第百六十六話 悪趣味
開演時刻を迎えた瞬間、主舞台を隠していた巨大な幕が空高く舞い上がって、舞台上に眩いばかりの光が差した。七色の光が趣向を凝らした舞台上を照らし出し、アルカナプリズムの面々を強く激しく主張していく。
ギタリストのフールフールが生み出す激しい旋律が、魔法によって何倍にも拡大され、会場内に反響する。ベーシストのアマネが波動のような重低音を響かせれば、ドラマーのエンプレスは、さながら雷鳴のような音色を、天地を震撼させるかの如く響かせる。
そして、大社山頂野外音楽堂が、観客の歓声に満ちたのは、主舞台の中心にヒカルが姿を現したからだ。天使のような、と形容される彼の容姿は、まさに天使のように美しく、光り輝いていた。
その姿は、舞台の上空に立体映像となって大きく映し出されており、観客席のどこにいてもはっきりと見えるように配慮されていた。一万人収容の観客席だ。舞台から最も遠い席からでは、そうした配慮でもなければ舞台上の様子などわかりっこないかもしれない。
ただ、舞台の構造はわかる。
魔術師から愚者に至るまで、全ての大アルカナを模した二十二の彫像が各所に配置された大舞台。それらの彫像が楽曲に合わせて注目を集める仕組みになっているだろうことは、熱狂的なファンなら一瞬で気づく。
「ヒカル様ああああ!」
「きゃあああああああ!」
「素敵いいいいいいいい!」
「女帝様ああああ!」
「うおおおおおおおお!
周囲で様々な反応が上がる中、幸多は、アルカナプリズムの面々に見惚れる想いだった。舞台上で圧倒的な存在感を放つ彼らは、ただ立っているだけで絵になった。
まず、ギターのフールフール。アルカナプリズムというバンド名から考えられたというその名前は、最初、グシャグシャという名前だったらしい。グシャグシャのグシャは愚者からである。
愚者とは、タロットカードにおける大アルカナの一つだ。フールともいい、グシャグシャという名前も、フールフールへの改名も、それに纏わるものである。そして、フールフールが道化師めいた派手な衣装を身に纏い、派手な化粧をしているのも、アルカナの愚者に由来する。その見た目とは裏腹の演奏技術は、高く評価されている。
つぎに、ドラムのエンプレス。女性ドラマーだが、その技量は確かなものであり、彼女がドラムを叩きつける度に鳴り響く音色はなによりも心地よかった。エンプレスという名前の由来も、タロットカードの大アルカナから来ている。
エンプレスとは女帝を意味するアルカナである、エンプレスもまた、その名に相応しい衣装を着込んでおり、かつて存在したどこかの王族のような出で立ちだった。その王族めいた衣装を身につけ、ドラムを叩きつける姿に惚れるものは少なくない。
ベーシストのアマネは、その名の由来をアルカナに持たない。本名は、天峰修であり、アマネとは彼の昔からのあだ名であり、愛称である、という。それをそのまま名前として使っているのは、愛着があってのことだろう。
しかし、ロックバンド・アルカナプリズムの一員としての格好は、大アルカナに由来している。
アマネの格好は、大アルカナの一つ、魔術師を想起させるものだ。魔法士ではなく、魔術師というところが大きな特徴といえるだろう。魔法士と言えば、もはや一般市民ですらそうなのだから、象徴的な格好というのは、ない。が、魔術師ならば話は別だ。
想像上の魔術師を連想させる黒の長衣を身に纏い、手にしたベースは、魔術師の杖を想起させるような形状をしている。複数の杖が組み合わさって出来た楽器、とでもいうような形状だった。そこから奏でられる音色は、聞くものの魂を強く打つという。
そして、ヒカルである。
アルカナプリズムのボーカルであり、最重要メンバーとも呼ばれる彼は、平均的な身長の男性である。痩せ形だが、決して痩せすぎというわけではなく、必要な筋肉を必要なだけ確保している、そんな体型だった。理想的な体型に近いかもしれない。
焦げ茶色の髪が輝いて見えるのは、頭上に浮かぶ光の輪の所為だ。魔具の一種でもある浮遊式装身具であろうそれは、想像上の天使が持つ光の輪をイメージしたものに違いなく、身に纏う純白の衣と背中に生やしたような光の翼と合わせ、まさに天使のような彼の容貌をさらに際立たせていた。
天使のようだ、というのは、男女どちらもが彼に対して抱く感想だろう。
常に天使のように美しく、時に天使のように可憐で、時に天使のように冷酷な表情を見せる彼は、まさしく地上に舞い降りた天使である、とは、アルカナプリズムのデビュー当時の評価だ。
そして彼は、その声もまた、天使のようだ、と謳われた。
「綺麗……」
幸多は、ヒカルの美しさに眩むような輝きを見出して、茫然とする。舞台上にはただただあざやかな光があり、まばゆさがある。
「だろ」
「綺麗なだけじゃないんだよ、アルプリはさ」
「うん、わかる気がする」
アルカナプリズムが奏でる前奏だけで、感情が激しく揺さぶられるような気がした。大地が揺れ、大気が震え、耳朶に染み込み、脳へと至れば、全身の細胞という細胞が歓喜の声を上げるように共鳴する。それは、会場の空気そのものだ。観客席の熱狂が、野外音楽堂全体を席巻するように巻き起こっていて、幸多もその熱狂に飲まれ、気圧されている。
そして、ヒカルが歌い始めると、会場は歓喜の渦に飲み込まれていった。
一曲目は、デビュー曲である〈ぼくは魔術師〉だった。
ヒカルの歌声は、デビュー曲の時点で完成されており、高い評価を受けていた。それはまさに七色の歌声であり、天使の歌声と呼ばれるだけのことはあるものだった。声色を自在に変化させ、幾重にも重なり、無限に広がり、反響し、拡散する。そこには見事なまでの調和があり、不協和音は一切生じなかった。
野外音楽堂の広大な会場内を縦横無尽に駆け巡る無数の歌声は、観客たちを瞬く間に陶酔状態へと陥らせていく。酩酊状態といってすらいいのかもしれない
その歌声を初めてしっかりと聞く幸多ですら、思わずうっとりとするほどの響きがあり、力があった。
まさに魔法だ。
しかし、魔法などではない、ということも明らかだ。たとえば、その歌声がなんらかの力の込められた魔法であるというのであれば、魔法そのものなのであれば、幸多には一切通用しないだろう。
幸多は、完全無能者だ。心身に直接作用する類の魔法の恩恵を受けられないのと同様に、心身に直接作用する魔法の害も受けなくて済んだ。
つまり、幸多がいままさに感じているこの想いは、アルカナプリズムの楽曲とヒカルの歌声によって喚起される感情であり、歌の力としか考えられないものだった。
幸多は、周囲の観客の興奮の渦に飲まれることにさえも喜びを感じている自分に気づいたが、それを止めようとは思わなかった。圭悟たちもそうだが、この空気、熱狂に乗らない手はない。
この状況をこそ堪能するべきだ。
でなければ、なんのためにこの会場にいるのかわかったものではない。
熱狂が、渦を巻いている。
遥か彼方、小さな列島の片隅のほんのわずかばかりの人類の領土、その真っ只中で、巨大な熱量が生み出されている。
一万人ばかりの人間が一カ所に集まり、なにやら演奏会を開いているようなのだが、その演奏会がどうもとてつもない熱気を生み出しているのは間違いなかった。
それこそ、半月余り前に行われ対抗戦決勝大会に匹敵するか、それ以上の熱量が、そこにはあった。
出雲市大社町大社山頂野外音楽堂。
そこに一万人もの人間が集まり、演奏会を堪能している。
その旋律と歌声は、さすがに彼らの居場所までは届かない。届くわけもない。この暗澹たる闇の領域に届くほどの声があるとすれば、それはもはや人間の声などではあるまい。
「それにしても、不思議だ」
彼は、空間を渡る魔法でもって演奏会場を覗き見しながら、つぶやいた。暗黒の闇の中に浮かび上がる演奏会場の景色、その一点に、彼――アザゼルは注目する。
「どうしてあんなところに空白があるのかな」
一万人ほどの人間が集まる演奏会場、その客席は、満員のように見えた。しかし、客席の中心に近い一点にだけ、空白があったのだ。通常、考えられないことのように思える。
「来られない理由でもできたのだろう?」
人間のことだからそうに違いない、と、彼は断言する。この闇の空間にいる、もう一体の悪魔だ。
「そうかな。これほどの熱狂を生み出すような人間たちなら、どんな手段や方法を使ってでも参加しようとすると思うがね」
「人間もそこまで愚かではないということだ」
「どうだろうな」
「そして、賢かったな、その人間は」
彼は、にやりとする。欠けた黒環を頭上に抱き、背中から灰色の透明な翅を四枚生やした悪魔。サタンが連れてきた新参者。
バアル・ゼブル。
「……なあ、バアル・ゼブルよ」
「なんだ? アザゼル」
バアル・ゼブルは、暗澹たる闇に融けるように佇む悪魔を見遣った。闇の中、彼の姿は完全に融けてしまっている。見えるのは、彼の目の前に生み出された魔法の光であり、そこに映し出された人間たちの宴の模様だ。
「きみは新参者だから知らないだろうが、こんなことを考えるのは、いつだってアスモデウスなのだよ」
「ふむ?」
バアル・ゼブルには、彼が言いたいことがまるで想像できない。
「本当、悪趣味だと思わないか?」
アザゼルは、苦笑交じりに告げて、新参者の悪魔から演奏会場に視線を戻した。
人間たちの魂を懸けた演奏会は、いままさに最高潮に至ろうとしていた。