第百七十話 復活祭(四)
アルカナプリズムのボーカル、ヒカルがマイクを手にしたままその場に倒れたのは、突然のことだった。
突如、全身から莫大な光を放ち、その光が巨大な渦を巻いて柱の如く聳え立ったのも束の間、光の発生源であるヒカルの体が揺れ、なにものにも支えられることなく倒れ伏した。
観客は最初、このライブの演出なのではないか、と、思った。
復活祭と銘打ったライブツアーだ。このような演出があったとしてもおかしくはなかった。なにせ、これまでのライブでも様々な演出が行われてきている。それこそ、死からの蘇生という演出は、アルカナプリズムのライブコンサートでは、ある意味恒例といっても差し支えがないくらいだった。
だから、熱心なファンほど騒がなかったし、ヒカルが倒れたことで驚いたような反応を示す観客を見て、むしろ優越感にすら浸っていた。
ああ、アルプリ初心者なのか、と、そうした反応を見て、思ったものなのだ。
しかし、演奏が止まり、バンドメンバーがヒカルに駆け寄る光景を目の当たりにすれば、熱心なファンの反応も変わるというものだ。
これが予定通りの演出などではなく、突発的な事故である可能性が急激に高まったからだ。
そして、それはバンドメンバーがヒカルの容態を確認し、関係者を呼びつけたことで確信に変わる。
舞台上も観客席も、会場全体が騒然となった。
「お、おい、どうなってんだ……!?」
「ヒカル様?」
「いやああああ!」
「ヒカル様ああああああ!」
観客の反応も様々だが、概ね、この状況を理解できないといったものばかりだった。幻魔が現れたとき以上の混乱が観客席を包み込み、怒濤のように飲み込んでいく。波紋はあっという間に会場全体に行き渡り、混乱が伝播し、破綻が起き始めた。
突如起こった幻魔災害も乗り越えたことで、アルカナプリズムと観客の間には、この上ない一体感が生まれていた。歌も演奏も最高潮であり、観客の熱狂ぶりも凄まじいとしか言い様のない状態だった。
それなのに、それらが一瞬で瓦解した。
「ヒカル様、どうなったの?」
「わからん、おれたちにはなにも……」
「まさか、こんなことになるとはな」
「どういうこと?」
圭悟たちも、どうしたらいいのかわからないといった有り様だったし、会場を包む漠然とした不安と混乱に飲まれていた。
幸多も、そうだ。会場の雰囲気にこそ飲まれておらず、むしろこの熱狂ぶりに違和感ばかりに苛まれていたが、しかし、突如としてボーカルが倒れるという事態を目の当たりにして、衝撃を受けないわけがなかった。
舞台上では、ライブの関係者たちが集まり、ヒカルの体を舞台袖に運び出そうとしていた。
そのときだった。
歌声が、聞こえた。
それはさながら七色の歌声と呼ぶに相応しいものでありながら、ヒカルの声に似て非なる、美しくも禍々しいものだった。
警報が鳴るのと、幸多がそれを確認したのは、ほとんど同時だっただろう。
それは、主舞台の上空にいた。
一目で、幻魔だということがはっきりとわかった。それも妖級下位。下位だが、妖級だということから、その力は、先程まで導士たちが戦っていた幻魔と明らかな力の差があることは、疑いようがない。
妖級と獣級の違いは、その姿態だ。
獣級は、鳥や獣、魚や蛇に似た外見をしているものばかりだが、妖級になると、人間に近い姿形をしている。イフリートが炎の巨人であるように、ジンが嵐の巨人であるように。鬼級ほど人間と酷似しているわけではないが、妖級は獣級とは比べものにならないほど人間に似ている。
上空に現れたそれは、艶やかで美しい女性の肢体を持ち、頭部から一対の翼を生やしている。膨大な黄金色の頭髪が風に揺れ、赤黒い双眸が会場全体を睥睨しているかのようだ。
そして、豊かな胸を惜しみなく披露し、しなやかな肢体を見せつけるが如く、浮かんでいる。全体像としては、やはり人間に近い。大きな違いは、やはり頭部の翼であろう。細長い手足の先、指先から伸びた巨大な爪も、人間のそれとは大きく異なる。
下位妖級幻魔サイレン。
幻魔災害の発生と早急な避難を誘導する警報音が、会場全体、ありとあらゆる場所で鳴り響いていた。携帯端末からだけではない。野外音楽堂の様々な設備からも流されており、避難場所への経路を誘導する音声も各所から聞こえてきていた。
しかし、混乱は、起きない。
先程、多量の幻魔が投下されてきたときのような恐慌も、混乱も、一切、起きなかった。起きる気配すら、なかった。
(え?)
幸多は、予期せぬ事態に戸惑い、周囲を見回した。そして、認識する。
「どういう……」
幸多の目は、観客席のみならず、野外音楽堂全体の異常事態を捉えていた。観客席を満たす一万人の観客のうち、幸多を除く全員が意識を失って倒れていて、主舞台の上では、ヒカルを運び出すために集まっていたバンドメンバーとライブ関係者の全員が昏倒している。
誰もが目を見開いたまま気絶していることから、なんらかの魔法の影響を――。
「おまえか!」
幸多は、妖級幻魔サイレンに視線を戻した。サイレンは、歌い続けている。七色に変化する歌声は、極まった透明感を持ち、同時に破壊的ですらあった。それは空中から地上に向けて放射された魔法そのものであり、耳にしたもの、いや、その魔力の波動に触れたもの全員の意識を奪っていったのだ。
あっという間に。
そして、幸多を除く、魔法士、魔法不能者の全員が、その対象となっていた。
理由は、明白だった。
「転身」
幸多は、起動言語を唱え、F型転身機を起動させた。服に忍ばせていた転身機が光を発し、全身が閃光に飲まれる。そして、違和感が全身を包み込んでいったのは、一瞬。刹那にも満たないわずかな時間だ。
その一瞬のうちに幸多の全身は、闘衣に包まれていた。
F型兵装・闘衣。
それは、魔法不能者用に開発された戦闘装備であり、全身を包み込む防具だ。足の指先から、手の指先まで、首も完全に覆っており、頭部も流線型の兜で護られている。また、胸部、背部、胴、両肩、前腕、脚部は強力な魔法金属製の装甲に包まれている。
『あー、もしもーし、聞こえてるぅ?』
不意に闘衣に仕込まれた通信器から聞こえてきたのは、情報官・木村果奈子の声だった。独特な訛りからすぐにわかる。
「はい、聞こえてます」
『良かったわぁ、いま現場にいるはずの導士全員と連絡がつかんくなったんよぉ』
「サイレンのせいですね」
幸多は、幻魔を睨み据え、その幻魔の赤黒い目がようやくこちらを捉えたことを確認すると、その場から飛び離れた。周囲には圭悟たちや観客がいて、とても攻撃の的にされていい場所ではなかった。友人たち以外ならばいい、というわけではないが。
一足飛びに観客席を飛び越え、主舞台へと至る。
なぜ、幻魔が幸多を瞬時に捕捉したのか、その理由は推測がつく。
魔素密度だ。
幸多は、完全無能者であり、魔素を内包していない。ただし、身につけているものの魔素までなくなるわけではない。が、一般的に販売されているような衣服に膨大な魔素が籠もっているわけもなく、故に幻魔は幸多を認識しない。できない。
しかし、幸多が転身機によって闘衣に着替えたのであれば、話は別だ。闘衣の魔素密度は、市販されている衣服の比ではないのだ。装甲部には、魔法金属を用いてもいる。突如、その場所の魔素密度に大きな変動があれば、認識も変わろうものだろう。
もっとも、幸多が最初から闘衣を着込んでいれば、話は別だったかもしれないが。
『せやねん。いきなり現れてあんなん歌われたらなぁ、対処のしようがないわ。ほんま、現場にきみがいてくれて助かったわぁ。こんな幸運もあるんやねぇ』
「そうですね。斬魔」
どこか場違いなまでの緊迫感のなさに戸惑いつつも、幸多は、召喚言語を唱えた。それによって、転身機の物質転送機能を起動する。光が生じ、手の中に一振りの剣が出現する。
二十二式両刃剣・斬魔。分厚い蒼黒の刀身が特徴的な両刃の剣が、ずっしりとした重量でもって現実感を思い知らせるようだった。
『幸多くんも知ってると思うけど、サイレンの音波攻撃は、魔素に響くねんな。せやから――』
妖級幻魔サイレンが歌声とともに放出する音波は、人体を構成する魔素に強く響き、幾重にも反響し、意識を奪う。だから、その場にいるだれもが気絶し、昏倒しているのだ。
会場内で幻魔の死骸の撤去作業を行っていた導士たちすらもが、為す術もなく、意識を失ってしまった。
サイレンの存在に気づいていれば、対抗手段を取ることも不可能ではないのだが、サイレンの発生は、誰も予想できず、想像すらできなかった事態だ。対応が遅れ、音波攻撃の直撃を喰らえば、導士たちが意識を失ったのだとしても、なんら不思議なことではない。
幻魔との戦いは、常に命懸けだ。
わずかな失態が命取りになる。
幸多は、サイレンが頭部の翼を大きく広げる様を見た。こちらを見下ろす双眸が赤黒く、強く輝く。
声が、響いた。
『きみには効かへん』
幸多は、飛ぶ。
七色の歌声の真っ只中を突っ切るように。