第百七十三話 暴食のバアル・ゼブル(一)
晴れ渡る空の下、吹き抜ける風は夏の熱気を帯びている。
あざやかな青と白が頭上にあって、太陽はゆっくりと傾いていく最中だ。
正午は既に過ぎ去り、遠い過去のように成り果てて、いまや夕刻を目前に控えている。空の青さともそろそろおさらばする頃合いといったところであり、そういう時間にもなると、この非番の一日も終わりが近づいているのだと自覚する。
「なにを考えておいでなのでしょう?」
こちらの思考を覗き込もうとしてのことなのか、テーブルの上に身を乗り出した上庄字の顔が、皆代統魔の目の前にあった。
葦原市南海区海辺町にある喫茶店〈雨之雀〉の敷地内、屋外に設けられた席に二人は座っている。
今朝、字から急に呼び出された結果が、これだ。
字は、白と黒を基調とするワンピースを身につけており、帽子と鞄の色も服装に合わせたものだった。普段の任務中とはまったく異なる雰囲気なのは、当然と言えば当然だろう。
統魔も、任務中のような格好ではない。薄手のシャツにデニムパンツというありきたりな格好だが、お洒落に気取るつもりもないのだからどうでもよかった。ファッションに気を使った挙げ句、幸多のような壊滅的な格好になるよりは遥かにマシだろう、と、考えている。
キャップを被っているのは、一目を少しでも避けるためだ。
統魔は、有名人だ。央都市民で統魔のことをまったく知らない人間のほうが少ないのではないかというほどの知名度は、戦団広報部が盛んに宣伝してくれたおかげであり、その挙げ句、顔を曝け出して出歩くことも面倒になってしまった。
声援が飛び交い、注目を集めるからだ。
それもいまや慣れたことではあるのだが、それにしたって、そうした注目や反応を軽減できるものなら軽減したいのが人情というものだろう。
「なんだろうな、なにも考えてないんじゃないか」
「また適当なんですから」
字は、少しばかりむくれるような素振りを見せると、元の位置に戻ってティーカップに触れた。特殊合成樹脂製のカップは、しかし、陶器のように美しく洗練されている。とても合成樹脂とは思えない出来栄えだ。
今日、突如として字から呼び出されたのは、買い物に付き合って欲しい、という理由だった。買い物なら同性の香織と行くほうがいいのではないか、という統魔の返信に対し、香織は友人たちと遊びに行くということになっているので無理だという話だった。
字にだってほかに友人知人はいるはずだが、統魔は、それ以上は追求せず、請け負うこととした。小隊結成以来、字には頼りっぱなしだ。たまには彼女の買い物に付き合うくらいのことはしないと、罰が当たる。それこそ、愛想を尽かされて隊を抜けられるようなことがあれば、統魔にとってはとんでもない損失だった。
副隊長としての手腕だけでなく、実力でも、人格でも、字ほど信頼の置ける人間はいないのだ。
だから、というわけではないが、統魔は、彼女との買い物を楽しんでいないわけではなかった。
字は、副隊長として皆代小隊のために日夜活動している。統魔たちが非番の日ですら働いていることが多く、買い物に出かける時間すら取れないということもあり、今日は、そんな不満を爆発させるかの如く買い漁っていた。そして、字の席の後ろには、買い物袋が山のように積み上がっている。
金ならば、いくらでもある。
戦団の導士は高給取りだ。特に実働部隊たる戦闘部の導士となると、その金額たるや、余程金遣いの荒い人間でもない限りはお金に困ることがないくらい膨大だった。
戦闘部は、命懸けの部署だ。常に死と隣り合わせであり、いつ命を落としてもおかしくなかった。どれだけ給料が高くても、普通はやりたがらないような仕事なのだ。
そんな職場だからこそ、こうして生きていることの実感を得られる時間というのは、大切なのだろう。
「そういえば、弟くんはライブでしたっけ」
字が幸多のことをそんな風に呼ぶのは、間違いなく香織の影響だった。香織はとにかく愛称をつけたがる。そして、それもかなり適当だ。
「アルカナプリズムのな」
「アルプリ、人気ですよね。わたし、音楽には疎くって」
「おれもあんまり詳しくはないけど、アルカナプリズムくらいは知ってるな。この曲だって」
統魔は、店内放送で流れている楽曲のことを指して、いった。穏やかな旋律から始まり、次第に激しさを増していく楽曲で、いままさに佳境を迎えていた。
「アルカナプリズムの曲だろ」
「確か、〈悪魔の戯れ〉……でしたっけ」
「そんな感じそんな感じ」
「また適当な……」
「任務以外は適当でいいんだよ、適当で」
「また軍団長に叱られますよ」
「師匠は堅いのさ」
そういって統魔の脳裏を過ったのは、麒麟寺蒼秀の凄まじいまでの形相だった。
統魔が身の程も知らず鬼級幻魔に飛びかかったことが、蒼秀の逆鱗に触れたのだろう。実際、蒼秀たちの救援が間に合わなければ、統魔は命を落としていたのだから、蒼秀が激怒するのも当然の話だった。
しかし、あのとき、統魔は、自分を止めることができなかった。
どういうわけか幸多を殺そうとした鬼級幻魔バアルを許せなかったし、見過ごすことなどできるわけもなかった。ましてや、自分だけが助かる道など、あろうはずもなく、故に彼は我を忘れ、飛びかかり、死にかけた。
まったく、兄弟らしい、と言わざるを得ない。
幸多も、そのような経緯で命を落としかけたという。
退職した古大内美奈子によれば、幸多は、彼女を窮地から救うためにバアルに立ち向かい、死にかけたのだ。
そして、そんな幸多を救うために命を落としかけたのが、統魔だ。
そういう部分が似通っているのは、同じ両親に育てられたからだろうし、同じ原風景を見ているからだろう。
誰も幻魔に殺させたくない、殺させるわけにはいかないという怒りが、原動力になっている。
そう、確信している。
そしてそのとき、統魔は、ふと、ざわめきを感じた。それは胸の奥を駆け抜けていき、表出する。
「……なんだ?」
統魔は、思わず勢いよく立ち上がった。それまで彼が座っていた椅子が倒れ、音を立てる。店内のほかの観客からの元々高かった注目度が否応なく高まるのを実感として認めるが、そんなことはどうでもよくなっていた。
嫌な感覚があった。
それは、鬼級幻魔バアルが現出した報告を聞いたときに感じたものと同種の、直感。
すると、突然、店内を流れていた音楽が止み、緊急報道が入った。
『たった今、戦団より幻魔災害の発生が確認されたとの発表がありました。場所は、出雲市大社町大社山頂野外音楽堂――』
その瞬間、統魔の脳裏を過ったのは、悩ましげに、しかし、楽しそうに服装を選ぶ幸多の姿だった。
野外音楽堂には、幸多と友人たちがいて、ライブを楽しんでいる最中だったはずだ。
「隊長」
統魔を見つめる字の目は、強い意志が込められていて、いまにも飛びだそうとする彼を引き留めるべく、全身全霊を上げている、そんな気配だった。
いわれるまでもないことだ。
報道がなされたということは、戦団が既に手を打ち、現地の戦力で対応しているか、現地に戦力を結集させているかのどちらかだ。
統魔の出る幕など、あろうはずもない。
「わかってる」
統魔は、席に座り直しながら、胸の奥のざわめきが消えないことについて考えていた。
この妙な不安はなんなのか。
幻魔災害に巻き込まれて死ぬような幸多ではあるまいが、だが、数日前死にかけたばかりだという事実もあり、統魔の頭の中はそのことで一杯になっていた。
いますぐにでも飛び出して現地に向かい、幸多の安否を確認したい――そんな、過保護にも程があることを思ってしまうのは、良くないことなのだろうが。
それでも、と、統魔は、考え込むのだった。
携帯端末を操作して、戦団の情報を確認する。
現場はどうなっているのか。
現地に赴かずとも確認する方法ならばいくらでもある。
その一つが、戦団の情報網を利用することだ。
戦闘部の導士ならば、一般市民には手に入れることの出来ない情報だって入手可能だ。
そうした情報を閲覧することで気を落ち着かせようとしたのが、間違いだった。
統魔は、予期せぬ字面に愕然とした。
特別指定幻魔弐号の現出が確認された、と、戦団情報網が伝えていたからだ。
折れた大太刀による左脇腹から右肩への切り上げは、見事、通った。
刀身が折れたからといって、F型兵装の切れ味が鈍ることはないのだ。F型兵装の真価は、武器そのものの切れ味にはない。武器が発する超周波振動による魔晶体の構造崩壊にこそ、その意味があるのだ。
だから、刀身が真っ二つに折られていようと、関係がない。
折られた刃がバアル・ゼブルの肉体を、魔晶体を切り裂き、体内を巡る魔力を鮮血の如く迸らせる。赤黒い破壊的な熱量。その真っ只中を踏み込み、幸多がさらに斬りつけようとしようとしたそのとき、バアル・ゼブルの姿が消えた。大太刀が空を斬る。
見ると、足下に赤黒い穴が開いていて、その穴がいままさに閉じるところだった。
「おれ様に傷をつけるなど、玩具にしては上等すぎるな」
バアル・ゼブルは、悪魔を模した彫像の上にいた。幸多の斬撃による切り口を右手でなぞるようにしながら、瞬く間に塞いでいく。この程度の斬撃など、なんの意味もないと言いたげだ。
実際、意味はないのだ。
幻魔を斃すには、その心臓たる魔晶核を破壊する以外にはない。
そして、鬼級幻魔などは、魔晶核を破壊されない限り、無限に近く再生し続ける。
「玩具じゃないからな」
「どうだか」
嘲笑い、特定幻魔弐号が指を鳴らすと、二十二式大太刀が根本から崩壊した。鍔に隠されていた複雑な機構が露わになったが、それもばらばらに崩れていく。
幸多は、柄だけになった大太刀を握り締めたまま、バアル・ゼブルを睨んでいた。
バアル・ゼブルは、余裕に満ちた態度で、悪魔の像の上に佇んでいる。
距離にして五メートル程度。
一足飛びに詰められる距離であり、間合いなど存在ないといっても過言ではない。
「さあ、どうする?」
バアル・ゼブルは、幸多を嘲笑う。