第百八十八話 きみのためにできること(四)
「これは、見えるな?」
美由理がそう質問してきたときには、幸多の目は、確かにそれを見ていた。
美由理の幻想体、その導衣を纏う凜々しくも美しい姿にはいつまでも見惚れていたいと想うほどだが、それよりも、その周囲に浮かび上がった紋様にこそ、注目するべきだった。美由理を包み込むようにして、複雑で精緻な紋様が浮かび上がったのは、突然のことだった。
幾何学的とでもいうべきか。とにかく、不可思議な紋様だった。
「それが律像……なんですね」
幸多は、初めて目の当たりにするその紋様については、やはり心当たりがあった。魔法における基礎であり、学校で教わることだからだ。
「そうだ。これが律像だ」
美由理が肯定すると、彼女の周囲を取り囲んでいた紋様が絡み合い、変形し、膨張し、幾重にも折り重なって複雑化していった。
律像、と呼ぶ。
これが、魔法を発動するための第二段階である。
第一段階である魔力の練成を終えた魔法士は、次に律像の形成を行わなければならない。
律像とは、なにか。
「魔を練り上げて力と成し、律を形作りて像と成す――これが魔法の基礎中の基礎、基本中の基本だ」
美由理は、そういって、右腕を掲げた。人差し指が虚空を指し示す。そのときには、それまで複雑怪奇を極めていた紋様が、あっさりとしたわかりやすい形状へと変わっていた。
直前までの複雑な律像よりも、という意味で、だ。
複雑なものは複雑なままであって、決して分解してわかりやすくなってりはしない。
「六百壱式冷槍」
美由理が真言を唱えた瞬間、彼女の周囲に浮かぶ紋様が強い光を発したかに思えた。それと同時に、美由理が翳した指先から、膨大な冷気が生じ、一瞬にして凝縮するともに投射される。
六百壱式冷槍は、氷の槍を投射する伊佐那流魔導戦技である。
幸多がどこまでも飛んでいく氷の槍から美由理に視線を戻すと、師の周囲に浮かんでいた紋様は消失していた。
魔法が発動したからだ。
「このように、魔法の効果、内容は、律像に現れる」
「律像とは魔法の設計図、ですもんね」
「そうだ。故に、魔法士同士の戦いというのは、後の先の取り合いになる場合も、ある」
美由理が、再び律像を形成しながら、いう。
律像とは魔法の設計図である、というのは、魔法の基礎しか知らない幸多でも知っていることであり、極めて有名な文言だ。そして、それが事実だからこそ、知れ渡っている。子供でも知っているだろうし、魔法士ならばなおさらだ。
しかし、幸多は、これまで律像を実際に目の当たりにしたことがなかった。
魔法を学ぶ中で当然のように知ることではあったし、映像として再現された律像ならばいくらでも見たことがあった。それが魔法士の視覚であり、幸多には、完全無能者には縁のないものなのだと思い知ったものだった。
ただの魔法不能者には見えているらしい、という話を聞いたことがある。
ただの魔法不能者は、魔素を内包している。だから、魔素を一切内包していない完全無能者とは、なにもかもが違うのだ。
完全無能者の目には見えないものが、魔法不能者には見えている。魔法士たちと同じ視覚を持っているのだ。
そして、いままさにそれが実感として理解できた。
この幻想体を巡る魔素が、幸多に魔法士の視覚を与え、律像を知覚させているのだ。
もちろん、すべては幻想空間に再現された情報に過ぎないのだが、幻想空間の再現率はほぼほぼ完璧であり、現実との差違はほとんどないといっていい。
それはつまり、幸多が魔法士として生まれていたのであれば見られた光景だということだ。
「魔法とは、想像だ。魔法士の想像力が形となって具現したものが魔法なのだ。そして、魔法を想像することによって、律像は形成される。それは絶対の摂理であり、どれほど魔法技量の優れた魔法士であれ、律像を形成せずに魔法を使うことはできない」
美由理ほどの魔法士がそういうのだから、説得力は凄まじい。
「もっとも、律像を欺瞞することも不可能ではないが……これはいまは関係ないな」
複雑怪奇としか言いようのない律像を浮かべながら、美由理はいった。美由理の周囲に浮かぶ魔法の設計図は、無限に変化し、無数に形を変えている最中である。
律像は、魔法の設計図だ。
先程、美由理がいったように、熟練の魔法士同士の戦いとなれば、律像から魔法の属性、性質、意図などを読み取り、対応する魔法をすぐさま行使することによって相殺したり、手痛い反撃を試みることができる。そして、そうした魔法戦となれば、律像に偽の情報を織り交ぜることで相手に読めなくするという戦法も、極めて高度だが、重要となる。
もっとも、いまは関係なければ、幸多にはまったく無縁の話だった。現実の幸多は律像を見ることが出来ないし、見れたとして、対応する魔法を使うことも出来ないのだ。律像から魔法の性質を読み切れれば、攻撃を躱しやすくなりはするのだろうが。
「さて、律像は魔法の設計図と、きみはいった。そしてそれはその通りであり、基本的に魔法というのは、律像の通りに具現するものだ。故に律像を見て、対策を取ることが出来るわけだが、そして、律像は、魔法の発動とともに消失する
」
美由理は、律像を複雑な図形から変化させ、より単純な紋様を並べていく。そして、真言を唱えた。
「拾六式飛翼」
美由理を包む律像が光を放ったかと思うと、そのすらりとした長身がふわりと空中に浮き上がった。大気が渦巻き、長い髪が舞い上がる。そして、その瞬間には、美由理の周囲にあったはずの律像は消えていた。
「このように飛行魔法のような、いわゆる持続型、継続型の魔法の場合であっても、律像は発動した瞬間に消える。発動しているのだから当然だがな」
美由理が空を飛び、幸多の背後にゆっくりと回り込むように移動していく。幸多は、その姿を目で追った。まるで天女のようだ、と、思わずにはいられない。
「その少女が、飛行魔法の発動中、持続中に失敗したというのであれば、魔法の発動そのものには成功しているということだ。それはつまり、少女の魔法の基礎設計に問題がないということを意味する」
だからこそ、美由理は万能症候群に思い至ったのだが。
「魔力の練成、律像の形成に成功し、真言の発声を行えている以上、問題があるとすれば、やはり少女の精神面、心理面にあるのだろう」
「精神面、心理面……」
幸多は、美由理の言葉を反芻しながら、やはり、と考える。緊張が、彼女の魔法の制御を失敗においやっているのではないか。
すると、美由理が似たような、しかし、多少異なる考えを提示する。
「おそらく、だが、その少女は、魔法を使うことが怖くなっているのではないか」
「魔法を使うのが怖い?」
「少女のことをよく知らないわたしが、きみからの情報だけで断言するのは難しいが、状況から考えるに、そのように思う。最初は、周囲の期待に応えなければならないという責任感や重圧が、少女の魔法を失敗させたのだろう。それだけならば、良かった。だが、失敗も重なれば、自信の喪失に繋がる。やがて、魔法を使うことへの恐怖となり、恐怖が魔法の制御を不可能にしているのではないかな」
美由理は、空中を自在に移動しながら、考えを述べていく。飛行魔法の発動後、彼女は追加で魔法を発動したわけではない。飛行魔法を維持し、制御し、速度を上げたり、高度を変化させることで飛び回っているのだ。
砂部愛理には、それが出来ていなかった。
飛行魔法を発動させることは出来ても、維持することが出来ていなかったのだ。
「魔法が発動しているということは、そこに至るまでの経緯は完璧だということだ。なにか一つでも問題があれば、魔法が発動する時点で暴発するか、そもそも発動しないものだ。発動した上で制御できなくなるということは、万能症候群以外には考えられないが、万能症候群の症例は数多とあり、どれなのかと断定することは出来ない。だから、わたしの考えが間違っている可能性も否定できないのだが……」
「ぼくは、師匠を信じます」
幸多は、美由理の目を真っ直ぐに見つめ、いった。
幸多は、愛理のそれを緊張由来のものだと考えていたが、美由理という全く別の視点、別の観点から導き出された、魔法への恐怖という回答には、大いに納得できた。そもそも、幸多は魔法士ではない。魔法士の苦悩が十全に理解できるはずもないのだ。
「そうか。では、きみに問おう」
「はい?」
「きみは、少女のためになにが出来る?」
美由理は、問う。
「どうすれば、少女から魔法を使うことへの恐怖心を取り除くことが出来ると想う?」
「ぼくが……出来ること」
「そうだ。これはきみにしかできないことだ。わたしには、見ず知らずの少女のために時間を割くだけの暇はない。弟子であるきみのためにできることはあっても、だ。では、きみは、どうする?」
美由理は、幸多の目を真っ直ぐに見つめ、問うた。
幸多は、美由理を見つめ返しながら、考え込んだ。群青の瞳の奥に眩い光があって、それが幸多を射抜いているような、そんな感覚さえもあったが、気のせいだろう。ただ、見つめられている。それだけのことだが、それだけのことで気が引き締まるようだった。
試されている、というのは、勘違いなどではあるまい。
師として、弟子を試している。
幸多は、そう受け止めて、大きく息を吸った。そして、胸を満たした空気をゆっくりと吐き出す。
「……ひとつ、思いつきました。それが正しいかどうかわかりませんが」
「そうか。それなら、良かった」
美由理は、地上に降り立ち、幸多に微笑を向けた。
(……きみのためにできること、か)
幸多は、真夜中の央都の空を見上げ、胸中、つぶやいた。
師・美由理から教えられたことはとてつもなく大きく、得られるものは多かった。魔法士の肉体を通してみる世界は、幸多の知る世界とは全く異なるものであり、魔法士たちがどのようにして戦いを繰り広げているのかも、実感として理解できた。
そして、砂部愛理。
あの少女のためになにが出来るのか、と、幸多は考え続ける。
幸多は、緊張を由来とするものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないのではないか、という結論に至った。恐怖。魔法を使うことへの恐怖心が、制御不能に陥らせているのではないか。
緊張と恐怖は、全く違うものだ。
緊張を解きほぐすのと、恐怖を消し去るというのとでは、そのやり方からして大きく異なることになるだろう
幸多が思いついたことは、ひとつ。
それが正しく彼女の恐怖心とやらを取り除けるのかは、わからない。
けれども、いまはほかに方法が思いつかないのも事実だった。
美由理は、手がかりを与えてくれた。
答えではなく、手がかり。
それは、美由理が師匠として弟子を育成するためでもあるだろうし、幸多が持ち込んできた問題なのだから、幸多が解決しなければならないという意図もあるのだろう。
そう、幸多は、受け取った。