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第百七十八話 結末

 凍り付いたように止まっていた時間は、美由理によって月黄泉つくよみが解除されるのと同時に動き出した。

 バアル・ゼブルの上半身が突如として無数の氷塊に押し潰されていく中、上空から降ってきた巨大な亀裂が、さながら異形の怪物の口の如く、野外音楽堂を中心とする広範囲の地面を、空間を、瞬く間に飲み込んでいったのだ。

 それは、あっという間の出来事であり、時間にして数秒にも満たなかった

 無数の氷塊に押し潰されたバアル・ゼブルの上半身もまた、自らが生み出した異空間の中に飲まれ、消えた。

 大社山たいしゃさんの山頂に残ったのは、巨大なクレーターのように深く大きく抉り取られた爪痕であり、そこにはまるで獰猛どうもうな獣が食らいついたかのような亀裂が無数に刻まれていた。

 それだけだ。

 それ以外、なにもなかった。

 野外音楽堂も、野外音楽堂を構成していた様々な施設も、その付属物すら、欠片一つ残らず、消え去ってしまった。

 バアル・ゼブルの生み出した異空間に飲み込まれ、消滅したのだ。

 ただし、その空間攻撃による犠牲者は、一人もいない。

 美由理が時間を止め、幸多こうたとともに攻撃範囲外に運び出すことに成功したこともあり、一般市民は無論のこと、導士どうし一人として巻き込まれずに済んでいた。

 幸多は、もはや跡形も残っていない野外音楽堂の跡地に刻まれた巨大な傷痕を見遣りながら、大きく息を吐いた。闘衣とういのせいもあって全身の筋肉という筋肉を全力で動かさなければならなかったこともあり、普段以上に疲労感を覚えている。

 しかし、それは心地よく感じられた。

 観客、野外音楽堂関係者、導士含め、総勢一万人以上の人々の命を守ることができたという事実は、幸多にとってこれ以上ないくらいの喜びとなって、体中を駆け巡っていた。

 疲労以上の充足感がある。

 もちろん、気を抜いてはいけない。

 バアル・ゼブルの姿は消えたが、滅び去ったとは言い切れない。

 異空間に隠れただけかもしれないのだ。

「ふう……なんとか、なったな」

「さすがは師匠ですね!」

「いや、きみがいてくれたおかげだ。わたし一人では、全員を運び出すことはできなかっただろう」

 美由理は、途方もない消耗を隠すことすらできない様子で、幸多を見ていた。長時間に渡る月黄泉の維持は、心身に多大な負担をかけることになる。魔力は消耗され尽くし、もはや軽々しく魔法を発動することすらできない状態だった。

 立っているのがやっと、といった有り様だ。

「な、なにが……」

「どういう……」

 九十九つくも兄弟が目を丸くしたのは、幸多たちのすぐ側だった。二人は、法機ほうきに跨がったまま地上に降ろされているのだが、自分たちが置かれている状況というのがまったく理解できないといった様子だった。

 それはそうだろう。

 月黄泉による時間静止中に起きたことは、幸多と美由理以外の人間にとっては、なにも起きなかったと同じことなのだ。誰一人として実感として理解できないはずであり、だからこそ、九十九兄弟以外の導士たちもほとんど全員が、きょとんとするか、驚愕するか、茫然としていた。

 星将せいしょう二名だけが、当然のような様子で美由理の元に近寄ってきている。

「こういうときには、やはり、きみの星象現界せいしょうげんかいだな」

「本当に、助かりました」

 麒麟寺蒼秀きりんじそうしゅう神木神流こうぎかみるは、周囲一帯に運び出された一万人に及ぶ観客たちを見遣りながら、美由理の労をねぎらった。

 二人は、あの瞬間になにが起こったのかを察していたし、理解していた。

 美由理の星象現界・月黄泉の力は、戦団上層部の間では周知の事実なのだ。

 当然、美由理も、蒼秀と神流の星象現界を知っているし、他の星将たちの星象現界についても知っている。

 でなければ、星将同士で綿密な連携を取ることも難しくなる。

 そうした情報の共有は、極めて重要だ。

「感謝なら、わたしの弟子にもしてくれて構わないが」

「どういうことだ?」

「彼は、月黄泉の影響を受けない。だから、彼のおかげでもあるのだ」

「なんですって?」

 神流と蒼秀は、驚くべき事実を知らされ、目を丸くした。

 伊佐那いざな美由理の星象現界・月黄泉は、発動とともに時間を静止するという魔法の常識を覆す魔法だ。その影響は、生物無生物に関わらず、全てに及ぶ。鬼級幻魔おにきゅうげんまとて例外ではなかった。

 そんな月黄泉の常識を覆す存在が現れるとは、星将たちも考えたことすらなく、二人は皆代みなしろ幸多に目を向けた。幸多はといえば、九十九兄弟となにやら話し込んでいる様子だが。

 それから、星将たちは、周囲を見回す。

 周囲には、未だ気を失ったままの一万人の観客と、意識はあるものの茫然としている野外音楽堂やアルカナプリズムの関係者たちがいる。

 確かに、これだけの人数を月黄泉の発動中に運び出すとなれば、至難の業だ、ということは冷静になって考えればわかることだった。美由理一人では、この半分も助け出せたかどうか。

 いくら美由理が戦団最高峰の魔法士とはいえ、月黄泉を維持したままでは、出来ることにも限りがある。

 月黄泉さえ使っていなければ、一万人を救助するくらい容易いだろうが。

 そしてそれは、神流や蒼秀にも言えることだ。

 バアル・ゼブルの存在さえなければ、すぐにでも一万人の観客を運び出し、避難させることだってできたのだ。

 しかし、そういうわけにはいかなかった。

 バアル・ゼブルの存在が、あらゆる行動の妨げとなっていた。

『あー、聞こえますか。こちら、作戦司令部』

「聞こえていますよ」

 導衣どういの通信器から聞こえてきたのは、作戦部情報官の計倉とくらエリスの声だった。

『特別指定幻魔弐号(にごう)の固有波形の消失を確認。念のため、周囲の警戒をお願いします。それから、野外音楽堂一帯の被害状況の照合を行っていますが、いまのところ、先程の攻撃による死傷者は確認されていません』

「了解。幻災隊げんさいたいの派遣をよろしく」

『現在、現地に急行中ですので、ご心配なきよう』

「さすがね」

 神流は、作戦司令部の指示の的確さに胸を撫で下ろすような気分になりながら、とはいえ、楽観的な気持ちにはなれなかった。

 特別指定幻魔弐号こと鬼級幻魔バアル・ゼブルの固有波形が消失した、というのは、バアル・ゼブルを討ち滅ぼしたことと同じではない。この場から消え失せた、というだけの可能性も高く、未だ生き延びているのだとしてもなんら不思議ではなかった。

 なにせ、バアル・ゼブルと名を変えた鬼級幻魔は、バアルと名乗ったころ、神流たちの前から逃げおおせている。

 鬼級幻魔が人間の前から逃げるなど考えられないことだったが、事実として起きたことだ。

 また、逃げた可能性は低くない。

 となれば、バアル・ゼブルが三度みたび央都おうとに現れる可能性を考慮しなければならなかった。

 また、今回の事件、戦闘における犠牲者がいないわけではないということもある。

 まず、アルカナプリズムのボーカル、ヒカルが死亡したこと。

 彼の遺体は、美由理たちによって運び出されており、いまはアルカナプリズムの関係者たちと、導士たちによって囲まれている。彼の亡骸については、まず、戦団によって調査されることになるだろう。

 彼の死によって、幻魔災害が引き起こされたからだ。

 妖級ようきゅう幻魔サイレンの発生は、彼の死を苗床とするものだった。サイレンの気絶音波によって、一万人の観客が意識を失ったことは、結果的には、大きな混乱を招かなかったという点では良かったのかもしれない。

 サイレンは、皆代幸多が討伐した。魔法不能者の皆代幸多が、だ。なにやらF型兵装(えふがたへいそう)という最新兵器を使ったようだが、それで勝てたのだからいうことはない。なにを使おうと、なにを用いようと、幻魔を討伐できればいいのだ。

 そのための戦団なのだから。

 そこまでは、良かった。

 問題はそこからだ。

 しかし、特別指定幻魔弐号バアル・ゼブルの出現は、予期せぬ事態ではなかった。

 ヒカルの死を原因とする幻魔災害が発生する直前、野外音楽堂に幻魔が現れた。それは、特定弐号の固有波形の観測を伴うものであり、特定弐号が出現する可能性を明瞭に伝えるものだったからだ。

 その際出現した多量の幻魔は、予め会場に待機していた導士たちによって排除され、事なきを得た。

 その後、ヒカルが死亡、サイレンが出現したのであり、そしてさらにバアル・ゼブルの現出と相成ったのだ。

 そして、そのときのためにこそ、神木神流、麒麟寺蒼秀、伊佐那美由理の三星将が、この地に派遣されたのだ。

 鬼級幻魔は、最低でも星将三人以上で戦うべき相手だとされており、作戦司令部は、特定弐号の固有波形が観測されるなり、即座に三人の星将に現地へ赴くよう命令した。

 バアルは、バアル・ゼブルを名を変え、姿を変えていたが、能力そのものに大きな変化はなさそうだった。

 空間を操る能力は、強力無比であり、そのために八名の導士が命を落としている。

 この場に美由理がいなければ、もっと多くの導士が命を落としていただろうし、星将である神流たちもどうなっていたものか、わかったものではない。

 鬼級幻魔とは、それほどまでに恐ろしい存在なのだ。

 その鬼級幻魔を退けることができたのは、星将三名を投入し、それぞれが全力を叩き込んだからにほかならなかった。

 ふと、神流が気づくと、周囲が騒然とし始めていた。

 気絶していた一万人の観客たちが、つぎつぎと意識を取り戻し始めたのだ。

 


 アザゼルは、山頂に穿たれた巨大な穴を見下ろしながら、なんともいえない表情を浮かべていた。

「なんでこう、飛び出すかね。人様の話を聞かずにさ」

 暗澹あんたんたる闇の中、遠視魔法の球体が映し出す風景は、央都の一角、出雲市いずもし大社町大社山の頂きであり、そこには少し前まで野外音楽堂が存在していた。

 そして、大量の人間が集まっていたのだが、いまや、現場検証と警戒に当たる戦団の導士くらいしか見当たらなくなっていた。

 それはそうだろう。

 あれだけの騒ぎが起きたのだ。

 いくら野次馬根性を生まれ持つ人間たちとはいえ、おいそれとは近づけまい。

「まあ、いいじゃない。元気があって。わたしは好きよ、そういう子」

 不意に聞こえてきた女の声は、どうにも淫靡いんびな響きがあり、ねっとりと絡みついてくるような気配さえした。どこまでも深く沈み込むような重圧が、そこに付随している。

「悪趣味がなにかをいっている」

 そちらに目を向ければ、闇の中、その双眸が紅く昏く輝いている。その輝きもまた、妖しく、艶めいている。

「あら、どこが悪趣味なのかしら。わたしは、サタン様のために動いているだけだというのに」

 アスモデウスの言葉は、どこまで本気なのか、まるでわからない。嘘をいっているわけもないのだが、全くもって信用できなかった。

 それは、アザゼルとて同じことなのだろうが。

「その結果がこの有り様なら、悪趣味としかいいようがないだろうに」

「でも、彼は夢の中で果てることができたわ。それは、至上の幸福ではなくて?」

「……確かに」

 一理あるかもしれない、などとアザゼルが思ったのは、幸福の絶頂の中で死ねたからこそ、あれだけの魔力が生じ、幻魔の苗床となったのは疑いようのない事実だからだ。

 もっとも、そうして誕生した幻魔が、たかが妖級だったこともまた、事実なのだが。

 アザゼルは、一刀のもとに斬り捨てられたサイレンのことを思い出しながらも、それ以上はなにも言わなかった。

 アスモデウスの悪趣味極まりない計略は破綻したが、しかし、必ずしも無駄にはならなかったからだ。

 問題はバアル・ゼブルだが、こればかりはアザゼルたちにはどうしようもない。

 彼は、サタンの管轄だ。



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