、といっていた。
万能症候群の症例は様々であり、どのような方法で完治したのかも、人によって様々だという。大半は、時間が解決したとされていて、いつの間にか治っていることが多いようだった。
しかし、それでは、愛理は駄目なのだ。
もしかすると試験前日、試験直前に治る可能性もあるのだが、そんな可能性に賭けている場合ではない。
それでは、治らなかった場合が悲惨だ。
やはりここは能動的に治していくしかない。
では、どうすればいいのか。
「お兄ちゃん……」
愛理が、長椅子から降りて、地面に立つ。鞄から法器を取り出して、伸長させた。身の丈ほどもある法器を構える姿は、魔法士のそれだ。しかし、どこか心許ない。自信がないからだろう、と、幸多は推察する。
幸多は、愛理に自信を取り戻させなければならない、と、考えていた。
そのためにはどうするべきか、散々に考えた。考えに考え抜き、一つの結論に至っている。
「愛理ちゃん。ぼくは魔法不能者だ。生まれてから今日に至るまで、魔法を使えたことがない。だから、きみの痛みをわかってやることができない。きみの苦しみも、きみの悩みも、きみの哀しみも、きみの焦りも、全部を完璧に把握することができないのは、ぼくが魔法士じゃないからだと想う。ぼくが魔法士なら、きみにもっと力になってあげられるのに、と、想うよ」
それは、幸多の本音だ。自分が魔法士ならば、きっと、もっと適切な方法、適切なやり方で、彼女を苦悩から解放してやることができたはずだ。それは勝手な思い込みで、勘違いなのかもしれないが、魔法士ならば、それくらい出来て欲しい、とも想うのだ。
万能症候群、という。
魔法が万能の力だと信じられていた時代に生まれた名称を考えれば、当然だ。
魔法は万能の力なのだろう、と、幸多は叫びたかった。
だったら、愛理の苦悩の一つや二つ、一瞬で解決してくれたっていいじゃないか、と。
けれども、幸多は、魔法士ではない。魔法不能者で、完全無能者だ。全く魔法と縁のない人間であり、故に万能からもっとも遠い存在だ。
だからこそ、できることとはなにか。
「ぼくがきみのためにできることなんて、たかが知れている。きっと、ほかにもっとやりようがあるんだと想う。けれどもぼくにはほかに方法が思いつかないから、さ」
幸多は、愛理に多少申し訳なく想うのだ。もし自分が魔法士なら、と、何度も、何度も考えた。しかし、どれだけ考えたところで、現実はなにも変わらない。完全無能者である事実は裏返ったり、変化したりはしない。
突然、魔法が使えるようになったりはしない。
だから、できることは限られている。
幸多は、愛理の目を見つめた。きらきらと輝く白銀の瞳が、幸多だけを見ている。
「さあ、愛理ちゃん。ぼくを飛ばしてごらん」
「お兄ちゃんを……飛ばす?」
愛理は、当惑を隠せなかった。
「そう、ぼくを空高く飛ばすんだ」
幸多は、愛理を見て、空を見上げた。晴れやかな夏の空が、遠く、どこまでも続いているようだった。雲の数は少なく、太陽は西に傾いている。
風は緩やかで、河川敷の草花が揺れていた。
「ぼくなら、安心だろう? それとも、愛理ちゃん、きみはぼくを信じられないかな」
幸多が再び視線を愛理に戻せば、少女は、首を左右に振った。
「そんなことない! そんなことないよ!」
愛理は、強い口調で宣言した。
「わたし、お兄ちゃんを信じるって決めたから!」
二度も助けられた上、相談に乗ってくれただけでなく、あの直後から今日に至るまで、万能症候群とやらの解決策を探して走り回ってくれていたらしいということがわかったのだ。
見ず知らずの赤の他人に、これほど親身になってくれる人間がいるだろうか。
これほどまでに全力を尽くしてくれる人が、この世のどこにいるというのか。
愛理が幸多に全幅の信頼を寄せるのは、当然の結果だった。
だから、愛理は、幸多の胸の中に全力で飛び込むようにして、魔法を唱えるのだ。
「飛天!」