第百七十五話 暴食のバアル・ゼブル(三)
「いっただろう、暴食を司る、と」
バアル・ゼブルは、先程まで乱れ飛んでいた魔法が消え失せ、静寂が君臨した空にあって、悠然とした態度を崩さなかった。四枚の翅が震え、空間に波紋が広がる。
その波紋が魔力の波を起こす様を見て、真白は、急速旋回し、距離を取った。波が消えた瞬間、黒乃が叫ぶ。
「破流旋!」
黒乃の手の先から放たれた魔法は、強烈な破壊の奔流そのものであり、虚空に無数の亀裂を走らせるようにしてバアル・ゼブルの元へと殺到した。しかし、バアル・ゼブルは、黒乃の魔法を片手間で防いでみせる。空間に開く大きな穴が、破壊の奔流を飲み込み、消し去ったのだ
「あのときだって腹を空かせてたんだぜ。それで食事にありつこうとしてたのに、邪魔しやがって。まあいいさ。おかげで、こうして生まれ変わることができた。復活することができたんだ。逆に感謝さえしているのだよ、塵未満くん」
バアル・ゼブルの赤黒い目が、九十九兄弟と移動する幸多を見つめていた。悪意に満ちたまなざし。侮蔑と嘲罵を込めた視線。不快極まりない、心の在り方を根底から覆しかねないほどの敵意。
幸多は、九十九兄の作った魔法の手のひらの上に立ち、バアル・ゼブルを睨み返す。
「これは、その感謝の印だ」
バアル・ゼブルが指を鳴らした。
すると、幻魔の周囲に八つの亀裂が生じた。亀裂の中から、もはや物言わぬ死体と化した八人の導士の体の一部がその姿を見せた。
幸多は、その光景を目の当たりにした瞬間、激昂のあまり、頭の中が真っ白になった。
「バアル!」
咆哮とともに、足場を蹴って、飛びかかる。
「おい馬鹿!」
「皆代くん!」
九十九兄弟は、予想だにしない幸多の反応に愕然とした。が、同時に動いている。真白は、法機を急加速させながら魔法の腕を伸ばして幸多を捉えようとし、黒乃は、バアル・ゼブルの攻撃を妨害するべく魔法を唱えようとした。
しかし、間に合わなかった。
幸多は、一瞬にしてバアル・ゼブルを目前に捉え、大上段に構えた大斧を振り下ろしたのだ。凄まじい激突音と衝撃が幸多の両腕を貫き、全身を駆け巡る。
「やはり、塵未満はどこまでいっても塵にもなれないんだな」
バアル・ゼブルは、断魔の斧刃《ふいjん》を二本の指で挟み込んで受け止めて見せると、全力で斧を振り下ろした格好のまま空中に浮かんでいる幸多に向かって、左手を伸ばした。怒りの余り我を忘れた完全無能者の表情は、獰猛な獣のそれだ。
後は、虚空ノ顎を発動させ、全てを終わらせるだけでいい。
バアル・ゼブルは、そうしようとした。
だが、そのときだった。
閃光が奔り、雷鳴が聞こえた。
そして、つぎの瞬間には、バアル・ゼブルの体は野外音楽堂の主舞台に深々と突き刺さっていた。
天から降り注いだ巨大な黄金色の雷光が、幸多の目に焼き付いている。
幸多には、一瞬、なにが起こったのか、わからなかった。だが、すぐに理解する。幸多を空中に留まらせていたバアル・ゼブルの存在が遥か眼下に消えたため、自由落下が始まる中、幸多は、確かに目の当たりにしたものを思い返していた。
黄金の雷光は、麒麟寺蒼秀だ。星将にして第九軍団長であり、統魔の師匠。光都事変の英雄、五星杖の一人でもある。
幸多の自由落下は、すぐに止まった。九十九兄の魔法の手が幸多を掴み取ったからだ。ぎゅっと握り締められたことで、彼の感情が伝わってくるようだった。
「なに考えてんだよ、まったく」
「救援がなかったら、死んでたよ」
「……そうだね」
幸多は、冷徹に告げてくる九十九兄弟に対し、なにも言い返さなかった。言い返せるわけもない。二人の意見は、正論であり、道理だ。
あのとき、幸多が我を忘れて飛びかかったのは、愚行としか言いようのないことだ。あれは、バアル・ゼブルの策だったのだ。幸多たちの感情を揺さぶり、飛びかかってこさせるための作戦。そのために導士たちを殺戮したというのであれば、まったくもって許せないし、解せないのだが、だからといって、感情を激発させていいわけではない。
それで策に嵌まっては、なんの意味もないのだ。
戦場では、常に冷静でいなければならない。
たとえば、先程痛烈な一撃を叩き込み、なおも破壊音を響かせる麒麟寺蒼秀のように、だ。
そしてさらに、爆音が鳴り響くと、主舞台を根底から破壊するほどの爆発が起きて、バアル・ゼブルが上空へとまいあがってきた。無数の火の粉と濛々《もうもう》たる爆煙が立ちこめる中、火線が鬼級幻魔を追い続ける。
第二軍団長・神木神流が得意とする火属性魔法だった。練度、精度、威力、どれをとっても、さっきまでバアル・ゼブルと戦っていた導士たちとは比較にならない。一撃一撃が重く、強烈だった。
星将とは、星光級導士とは、戦団最高位の導士であり、央都最高峰の魔法士なのだ。
力量もさることながら、魔法技量にも圧倒的な差があって当然だった。
幸多たちは、ただ、圧倒されるほかないのだ。
バアル・ゼブルも、先程までと勝手が違うと言いたげに飛び回りながら、空中に無数の亀裂を生み出し、魔法に対応しようとしているのだが、それ以上の手数と精度の魔法が幻魔に殺到していた。無数の火球が、崩壊した舞台の下、地上から上空に向かって連射されていて、さらに一条の雷光となって天地を駆け巡るものがいた。それが麒麟寺蒼秀であり、彼は空間の亀裂を軽々と躱しながらバアル・ゼブルに肉薄しては、痛烈な一撃を叩き込み、吹き飛ばして見せる。
蒼秀の打撃は、ただの打撃ではない。強大な魔力の籠もった打撃であり、だからこそ通用しているのだ。
F型兵装が超周波振動によって引き起こす構造崩壊を、魔力を帯びていることによって引き起こしているのだ。
空中を縦横無尽に駆け巡りながら、次々と打撃を叩き込む蒼秀。その速度たるや、幸多でも目で追うのがやっとだった。雷光そのものの如き速度であり、凄まじい威力の打撃が連続的に直撃すると、さすがのバアル・ゼブルも原型を損なうほどだった。
そこへ火線が集中し、爆撃が連鎖する。
そして、巨大な氷の牢獄がバアル・ゼブルを閉じ込め、空中に固定した。
これほどの氷属性魔法の使い手とならば、一人しか思い当たらない。
伊佐那美由理だ。
「あれは、特別指定幻魔弐号で間違いないのか?」
不意に尋ねられ、幸多はぎょっと背後を振り返った。いつの間にか、美由理が幸多の背後に浮かんでいたのだ。
幸多は、九十九兄弟に連れられて、星将たちの戦いの邪魔にならない位置に移動していた。
星将二名の攻撃は苛烈極まりなく、そこに幸多たちが参加することなど考えられるはずもなかった。考えもなしに突っ込めば、星将たちの足を引っ張るだけであり、足手まといだ。それどころか利敵行為になりかねない。
それこそ、幸多は、考えもなしに突っ込んだ挙げ句、バアル・ゼブルに殺されかけている。
二度も、だ。
星将たちが押されているのであればまだしも、圧倒的な優勢を維持している現状、幸多たちに出来ることと言えば、勝利を信じることだけだ。攻撃をする隙があるというのであれば、話は別だが。
そんな隙は、どこにも見当たらなかった。
そして、その矢先、美由理が幸多の背後に現れたものだから、彼も驚かざるを得ない。
「は、はい、師匠」
「微妙に姿形が違うが……しかし、固有波形は同じだという話だったな」
「生まれ変わったとか、復活したとか、そんなことをいってましたが」
「意味がわからんな」
美由理は、漆黒の導衣どうい》を纏い、空中に浮かんでいた。長衣が風に揺れ、黒髪が靡く様すらも美しく、見惚れてしまいかねない。幻魔を見遣る冷徹なまなざしは、一切の感情が込められていない。
常に冷静であり、沈着である、導士のあるべき姿がそこにあった。
彼女の存在そのものに強い力があるように思えてならなかったが、それ以上に強大な魔力が、彼女から放たれている。
それが、バアル・ゼブルを閉じ込めた巨大な氷の檻だ。
十数メートルはあろうかという氷の檻は、ただバアル・ゼブルを閉じ込めているだけではなかった。氷の檻は、内側に向かって急激に圧縮しているのだ。凄まじい破壊の力をバアル・ゼブルに叩きつけるようにしながら、破壊音を撒き散らし、収縮していく。
爆発的な収縮とともにバアル・ゼブルの肉体が徹底的に損壊していく様には、幸多も、目を見開いて見ていた。
圧倒的だった。
やがて、氷の檻の圧縮が終わると、バアル・ゼブルは、胸から上だけを残し、肉体の大半を失っていた。それでもまだ滅びていないのは、魔晶核が傷ついていないからだ。
つまり、魔晶核は、上半身から頭部の何処かに隠されているということだが。
そして、蒼白い雷光と火線がバアル・ゼブルに殺到したのは、止めを刺すためだったのだろうが、その全周囲の空間が歪んだことで、蒼秀は距離を取り、火線は幻魔の眼前で逸れて、あらぬ方向に飛んでいって締まった。
空間そのものがねじ曲げられたのだ。
バアル・ゼブルは、もはやわずかばかりの肉体を徐々に再生させながら、星将たちを睨めつけた。
「また貴様らか。この間もそうだったな。人様の邪魔ばかりしやがって……」
激しい怒りと底知れぬ悪意が、幻魔の形相に現れていた。
「もういい、皆殺しだ」
その瞬間、幸多たちの頭上に巨大な亀裂が生じ、口を開いた。
それは、野外音楽堂全域を飲み込むほどに巨大な異空間への穴であり、あっという間に頭上を覆い尽くした。