第百六十一話 魔暦二百二十二年七月七日
七月七日、日曜日。
その朝、幸多は、前日のどこか憂鬱な気分を忘れるようにして、出かけるための準備を入念にしていた。
「気合い入ってんなー」
寝惚けまなこの統魔がロールパンを口に運びながら、そんなことをいってきたのは、午前八時過ぎのことだった。待ち合わせの時間まで、まだまだたっぷりと余裕がある。
統魔は、今日は非番だということもあってさっきまで寝ていたのだ。
一方の幸多は、昨日と同じくらいには早起きで、顔を洗い、歯を磨き、食事を済ませていた。あとは、着ていく服を選ぶだけだが、これが彼にとって至難の業だった。
今日、幸多は、これから圭悟たちと数日ぶりに会うのだ。しかも、ただ会うだけではない。
圭悟たちは、幸多が初任務で重傷を負っただけでなく、成井小隊の面々が戦死したことで、酷く落ち込んでいるのではないかと考えているようだった。そこで幸多を励ますのと気分転換もかねて、誘ってくれたのだった。
それこそ、人気ロックバンド・アルカナプリズムの復活記念ライブである。
アルカナプリズムは、二年間の休息期間を経て、今年になって突如として復活を宣言、ライブツアーを行うことを表明していた。
央都でも熱烈な人気を誇るロックバンドだけあって、その入場券を入手するのは困難を極めるという話だったが、中島蘭が人数分を確保することに成功したというのだ。
幸多は、そんな友人たちの気遣いが涙が出るほど嬉しかったし、なんだか長いこと会っていないような気分すらあったため、楽しみで仕方がなかった。
そして、圭悟たちに笑われることのないよう、着ていく衣服に頭を悩ませているのだ。
「アルカナプリズムねえ。おれはあんまり好きじゃないな」
「ぼくも別に好きとかじゃないけどさ、圭悟くんたちが誘ってくれたから」
「いい友達を持ったな」
「うん」
それだけは、はっきりと断言できる。
統魔は、衣服選びに四苦八苦している幸多を微笑ましく眺めながら、幻板に流れているネット番組の音声を聞いていた。統魔が朝から流す番組といえば、報道番組だ。そして、現在取り扱われているのは、昂霊丹に関する報道である。
今年になって認可が下りた新星薬品の魔法不能障害治療薬・昂霊丹は、実際に後天的な魔法不能障害の治療に効果を発揮したといわれている。
後天的な魔法不能障害は、多くの場合、放って置いても数日で回復する。それでも治らないような深刻な症状の場合には治療を受けることになるが、その治療にこそ、昂霊丹は効果的だといわれていた。そういう報告が多数あるのだから、事実なのだろう。
しかし、昂霊丹を服用した患者の不審死が確認されるようになると、昂霊丹になんらかの問題があるのではないかと取り沙汰されるようになった。
もっとも、不審死した患者を調べた結果、昂霊丹の多量摂取が原因とされるものばかりであるという話であり、昂霊丹自体に問題があるわけではない、と新星薬品は反論している。
どんな薬でも用法用量を守らなければ人体に害を及ぼす――そんな当たり前の発想が抜け落ちるのは、魔法の発明と普及に伴う、魔法医療の発達が大きく影響しているのだ、と、報道番組の識者は語る。
魔法医療は、あらゆる病を瞬く間に治してしまう。かつて不治の病とされたものですら、魔法は完治させてしまった。
どんな難病でも、どんな重症でも、完全に、完璧に、あっという間に。
もちろん、常に瞬時に魔法医師の診察を受け、治療を行って貰えるわけではないため、薬がなくなるということはなかったし、定期的に薬を服用しなければならないこともあるにはあるようだが。
一般市民が薬を軽んじるようになるのは、ある意味では自然の流れであり、このような事態になるのも必然だと、識者は告げた。
そんな話を半覚醒状態で聞きながら、幸多が着替えを終えるのを見届ける。幸多はなぜか、居間に持ちうる限りの衣服を持ち出してきていて、それらを着てみては、統魔のほうをちらちら見てきていた。どうやら、統魔の反応を判断材料にしているらしい。
統魔には、そんな弟のやり方が微笑ましくて仕方がなかった。
幸多のファッションセンスは、奇抜といっていい。
常人には理解の出来ない着こなしであり、そればかりは統魔にも到底想像の及ばないものばかりだった。幸多としては自分に似合っている、抜群のファッションを選んだつもりが、統魔たち他人には異様に見えてしまうのだ。
だから、幸多は、統魔を判断基準にした、ということだろう。
幸多は、結局、爽やかな水色が夏らしさを演出する上着と群青のズボン、そして白基調の帽子を被ることに決めた。それは統魔が及第点と見たからであり、その反応を受けて、幸多もようやく着替えを終えることができたのだった。
「これで恥をかかずに済むよ」
「おまえに恥をかくなんていう概念があることに驚きだ」
「あるに決まってるだろー、統魔じゃあるまいし」
「誰が厚顔無恥の暴走野郎だ」
「誰もそこまでいってないよ」
幸多がくすくすと笑い、そんな反応に統魔も笑みを零す。
幸多は、初任務の衝撃から立ち直りつつあるようだった。
そのことがすぐにわかるだけでも、幸多と同居することにした意味があるというものだ、と、統魔は思った。後で母に報告しておこう、とも考える。
奏恵は、幸多の初任務の顛末に衝撃を受け、動揺を隠せていなかった。それはそうだろう。奏恵にとって最愛の息子が死にかけたのだ。統魔が瀕死の重傷を負ったときもそうだったが、奏恵は、我が子が窮地に陥って動揺を覚えない人間ではないのだ。
幸多がすぐに回復するだろうということは、奏恵も理解していた。幸多の身体能力、回復力については、奏恵ほど理解している人間もいない。その点では、安心すらしていたはずだ。ただ、幸多の精神面での傷に関しては、他人にどうこうできるものではない、という事実がある。
なにをいったところで、幸多の心に届かなければ、響かなければ意味がないのだ。
そして、幸多自身がどう受け止め、どう考え、どう切り替えるのかが重要だった。
どうやら、幸多は、友人たちと遊びに出かけられるほどの精神的余裕を取り戻しており、その原因や理由がどこにあるにせよ、その点だけは安心して良さそうだった。
(まるで保護者だな)
統魔は、幸多が携帯端末で自分の全身を立体映像として映し出し、まじまじと見つめている様を眺めながら、そんなことを思った。
統魔と幸多の差は、魔法士と魔法不能者の違いだけではない。統魔が幸多より一年以上先に導士となり、任務に就き、数々の実戦を乗り越え、地獄のような戦場を潜り抜けてきた事実がある。
それは、極めて大きな価値観の違いになっている。
導士たちが無為に死んでいく戦場を目の当たりにすれば、自分とは関係の浅い導士が戦死したとしても、深く傷を負うことはなくなっていく。
死に慣れていくのだ。
歴戦の猛者であればあるほど、そうならざるを得ない。
統魔は、まだ、そこまでの境地には至っていない。が、幸多よりも多くの戦死者を見届けてきた自負がある。それが喜ばしいことではないということも重々承知しているが、避けては通れない、見て見ぬ振りの出来ない厳然たる現実だということも心得ている。
だからこそ、幸多には、仲の良い友人たちとの時間を大切にして欲しいと思うのだ。
こんな世界だ。
別れは、いつ来るものかわかったものではない。
「行ってきまーす!」
「楽しんで来いよ-」
統魔が寝間着のまま幸多を送り出すと、大きく伸びをして、あくびを漏らした。
今日は非番だ。午前中くらいはゆっくりしようと心に決めていた。
すると、携帯端末が鳴動して、着信を告げたものだから統魔は仕方なくテーブルに置いた携帯端末に手を伸ばした。
見れば、上庄字からの通知だった。
幸多が待ち合わせ場所に辿り着いたのは、予定時刻のちょうど十分前だ。
待ち合わせ場所は、葦原市中津区旭町桜台駅の駅前広場にある、桜の木の記念碑と決まっていた。桜の木の記念碑は、そのわかりやすさと知名度から、待ち合わせ場所として多くの人々が利用しており、幸多たちがそこに決めたのも、そういう理由からだった。
桜の木は、地名の由来である地上奪還部隊の副長として名を馳せた英雄・旭桜の象徴とされている。記念碑には、旭桜の生涯と地上奪還作戦における活躍等が記されていた。こうした記念碑は、央都の各地にある。
そして、記念碑前には、幸多たち以外にも待ち合わせに利用しているらしい市民の姿があった。
幸多は、そんな市民たちの中でもいち早く記念碑前に陣取ったらしい赤毛の少年の姿を遠目に発見し、思わず駆け寄った。
彼は、相変わらずの真っ赤な髪をより際立たせるような真っ黄色の上着に黒ズボンという出で立ちであり、晴れ渡る空の下、とにかく目立っていた。
「おはよー、圭悟くん」
「おう、元気そうじゃねえか」
圭悟は、駆け寄ってくる幸多の様子を見て、二度目の安堵を覚えた。最初に安心したのは、幸多がこの提案に乗ってくれたときだ。それまでは、不安を拭い去ることができなかった。
圭悟が想像する以上の困難を乗り越えてきたであろう幸多のことだから、心配するのは余計なお世話なのだろうとも思ったのだが、それでも、と思ってしまう。
幸多が無力さに打ちのめされたりはしていないか、現実の過酷さを前に沈み込んだりはしていないか、圭悟は散々に考えたのだ。
だから、こんな機会を設けることにしたのだが、幸多が応じてくれるかどうか、それが最大の懸念だった。そもそも、幸多に応じるつもりがあったとしても、任務との兼ね合いもある。
今日こうして幸多を捕まえることが出来たのは、幸運というほかなかった。
そして、幸多が明るい表情を見せてくれているというだけで、圭悟は、彼を誘って良かったと心底想った。