第百八十四話 砂部愛理(二)
愛理の苦悩は、魔法士ならではのものであり、魔法不能者にして完全無能者である幸多には、十分に理解できるものではなかった。
少なくとも、完全に把握するのは困難を極める類の苦悩だ。
生まれながら魔法士としての才能に恵まれ、幼少期から神童、天才児と呼ばれるほどの能力を発揮してきた彼女が、ここのところ、突如として魔法が制御できなくなった、というのだ。
幸多には、そんな経験もなければ、そのような状況を想像したこともないし、想定もできない。
「制御できなくなった、っていうのは、具体的にはどういうことなのかな」
幸多が疑問を口にすると、愛理は、顔をしかめた。どう伝えればいいのかわからないといった様子だったが、考えているうちにいいことを思いついたようにして、手にしていた法器に跨がった。
「見てて、お兄ちゃん」
愛理は、いうが早いか、法器に設定された真言を唱えた。
「飛空!」
真言に紐付けられた法器の機能が動き出せば、愛理の体内の魔素が魔力へと練成され、瞬時に設定された魔法が発動する。
法器は、魔法を簡易的に発動するための魔具であり、魔機だ。魔法を構成する律像が電子化され、紋象として組み込まれており、対応する真言を発するだけで、法器を手にした魔法士は、その紋象が意味する魔法を行使することができる。
それはつまり、魔法を行使するために必要な三つの手順のうち、二つまでを省略することができるということであり、法器は、熟練の魔法士にとっても必要不可欠な存在だった。
一般市民には、攻撃的な魔法の使用は禁じられ、企業がそうした魔法を法器に組み込むことも禁じられているが、戦団ならば話は別だ。戦闘に必要な様々な魔法が、法器の発展系である法機や導衣に組み込まれており、幻魔や魔法犯罪者との戦いを補佐している。
愛理が飛行魔法を発動させると、法器に跨がったまま空高く舞い上がった。それは紛れもなく魔法の行使であり、幸多の目には、彼女が魔法不能障害を患っているようには見えなかった。
魔法不能障害を患った人間は、そもそも、魔砲の発動にすら至れない。
つまり、彼女は、後天的な魔法不能障害などではないということは、明白だ。
そして、愛理は空を舞った。法器に跨がり、地上五メートル程度の高度を自由自在に飛び回る。その動きを見る限り、彼女の飛行魔法の精度も、小学生とは思えないほどに素晴らしいものに思えてならない。
大気を切り裂くように空を舞う。
が、それも短い時間のことだった。
突如として上空に閃光が煌めき、破裂音がしたかと思うと、愛理が法器の上から弾き出されるようにして落下してきたものだから、幸多はすぐさま飛び出し、落ちてくる少女を受け止めた。愛理は、幸多の腕の中で、少しばかりほっとしたような顔をした。そして、つぶやく。
「こうなるの」
「……うん、なんとなく、わかったよ」
幸多は、愛理を抱き抱えたまま着地して、いった。
どういうことなのかまったく理解はできないが、彼女がどういう事態に直面しているのかは、理解した。
愛理は、魔法を使うことはできる。それも並外れた魔法技量のようだった。が、どういうわけか、その制御が途中で上手く行かなくなる――らしい。
幸多には、それがなにを意味するのかは、まったく想像がつかない。魔法士ではないのだ。魔法の勉強こそしてきているが、しかし、魔法士のように実感として理解できたことはなかったし、魔法士ほど研鑽を積んできたわけもない。
ただ、この悩みを解決するために力になってやりたい、とは、思った。
そして幸多が愛理を地面に降ろすと、彼女は、多少、名残惜しそうな表情を見せる。
「ありがとう、お兄ちゃん。また、助けてくれたね」
「当然だよ。でも、そうだね。解決策が見つかるまでは、あまり飛び回らない方がいいんじゃないかな」
地上五メートル程度の高度ならば、落下しても問題はないだろう。地上十メートルでも、人は死なない。少なくとも、現代の人間は、そんなことで死ぬようには出来ていない。頑丈なのだ。
しかし、と、幸多は考える。
飛行魔法の制御が効かず、暴走した挙げ句、より高くまで跳ね飛ばされる可能性だって、大いにあった。
最初に幸多が彼女を助けたときなど、かなりの高度であり、もしあのまま落下していれば大怪我を負っていたかもしれない。
だからこそ、幸多はそう提案したのだが、愛理は顔を曇らせるのだ。
「そういうわけにはいかないよ」
「どうして?」
「もうすぐ試験があるの」
「試験?」
「うん、試験。星央魔導院の早期入学試験がね、もうすぐあるの」
星央魔導院に入り、戦団に入ることが愛理の夢であり、そのためにも早期入学試験を受けたいというのは、わからないことではなかった。
星央魔導院は、ここのところ入学試験の合格倍率が極めて高いことで知られているが、早期入学試験を行うようになったのも、倍率の増加に拍車をかけているのだろう。
早期入学試験とは、星央魔導院の入学に適した年齢でなくても受けることのできる試験であり、若く才能のある人材を見つけ出すための制度といえた。
そしてそれはつまり、彼女が今年度十二歳になるわけではないということを示している。
それから、彼女は自信満々に続けた。
「座学はいいの。きっと満点だから」
「満点」
「うん。頭いいの、わたし」
「そ、そうなんだ」
一連の発言から、愛理が、とてつもない自尊心と自負心の持ち主であることが窺い知れたが、それだけの実績があるのだろうということも想像がついた。愛理の自分自身に対する評価は、いつだって客観的だ。冷静に自分の実力を見ることができている。
幼い頃から神童や天才児と持ち上げられながらも、そこに胡座をかかず、勉強と修練を欠かしてこなかったからこそ身についた自信でもあるのだろう。
それは素晴らしいことだ、と、幸多は想う。彼女のような自信家には、心覚えがあった。
統魔だ。
どうも、幸多は、彼女に幼い頃の統魔の姿が重なって仕方がなかった。
統魔は、いつだって自分の勝利を信じて疑わない自信家であり、自尊心の塊のような少年だった。そして、その自信と自尊心は、圧倒的な才能と実力に裏打ちされたものであり、だからこそ不快感などなかったのだ。
屈託がない。
それは、愛理にも言えることだ。
他者を見下したり、馬鹿にしているわけではなく、ただ、己に自信があるだけなのだ。
そして、だからこそ、幸多にはとてつもなく眩しく、輝かしく見える。
幸多にとっては全く無縁の領域だった。
幸多は、確かに素の身体能力だけは誰にも負けないという自信はあったし、それも実力に裏打ちされたものだった。
だが、魔法が使えないというその一点があることによって、統魔や愛理のようにはなれなかった。
卑下せざるを得ない。
魔法が使えないのだ。
この魔法全盛ともいえる時代にあって、それは、大きな難点であり、弱点であり、欠点であった。
魔法が使えないという時点で、星央魔導院など門前払いだろう。星央魔導院だけではない。戦団だって、そうだ。対抗戦優勝という裏技じみた方法を使わなければ、戦闘部に入ることなどできなかったのだ。
それが、魔法社会の現実である。
「でも、試験は、座学だけじゃなくて、魔法も使えないと駄目なの。だから、いまのままじゃ……」
合格できない、と、愛理はいうのだが。
幸多は、疑問を持った。早期入学試験を受けるのは、入学に必要な条件を満たしていない年齢に限った話だ。つまり、本来の入学試験まではまだまだ時間がある、ということでもある。
それだけの時間があれば、愛理が直面している問題を解決することだって、決して難しくはないのではないか。
幸多は、問いかけた。
「早期入学試験に合格しないと駄目なのかな?」
「……うん」
愛理が小さく頷く。
「皆が、それを期待してるの。お父さんもお母さんも、皆、わたしが早期入学試験に合格するって、信じてるの」
愛理の声は、深く重く、沈み込むようだった。その言葉の一つ一つに、彼女がなぜ誰にも相談できないのかが現れているようだった。
愛理の周囲の人達が、彼女に多大な期待を寄せているのだ。合格して当たり前、とでもいわんばかりの期待。それ故、彼女は、自分が陥っている事態を打ち明けることができないのだ。
だからこそ、幸多のような、なんの面識もなかった、けれども戦団の導士というこの上なく信頼の置くことの出来る人間に相談を持ちかけたのだろう。
「その期待に応えたいんだね、きみは」
「応えなきゃ、いけないの」
愛理が、決然としたまなざしを幸多に見せた。
幸多は、そんな彼女の期待にこそ、応えなければならない、と、思った。