第百五十八話 窮極幻想計画(十一)
幻想空間上での実証実験を終えた幸多は、速やかに現実へと回帰した。
意識が現実に戻るなり視界に飛び込んできたのは、群青の瞳だった。それが美由理の目であると認識した瞬間、幸多は思わず跳ね起きようとして、額に痛みが走り、頭の中を衝撃音が響き渡った。
「っ!」
「ったあああ」
幸多は、額の鈍痛に顔をしかめながら、美由理が大きくのけぞる様を見て、申し訳なさで一杯になった。
「師弟仲良くなにやってんのよ」
イリアは、互いに額を抑えながら痛みを堪えている師弟に半眼を向けた。
美由理が無造作に調整機を覗き込んだ結果だ。
おそらく幸多が起き上がってくるのが遅いから心配になったのだろうが、だとしても、だ。美由理がここまで迂闊な姿を見せるのは珍しいことでもあり、イリアはなんだかとっても不思議な感じがした。美由理がまだ初としか言いようのなかった学生時代ですら、ここまでの醜態を晒したことはなかったのではないか。
三人は、戦団技術局真第四開発室内にある幻創機調整室にいる。
幻創調整機・夢幻は、一見すると金属製の棺のように見えなくもない。大半の大人が入れるように設計されているため、幸多が入る分には狭さも圧迫感もなかっただろう。
そんな精密機械の塊である鉄の棺桶は、現在、仰向けに設置されている。幻想空間上での実証実験が終わり、調整機の蓋が開いたのにも関わらず、中々幸多が起き上がってこないことが美由理を心配させたようだ。その結果、先程の珍事が起きた。
「す、すみません、師匠」
「いや、悪いのはわたしだ」
「そうよ、悪いのは美由理よ。気にしちゃ駄目よ、幸多くん」
「それはそうなのだが……」
口惜しげに睨んでくる美由理だったが、イリアは気にも留めずに幸多に歩み寄った。調整機の中から這い出てきた幸多は、疲労感を滲ませていて、全身に汗をかいていた。身につけている運動服が大雨に打たれたかのように濡れそぼっている。
おそらく調整機の中は彼の汗でどろどろになっているのではなかろうか。
それもそのはずだ。
幻想空間での実証実験で、彼は、生まれて初めて闘衣を身につけたのだ。闘衣がどのようなものなのかも知らなければ、各種兵装の使い方も知らなかった。幸多は、武術の心得こそあれど、武器を用いた戦い方を学んだ形跡はない。ならばなおさらのこと、疲労したに違いなかった。
「疲れたでしょう」
「はい……なんで、こんなに疲れるんでしょう?」
「闘衣は、装着者の身体能力を補正する、と説明したわよね。それは、導衣を身につけているとき以上のもので、その分負荷も大きくなるのよ。闘衣を身につけたこともないきみは、おそらく全身全霊で体を動かしたはず。それは、きみの身体能力を極限まで引き出す行為にほかならないの。すると、どうなると思う?」
「現実の心身が消耗する……?」
「そういうこと。通常、幻想訓練は、脳や精神を鍛える訓練であって、肉体的に消耗するということはないわ。それはつまるところ、体を鍛えることができない、ということでもあるのよね。だって、体を動かしていないんだもの、当然よね。でも、これは違う」
イリアは、夢幻を示して、いった。
「幻創調整機・夢幻はね、幻想空間における負荷を利用者に体感させるのよ。だから、きみはいま、とてつもなく消耗している。闘衣を身につけ、極限まで肉体を酷使したから」
「それならそうと先に言っておけ」
「そうね。次からはそうしましょうか」
イリアは、美由理の保護者のような振る舞いに目を細めた。師匠らしさが少しは身についてきたのかもしれない。そしてそれは決して悪いことではなかった。
美由理は、元より責任感だけは誰よりも強かった人間だ。軍団長に任命されたのも、能力だけでなく、人間性も評価されてのことだ。
それが、弟子を持ったことで、より良い方向に進んでいくのであればいうことはない。
まさか彼女が魔法不能者の弟子を取るとは、想定外も想定外だが、イリアにとっても悪いことではなかった。
イリアにとって、魔法不能者の、いや、完全無能者の皆代幸多が身近な存在になることは、望ましいことだった。
「少し、休みましょうか。幸多くんだって、服を着替えたりしたいでしょう?」
「ええと、はい」
「そういわれてみれば、汗だくだな」
美由理は、そのときになって初めて、幸多が身につけている服に汗が滲んでいることに気づいた。黒を基調とした運動服、その全身がさらに黒ずんでいるように見える。
この薄暗い室内でもはっきりとわかるくらいなのだから、余程のことだろう。
イリアの提案を受けて、休憩時間を挟むこととなった。
幸多は、第四開発室内のシャワールームで全身の汗を洗い落とし、爽快な気分になった。そして、制服に着替える。実証実験のために着ていた運動服は、備え付けられていた全自動洗濯機に放り込んでいる。後のことは開発室の人達に任せておけばいい。運動服は、元々開発室の備品である。
シャワールームを出ると、美由理が待ってくれていた。
「ここは複雑だからな」
そういって、美由理は、幸多をイリアの待つ部屋へと先導した。
先程の武器庫である。
武器庫に足を踏み入れ、室内を見回せば、幻想空間での実証実験で用いた武器はもちろんのこと、使っていない武器も多数保管されていることに気づく。
短剣、大刀、薙刀、巨大な槍まで様々だ。
「あら、もういいの?」
「はい。疲れはもう取れましたから」
幸多は、イリアに笑顔で答えた。実際、疲労はもう残っていなかった。シャワーを浴びている間に体力も回復し、精神的な消耗も消えてなくなっている。幸多の体力は尋常ではないのだ。ちょっとやそっとのことでは力尽きたりはしない。
「元気ねえ。若いからかしら」
「それもあるだろうな」
「わたしたちも若いんだけど」
「三十路ももう目前だが」
「なんで自爆するの。そしてそれにわたしを巻き込むのよ」
「自爆もなにもないだろう。母――副総長など、七十代だぞ」
「それは……そうだけど。そういう問題じゃなくて」
「そうだな。そういう問題ではないな。F型兵装について、だ」
「……はあ」
イリアは、とりつく島もないといった様子で頭を振ったが、かといってくだらない話に時間を割いているのも馬鹿馬鹿しくなって、美由理の話題に乗り換えることにした。
幸多は、そんな二人のやり取りをきょとんとした顔で、聞いていた。年齢など、どうでもいいことだった。何歳だろうが美由理は美しく魅力的な女性だし、イリアも変わらない。ふたりとも、群を抜くほどの容姿の持ち主で、そんな二人の側にいられるというだけで幸福感を覚えるのは、当然といっていい。
「F型兵装が幻魔に通用するということは、わかった。飽くまで幻想空間上では、だが」
「そうね。あなたには、現状、理論上は通用する、としかいえないでしょうね。わたしたちは、散々研究して、実験もしてきたから、通用すると断言できるんだけど」
「別に第四開発室を疑っているわけではないが、弟子の命がかかっているのだ。慎重にもなる」
「そうねえ。確かに、その通りよね。でも、導衣を身につけて、対抗手段も持たずに戦わせるほうが余程危険だと思うけど」
イリアが道理を告げると、美由理がバツの悪そうな顔をした。
「……その通りだな」
「そこまで凹むこともないのに」
「事実、幸多は死にかけたからな。わたしの判断が間違っていた」
「あの、師匠、ぼくが死にかけたのは鬼級幻魔のせいですし、F型兵装で装備を固めていたとしても、結果は余り変わらなかったような……」
幸多は、イリアの顔色を窺いながらも、美由理の心境をこそ気にかけた。
確かに幸多は死にかけた、といっても過言ではない状況に追い込まれた。しかし、それは美由理が幸多を任務につかせたせいではない。よりにもよって、鬼級幻魔バアルと遭遇してしまったからであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。誰が悪いわけでもない。そもそも、幸多が殺されかけたのは、幸多が飛び出したからなのだ。なにもせず、黙ってみていれば、バアルはおそらく、幸多に気づくこともなくその場を去ったに違いなかった。
その場合、古大内美奈子も殺されていただろうが。
ともかく、自分が殺されかけたことに美由理の判断は関係がない、と、幸多は主張したかった。そこを気に病まれては、申し訳がない。
しかし、幸多のそんな意見をイリアがきっぱりと否定する。
「結果は、変わったわよ」
「ほう。随分と自信があるじゃないか」
「当たり前でしょ。第四開発室の、戦団技術局、情報局、いいえ、戦団の粋を結集して作り上げたのがF型兵装なのよ。これらには、戦団が持ちうる全てが注ぎ込まれているの。F型兵装さえ装備していれば、幸多くんが殺されかけることはなかった、と、断言するわ」
「そこまで、ですか」
「きみは、さっき試着して、そう思わなかった?」
「それは……」
イリアに真っ直ぐ見つめられて、幸多は、どう答えるべきかと迷った。イリアのまなざしは鋭く、有耶無耶にすることを許さないといわんばかりだった。
確かにF型兵装は、素晴らしい装備群だった。闘衣は、幸多の能力を導衣以上に発揮したし、数々の武器は、幻魔に通用した。魔晶体を破壊し、魔晶核を粉砕して見せた。幻魔を斃せたのだ。しかも下位獣級幻魔のみならず、上位獣級幻魔、下位妖級幻魔に至るまで、だ。
それは、幸多には成し遂げられなかったことだ。
それが幻想空間のみならず、現実世界でも同じ結果になるというのであれば、これほど心強いものはない。
そして、あれだけの速度を出せるのであれば、バアルの攻撃を避けることもできたかもしれない。攻撃が通用したかは、わからないが。
「そうかもしれません」
「そうよ、そうなのよ。F型兵装は、きみの戦闘能力を高めるだけでなく、きみの命を護るものでもあるのよ。少なくとも、導衣よりは余程、魔法不能者の身の安全について考えられて、作られているわ」
イリアが、棚の中に飾られた闘衣を見遣りながら、力強く断言する。そこには万感の想いが込められているようでもあった。
幸多も倣ってそちらに目を向けた。
導衣の内衣に似て非なる形状のそれは、全身服とでもいうべきものだ。その上で、各所に装甲がつけられている。頭部、胸、肩、胴、前腕、手、脚、足――それら装甲は、人体の急所を護りつつ、可動範囲を確保するため最小限に収められているようだ。
「導衣は、極めて優れた装備だけれど、結局、魔法士専用なのよ。導士の魔法士としての能力を高めるための装備であって、魔法不能者のことなんて考えてもいない。それはそうよね。戦団は、魔法士の戦闘集団であって、そこに魔法不能者が戦闘要員として加わる可能性なんて、一切考慮されていなかったんだもの。魔法不能者用の装備なんて、研究すらされなかったわ」
「だが、きみがその輝かしい功績を以て、この第四開発室を設立させた。全ては、魔法不能者用の戦闘装備、F型兵装を開発するため、か」
美由理は、少しばかり呆れつつも、イリアの眩いばかりの情熱に目を細めた。イリアが魔法不能者専用装備群を研究開発するために設立させたのが第四開発室であり、彼女は、そのためにこそ、実績を積み重ねてきた。それこそ、戦団上層部、護法院の誰一人としてイリアのやり方に口出しできないくらいの功績を上げているのだ。
それもこれも、このためだったというのだから、美由理も言うべき言葉が見つからなかった。
イリアが、胸を張り、その豊かな胸に自らの手を当て、宣言する。
「ええ。そして、今日から第四開発室は、皆代幸多くん、きみを全面的に支援させてもらうわ」
「ええ!?」
「ふむ……なるほどな。そういうことか」
突然の申し出に混乱すら覚える幸多だったが、美由理は、イリアの目論見を理解したような反応を見せた。