第百七十四話 暴食のバアル・ゼブル(二)
悪魔の彫像の上に悠然と腰掛けるバアル・ゼブルは、幸多の存在をはっきりと知覚していた。幻魔からしてみれば存在感が希薄すぎるというより、存在そのものを感知することも難しい相手だったが、一度認識さえしてしまえばなんのことはない。
身につけている衣服の魔素の固有波形を元に焦点を絞り、視力を変動させる。幻魔と、その他の生物の視覚は大きく異なるものだが、理解さえすれば簡単なことだ。
そして、理解し、認識したことで、バアル・ゼブルは、その姿形をしっかりと見るようになったのだ。
塵未満、という評価に変わりはない。
塵芥にすら宿る魔素を宿していない、この世界にあるべきはずのない完全無能者なのだから、当然のことだ。
塵ですらない。
存在すらしていないのと同じだ。
魔素で満たされ、魔素で構成されたといっても過言ではない世界で、魔素を持たないものがいったいどれだけのことができるというのか。
バアル・ゼブルは、故に嘲笑う。
妖級幻魔サイレンを撃滅して見せた武器は、確かに、これまでの常識を覆す代物だろう。
幻魔には通常兵器は通用しない。
それがこれまでの定説であり、常識であり、この世の理とさえ考えられていた。
しかし、幸多が手にしていた武器は、幻魔の外骨格たる魔晶体を切り裂いて見せた。それはつまり、これまで道理とされてきたものを否定したということにほかならない。
そんなことがあり得るのかと思うのだが、実際にサイレンを斃し、あまつさえバアル・ゼブル自身の魔晶体を斬りつけたという事実があるのだから、認めざるを得ない。
彼が手にしていた武器は、鬼級幻魔にすら通用する。
だからこそ、バアル・ゼブルは、油断しない。
距離を置き、一方的に攻撃する――。
無数の炎の矢が、バアル・ゼブルに向かって飛来してきたかと思うと、頭上から強烈な雷が降ってきて、さらに左右から挟み込むようにして風の刃が迫ってきたものだから、彼は、翅を羽撃かせた。空間に満ちた魔素に干渉し、空間そのものを歪め、多方向同時魔法攻撃の到達速度を緩慢にする。
そして、虚空を撫で、四方八方に亜空間への穴を開く。赤黒い亀裂が大きく口を開き、魔法の数々を飲み込み、バアル・ゼブルの体内へと染みこませていく。
「やはり魔法はまずいな」
そして、バアル・ゼブルが彫像の上から飛び退いたのは、舞台上の幸多が飛びかかってきたからだ。大上段に掲げた両手にはなにも握られていなかった。しかし。
「断魔!」
鋭い叫び声とともに幸多の全身が光を放ち、次の瞬間には、長大な斧が出現していた。なにもない空間から武器が現れたのだ。しかし、それは魔法のように見えて魔法ではない。
物質転送技術の応用かなにかだろう。
人類は、かつて、空間転移魔法を発明した。
魔法の発明と普及は、加速度的な魔法の発展を促し、魔法の様々な分野への影響も瞬く間に波及していった。空間転移魔法が発明されると、空間転移魔法を応用した技術の研究が押し進められ、やがて、物質転送技術が誕生した。
物質転送機は、バアル・ゼブルがバアルとして誕生したときには、世界中を結ぶ物流の中核を成していたものであり、魔法時代が終わり、混沌時代と呼ばれる最悪の時代にあってもなお、人類が滅び去らなかった理由のひとつではないか、と考えられている。
もっとも、人類は、混沌時代の果て、魔天創世によって滅び去るのだが。
(そして、生き残ったわずかばかりがここにいる)
バアル・ゼブルは、一足飛びに悪魔の彫像に到達した幸多を見遣り、さらに飛来した数々の魔法を亜空間の穴で飲み込みながら、距離を取る。空中に飛び上がり、眼下を見下ろせば、幸多の物凄まじい形相に目を細めた。
強い怒りと憎しみが、そのまなざしに浮かんでいる。
怒りと、憎しみ。
あのとき、なにもできなかった自分への怒りは、決して忘れられないものだ、と、幸多は想うのだ。なにもできなかった。本当に、なにも、だ。ただ骨折し、殺されかけただけだった。
幸多に懇切丁寧に巡回任務について教えてくれた成井小隊の面々が、理不尽に、一瞬にして、殺されてしまった。
それなのに、一矢報いることすらできなかった。
そのことが悔しくて堪らなかったし、己の無力さに打ちのめされたものだった。
いま、ようやく、幻魔にも通用する武器が手に入った。そして、その武器は、鬼級幻魔の肉体にすら傷を付けた。致命傷には至らないが、通用したのだ。その事実は、極めて大きい。
この間は、幸多の攻撃は、幸多自身への自傷行為、自殺行為以外のなにものでもなかったが、今回は、違う。攻撃が一切通用しないわけではなく、勝算がまったくないわけでもない。
導士たちによる魔法攻撃が次々と飛んでいき、そのたびに空間の亀裂に吸い込まれていく様を見れば、バアル・ゼブルの能力もはっきりとわかる。
あの赤黒い亀裂こそが、バアル・ゼブルの能力であり、魔法なのだ。
「あの赤黒い空間は、なんでも喰らい、飲み込むようだな」
そういってきたのは、いつの間にか幸多の側に浮かんでいた九十九兄弟の兄の方だ。兄弟揃って一つの法機に跨がっていて、兄の方が操縦している。
「厄介だね。どんな魔法も、吸い込まれてしまったら意味がない」
弟の方はといえば、法機の上に立っていて、魔法を練り上げている最中のようだった。
そうしている間にも、他の導士たちの魔法が乱れ飛び、バアル・ゼブルに向かっていく。導士たちとて、空間の亀裂の特性について理解していないわけがないのだが、かといって攻勢を緩めるわけにもいかないのだ。
攻勢を緩めれば、バアル・ゼブルに攻撃する機会を与えることになる。バアル・ゼブルの攻撃は強力無比なのだ。だからこそ、魔法による弾幕を張って、少しでも攻撃する機会を潰そうとしているのだが、その魔法が一切、バアル・ゼブルに届いていない。
バアル・ゼブルは、幸多たちの遥か頭上にあって、悠然と虚空を撫でるようにしている。その赤黒い目は幸多を見下ろし、しかし、周囲への警戒を怠っていない。
次々と殺到する攻撃魔法も、そのたびに開かれる異空間への穴に吸い込んでしまう。
「これじゃあ、近づきようもないね」
幸多は、両手で握り締めた大斧を構え直しながら、いった。幻型兵装白式武器・二十二式戦斧・断魔。柄の長さだけで幸多の身長を大幅に超える斧であり、斧刃は青黒く、分厚い。石突には星形の装飾がある。重量感たっぷりだが、幸多の元々の膂力と闘衣の筋力補正もあって、なんの問題もなく扱えている。
幻想空間も、現実空間も、関係なかった。
「近づいてそれでぶった切りゃ、斃せるのかよ」
「魔晶核さえ破壊できればね」
「そりゃそうだ」
九十九真白は、当然だとばかりに笑うと、魔法で編み出した手で幸多の腰を掴んだ。そのまま、急速上昇し、大きく旋回する。
「ええ!?」
「兄さん!?」
幸多と黒乃の反応を尻目に、真白は、飛行速度をさらに上げていく。飛び交う攻撃魔法の渦中へと突き進みながら、次々と虚空に刻まれる亀裂を避け、急上昇する。
「おや」
バアル・ゼブルは、導士たちと戯れている間に距離を狭めてきた幸多と、二名の導士を見遣り、口の端を歪めた。両手を開き、十本の指先に魔力を迸らせる。そして、空中を撫でると、全部で十個の虚空ノ顎がこの戦場各地に出現し、同時に口を開き、対象に食らいついた。
「ごちそうさま」
バアル・ゼブルは、目前に迫った導士二名と幸多の顔が驚愕に見開かれる様を見て、悦に浸った。
十個の虚空ノ顎は、そのうち二個がバアル・ゼブルを狙った魔法を防ぐために展開されたのだが、残り八個は、遠距離攻撃に徹する八名の導士を同時に喰らうために発動し、同時にその上半身や下半身を食い千切り、絶命させた。
鮮血が、野外音楽堂に降り注いだ。