第百八十三話 砂部愛理(一)
「わたし、ここのところずっと悩んでて……でも、誰にも相談できなくて……苦しくて……辛くて……」
砂部愛理は、法器を抱え込みながら、心情を吐露していく。
夜を目前に控えた未来河の河川敷には、いくつもの長椅子が並んでいるのだが、そのほとんどは使われてすらいない。
使われているのは、幸多と愛理が座っている長椅子だけで、人気もなかった。未来河の中心とも言うべき万世橋から遠く離れていることも関係しているだろうが、時間帯の影響も少なくないだろう。
少し前まで熱を帯びていた風は、いまや夜気を秘め、気温が下がりつつあることを示している。川面には街灯の光が跳ね返っていて、夕日はとっくに消え失せていた。
遥か頭上は、夜の闇が覆いつつあるのだが、その中に無数の星々が輝き始めてもいる。星の光は、強く、激しい。
「誰にも相談出来ない悩み?」
幸多は、愛理の深く沈み込んだ横顔を見つめながら、疑問に思った。それほどの悩みを、見ず知らずの人間に聞いてもらおうとするだろうか。幸多は、彼女にとって全くの赤の他人だ。二度助けただけの間柄でしかない。
その程度の関係の相手に相談を持ちかけなければならないほどだ。
愛理がこの上なく精神的に追い詰められているらしいということは、法器を抱き抱える少女の横顔からも見て取れた。切羽詰まっている。
「おかしいよね。見ず知らずの人に相談するなんて。でも、父さんも母さんにも、友達や先生にも、相談できないの。相談しようとはしたよ。でも、でもね、無理なの。どうしても、出来なくて、それで……」
「導士であるぼくなら、打ち明けることができると?」
「あの……皆代さんには迷惑かもしれないけど、その……」
「迷惑なんかじゃないよ」
幸多は、おずおずとこちらを見上げてきた愛理の目を見つめ返し、微笑みかけた。
「導士は、ただ幻魔と戦うだけに非ず。央都市民を助けることこそ、導士の本分なり――ってね。ぼくに出来ることなんて限られているかもしれないけど、力になるよ」
「あ……ありがとう、お兄ちゃん!」
「お、お兄ちゃん……?」
「あ、いや、その……わたし、一人っ子で、それで、あの……皆代さんみたいなお兄ちゃんがいたら最高だったな、って、最近思ってて……」
しどろもどろになりながら、愛理はいった。普段思っていたことが思わず漏れ出てしまったことで、愛理は、恥ずかしさの余り全身の体温が急上昇していくのがわかった。顔などは真っ赤になっていたし、手も足も燃えるようだった。
最初に幸多に助けられてからというもの、愛理は、彼のことを考える時間が増えた。幸多に想いを馳せる内、頭の中で、心の内で、お兄ちゃんと呼びかけてさえいたのだ。
それが、無意識に発露してしまった。
愛理にとって、これほど気まずく、恥ずかしいことはなかった。
そんな愛理の気恥ずかしそうな表情に幸多は、優しく笑い返す。
「そっか。ぼくも、そうだね。小さいころはずっと兄弟が欲しかったな」
でも、子供心にも、そんな残酷なことを両親に願えるはずもなかった。
幸多の父も母も、生まれてきた子供が完全無能者だったことで、これ以上子供を設けようとは思わなくなっていたのだ。幸多の世話だけで手一杯ということも厳然たる事実としてあったのだろうが、次に生まれてきた子供が魔法不能者である可能性が限りなく低いということもあったはずだ。
魔法不能者と魔法士の兄弟を育てるというのは、簡単なことではない。少なくとも、一人の魔法不能者を育てるよりもずっと難しいだろう。
だから、幸星も奏恵も、幸多一人に全力を注ごうとしたのだ。
もっとも、皆代家には、すぐに統魔という家族が増えたのだが。
「まあ、なんとでも呼んでくれて構わないよ」
「じゃ、じゃあ、お兄ちゃんって、呼ばせてもらうね!」
愛理は、少しばかり照れくさくなりながらも、心底ほっとした。嫌われたりはしないか、と、心配で仕方がなかったからだ。しかし、幸多の笑顔を見れば、そんなことを心配する必要は一切なさそうだった。柔和で、穏やかな笑みは、愛理の心を優しく包み込んでいく。
それからしばらくの間を置いて、愛理は、幸多に悩みを打ち明けた。
「……魔法が、上手く使えなくなったの」
「え?」
幸多は、思わぬ告白にきょとんとした。幸多が愛理を助けたのは、二度とも、空中から落下している最中のことだ。それはつまり、彼女が法器を用いながらも飛行魔法を行使していたことにほかならない。
「空、飛んでたよね?」
「うん。でも、すぐに制御できなくなって、落ちちゃうの」
愛理は、夜空を仰ぎ見て、いった。
今日に至るまでに何度となく遥か上空から落下したという記憶が、彼女の脳裏を過っていた。落下する度に多少なりとも怪我をする。が、法定高度から落下する程度では、重傷を負うことも、死ぬこともない。軽い怪我なら、魔法ですぐに治る。
人体は頑丈にできている。
だからこそ、愛理は、何度となく空を飛んだ。そして、そのたびに落下してきたのだが。
幸多が、愛理の話を聞くなりすぐに思いついたのは、魔法不能障害だった。後天的な魔法不能障害は、魔法士ならば誰もが発症する可能性がある。
アルカナプリズムのボーカル・天野光のように。
しかし、と、幸多は、頭の中で首を横に振るのだ。魔法不能障害とは、そもそも、魔法が完璧に使えなくなるものだ。魔力の練成が出来なくなったり、魔法を想像することが出来なくなったり、ともかく、魔法の発動まで至るということがない。
一方、愛理は、魔法を発動させることには成功していた。少なくとも、高高度まで飛行できている時点で、後天的魔法不能障害とは全く異なるものであろう。
「それを相談できない?」
「うん。だって、わたし、天才なんだよ」
「天才」
幸多は、愛理がどこか他人事のようにいうのを見て、反芻するように呟いた。
「皆、そういうの。小さいときから魔法が使えたから、神童だの、天才児だの、奇跡の子だのなんだのって、皆がわたしを褒めてくれるの」
愛理は、またしても遠い目をして、いった。まるで他人事だ。客観的に、他人からの評価について語ることができている、ということだろう。そして、それが事実なのだろうということは、彼女の冷静極まりない様子からも明らかだ。嘘をついているようには見えない。
そして、それだけ賞賛されるということは、実際、その通りだったのだろう、と、幸多は彼女の発言を聞きながら思った。
統魔や草薙真がそうであったように、幼いころから魔法を使うことのできる人間というのは、周囲の人々からとにかく褒め称えられるものであり、持ち上げられるものだ。やれ神童だの、やれ天才児だの、やれ麒麟児だの、と、持ち上げるだけ持ち上げる。
魔法社会だ。
魔法技量こそが全てで、魔法士としての能力が高ければ高いほど、賞賛され、認められ、褒めそやされる。
それは、魔法時代が開幕してから今日に至るまで一切変わらない社会の在り様であり、いつ頃からか人々にとっての絶対的な価値基準となった。
当然、魔法を使えない人間の価値は低い。
「父さんも母さんも伯父さんも伯母さんも皆皆、わたしに期待してくれてる。わたしならきっと星央魔導院に入れるって、星央魔導院に入って、戦団に入って、活躍できるって、信じてくれてるの」
「星央魔導院に入りたいんだ?」
「うん!」
愛理は、幸多の質問に力強く頷く。
その反応一つで、それが彼女自身の意思であるということがわかろうというものだった。
愛理は長椅子から立ち上がって、幸多に向き直った。法器を構え、天に翳す。それはさながら、戦団の導士の仕草を真似ているようだった。
「わたし、美由理様みたいになりたいの!」
愛理が興奮気味に発した導士の名は、彼女のみならず、多くの魔法士、導士たちにとって目標となる人物のそれであり、幸多は目を細めた。
「師匠みたいに、か」
「師匠……そうだ、お兄ちゃんって、美由理様のお弟子さんなんだよね! 凄いね、凄い!」
愛理が大きな目をこの上なく輝かせてくるものだから、幸多もなんだか気恥ずかしくなった。
「いやあ、師匠が凄いだけだよ」
「そんなことないよ! お兄ちゃんも凄いよ! だって、お兄ちゃん、魔法不能者なのに幻魔を斃したんだよ! 歴史に残る快挙だよ! 皆そういってるもん!」
愛理が力説するのは、幸多に対する世間の評価である。
初任務で獣級幻魔を二体撃破したことは無論のこと、昨日の大事件の際、幸多が妖級幻魔サイレンを討伐せしめたという事実は、様々な情報媒体で大きく取り扱われていた。
戦闘部初の魔法不能者の導士が、見事に幻魔討伐を成し遂げたのだ。
それは確かに評価に値するのだろうが、それもこれも第四開発室の全面的な支援と、F型兵装のおかげだと幸多は認識していた。もちろん、幻魔を討伐せしめたという事実が嬉しくないわけもないのだが。
「ありがとう、砂部さん」
幸多は、愛理の力説ぶりに圧倒されながらも、感謝を述べた。すると、愛理が少しばかり不満そうな顔をした。
「愛理」
「ん?」
「愛理だよ、わたしの名前」
「そ、そうだね、愛理……ちゃん」
幸多は、愛理の気迫に押され、どう呼ぶべきか迷った挙げ句、そう呼んだ。
「うん!」
愛理は、名を呼ばれたことが嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべた。
それだけで、多少なりとも救われた気がするのは、あまりにも都合が良すぎる考え方だろうが。