第百七十七話 静止した時の中で
「どういうことなんです?」
幸多は、美由理の後についていきながら、質問した。頭の中が少々混乱している。
時間の静止した世界で、聞こえるのは二人の靴音と声だけだ。その音も籠もっているように聞こえていて、響くことも、広がることもない。
音すらも生じた瞬間に静止してしまっているようだった。
生気が、ない。
この場に存在する全ての魔素が、美由理の星象現界・月黄泉に支配され、時間が止まっているのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
そして、一万人以上の人間がいる空間だというのに圧倒的な孤独感があるのは、その所為だろう。
「どうもこうもないだろう。月黄泉は、時間を静止する星象現界だ。そして、どれだけ時間を静止したところで、状況は変わらない」
「ええ……」
幸多は、思わず空を仰いだ。遥か頭上にバアル・ゼブルの上半身があり、そのさらに上空を赤黒い異空間が迫っている。それはさながら異形の怪物の口であり、野外音楽堂すべてを飲み込んでしまえるほどに巨大だ。そして、それに飲み込まれれば、この場にいる全ての人間が死ぬのは、間違いない。
バアル・ゼブルは、空間の亀裂でもって導士たちを殺して見せた。あの異空間に飲まれれば、星将たちでも耐えられないのではないかという気がする。
そして、あの巨大な空間の穴が降ってくれば、一万人もの一般市民が犠牲になってしまう。
それだけは、なんとしてでも避けなければならない。
「月黄泉が支配し、時間が静止するということはどういうことか。簡単に説明してやろう」
美由理は、足を止め、幸多を振り返った。幸多が足を止めると、つかつかと近づいてきて、手を伸ばしてきたものだから思わずたじろぐと、幸多の反応などお構いなしにその右手で頬に触れてきた。
幸多が驚いている暇もなく、頬に痛みが生じた。無造作に抓られたのだ。
「なんでです?」
「痛いか」
「はい」
「だろうな。それはきみが月黄泉の影響下にない証拠であり、きみが完全無能者である証明だ」
「はあ……?」
幸多は、美由理がいわんとしていることがわからず、小首を傾げた。頬の痛みはあっという間に引いていくからそのことは問題ではない。
すると、美由理は、おもむろにその場に屈み込むと、地面を殴りつけた。幸多の頬を抓ったときよりも何倍もの力を込めたのだろう打撃は、しかし、地面に傷ひとつつけられなかった。衝突音はあった。けれどもそれは拡散せず、響き渡らなかった。
普通ならば、地面が大きく陥没していてもおかしくないような強烈な打撃だった。魔法士の打撃は、ただの打撃ではないのだ。魔力を込めた拳の一撃は、魔法による攻撃と変わらない。雷光を帯びた麒麟寺蒼秀が、その拳や足でもってバアル・ゼブルに痛撃と叩き込めた理由はそこにある。
幸多は、美由理の打撃を受けて傷ひとつない地面を目の当たりにしたことで、師の言いたいことが理解できた。
「月黄泉の影響下にある魔素は、時間が静止する。それはつまり、魔素そのものが変化を受けないということだ。当然、時間静止中の相手を一方的に攻撃し、斃しきるなどという真似もできない。魔素に変化が起きないのだから、当然だな」
「バアル・ゼブルを斃すことも、あの空間の穴を塞ぐこともできないんですね」
「そうだ。だから、きみが必要だ」
美由理は立ち上がり、観客席を見回す。
野外音楽堂の広々とした観客席は、満員だ。一万人の観客が、アルカナプリズムの復活祭を見届けるために集まったのだ。そして、妖級幻魔サイレンの歌声によって意識を失ったまま、今に至っている。
誰一人として意識を取り戻していないのは、それだけサイレンの魔法が強力だったからであり、無防備な一般市民には効果覿面だったからだ。ライブ中に魔法対策を行う一般市民などいるはずもない。
九十九兄弟を始めとする導士たちは早々に復帰したものの、やはり、そこは一般市民と導士の差だろうし、導衣を着込んでいたこともあるだろう。
だが、それはむしろ、混乱が起きなくなったという意味では、幸多たちにとっては良い面もあったかもしれない。
もし観客の三分の一にでも意識があれば、野外音楽堂が阿鼻叫喚の地獄絵図に変わり果てていた可能性がある。
とはいえ、今となってはどうでもいいことだ。誰もが静止した時の中で凍りつき、身動き一つ出来ないのだから、気絶していようと、恐慌状態に陥っていようと、関係がない。
美由理の星象現界・月黄泉は、問答無用に全ての対象を黙らせる。
「この場にいる全員を、あの空間攻撃の範囲外に連れ出す。わたしと、きみでな」
「は、はい!」
幸多は、颯爽と観客たちを担ぎ始めた美由理に倣い、手近にいた観客を両肩に担ぎ上げた。
大の大人二人を担ぎ上げる程度、幸多にとっては苦にもならない。
今日に至るまでどれだけの鍛錬を積み、体を鍛え上げてきたのか。それこそ、身体能力だけならば自信があり、並大抵の導士とは比較にならないというお墨付きもあるのだ。
一人二人担ぎ上げるなど、なんの問題にもならない。
しかし、幸多は、魔法士ではない。魔法士ではないからこそ動き回れているのだから当然なのだが、一つ、難点があった。
幸多が一度に運べる人数に限りがあるということだ。
まず大人二人を野外音楽堂の外、バアル・ゼブルの空間攻撃の範囲外に退避させた幸多は、観客席に戻る最中、なにか良い方法はないかと考えた。
美由理は、魔法を使うことで一度に数十人の観客を運び出している。何本もの魔法の腕が美由理の周囲に浮かび、それら一本一本がが数人単位で掴み取っていた。
月黄泉は、魔素の時間を静止する。が、美由理自身は、その対象ではない。よって、美由理が魔法を使えたとしても、なんら不思議なことではなかった。美由理自身の魔素でもって練り上げた魔力は、時間静止の対象外なのだから。
幸多は、何人かの観客を屋外に運び出し、行きつ戻りつしている内に音楽堂内で大きな板を発見した。舞台上で使うためのものなのかよくわからなかったが、幸多は、その巨大な板を観客席内に持ち込むと、地面に置き、その上に手当たり次第周囲の観客を乗せていった。
時間が静止している間、傷つくことはない。
どれだけ乱暴に扱っても問題はない、とは、美由理の発言であり、幸多は師の教えに従い、観客を次々と屋外へ、範囲外へと運び出していった。
一度に運び出せても数十人だ。
何往復どころの話ではない。何十回も往復して、やっと半分の観客を外に運び出すことに成功した。
そのときになってようやく、幸多は、美由理の背後に浮かぶ白銀の月に変化が起きていることに気づいた。
美由理が何十人もの観客を運びだそうとしているときだった。
「師匠、その月……」
「見ての通り、制限時間だよ」
美由理は、幸多に対し、月黄泉の性能を隠すことなく伝えた。彼女が背に負うようにして顕現した白銀の月は、当初、満月そのものといっても過言ではなかった。神々しくさえあった白銀の満月は、しかし、時間とともに次第に欠け始め、いまや半月になっている。
月の輝きそのものの強さに変化はなく、影響力や支配力が弱まっている様子はなかったが、満月が半月になれば、儚く感じるものだ。
「月黄泉は、時間を止める。その静止時間は、この月が輝いている間だけだ。この光が失われたとき、わたしの意思とは関係なく、時は再び動き出す。それまでにこの場にいる全員を運び出すのだ」
「はい!」
幸多は、力強く頷くと、いままで以上の力を発揮した。次々と観客たちを板の上に乗せ、数十人の人間が乗った板を抱え上げて、空高く跳躍する。
時間が静止した世界。
何者も、幸多の邪魔するものはいない。
やがて、幸多は、友人たちの元へと辿り着いた。圭悟も蘭も真弥も紗江子も、怜治、亨梧、法子、雷智の誰一人として傷ついていないし、意識を取り戻していた様子もない。
法子ほどの魔法士であっても、やはり一般市民なのだ。訓練を受け、導衣を身につけた導士たちとは違い、サイレンの気絶音波から実を守ることは出来なかったし、立ち直るには時間がかかるようだった。
幸多は、友人たちの無事な様子に少しばかり安堵したものの、すぐさま作業に戻った。友人たちを板の上に乗せ、さらに周囲の観客たちを乗せていく。
そうした作業をさらに何十回も繰り返し、野外音楽堂の施設内にいる関係者たちも運び出したことで、ようやく導士たちを退避させる状況へと移った。
導士の多くは空に浮かんでいたが、問題はなかった。特に美由理は、何本もの魔法の手で導士たちを鷲掴みにしてその場から引き離すと、次々と野外音楽堂の外へと運び出していった。
幸多もそれに倣う。
幸多が九十九兄弟を法機ごと外に運び出したことで、ようやく全員の運搬が終わった。
それからもう一度、野外音楽堂内のありとあらゆる箇所を探し回った。幸多と美由理が全速力で駆け抜ければ、あっという間だ。
そして、誰一人として残っていないことを確認する。
妖級幻魔サイレンによる幻魔災害が発生した時点で、会場にいて気を失っていなかった人間は、この場を離れているはずだった。避難警報が鳴り響いていた。幻魔災害が発生して避難指示に従わない一般市民など、そういるものではない。
実際、野外音楽堂に残っていた人間は少なかったのだ。
大変だったのは、観客席を満たした一万人の観客を運び出す作業であり、それが完遂できた時点でほぼほぼ退避は完了していた。そして、会場全体を再確認したことで、安堵の息をつく。幸多の息は、時間が静止した世界であっても、確かな音を立てた。
そんな幸多の様子を見て、美由理が告げる。
「完了したな」
「はい」
「きみのおかげだ」
そういった美由理の背後に浮かぶ月は、二日月のような糸ほどの細いものになっていた。ただし、輝きは相変わらず神々しくも強烈であり、時間静止の力は全く衰えていない。全て、静止したままだ。空気も、人も、幻魔も、何もかもが凍りついたように動かない。
「師匠のおかげですよ」
「そうだが、きみがいなければ、わたし一人では、全員を助けることは出来なかったのも事実だよ」
美由理は、幸多をじっと見つめ、彼が肩で息をしている様子を見て取った。さすがの彼も、ある種拘束具をつけた状態であれだけの人数を運び出すのには、一苦労したようだった。
だが、それだけだ。消耗し尽くして身動きが取れなくなるような状態には見えなかった。まだまだ戦えるとでも言いたげな顔つきだ。
そして、美由理は、頭上を仰いだ。
遥か上空、バアル・ゼブルの上半身が浮かび、その頭上に赤黒い異空間が広がっている。バアル・ゼブルは再生の真っ只中であり、放っておけばすぐにでも元通りになることだろう。
だから、放置はできない。
「置き土産だ」
美由理は、残る力を振り絞るようにして、バアル・ゼブルの周囲に魔法を張り巡らせた。
魔法は、発動しない。なぜならば、美由理の元を離れた魔力は、瞬時に月黄泉の影響を受けるからだ。
美由理が魔力で編み上げた腕は、美由理自身、月黄泉自体と繋がっているからこそ十全に機能していたが、美由理から離れた瞬間、それは月黄泉に支配され、時間静止に巻き込まれてしまう。
だが、問題はない。
美由理は、魔力の手で幸多を掴み上げると、その場から飛び離れた。飛行魔法も、美由理自身とその周囲に作用するからこそ、月黄泉の影響を受けずに済む。
そして、美由理は、幸多とともに空間攻撃の範囲外に出た瞬間、月黄泉を解除した。
刹那、バアル・ゼブルの上半身が無数の氷塊に押し潰され、赤黒い異空間が野外音楽堂を飲み込んだ。