第百五十三話 窮極幻想計画(六)
幸多は、空脚によってまるで地面を滑るように低空を飛び、攻撃準備に入ったばかりのケットシーに肉薄する。ケットシーが甲高く吼えれば、その体の周囲に渦巻いていた水気が、無数の水球を構築し、壁となって幸多との間に立ちはだかった。
無数の水球が襲いかかってくるのを見ても、彼は物怖じひとつせず、突き進む。水球が幸多の幻想体に直撃し、爆ぜ、衝撃が体を貫く。体中、至る所に痛みが生じるが、幸多は黙殺する。幻想体は崩壊しない。ケットシーの水球が炸裂した程度で吹き飛ぶような、やわな肉体ではないのだ。
ケットシーがさらに水気を生み出そうとするが、そのときには幸多は幻魔の懐に飛び込んでいる。そして、幸多は、ケットシーが咆哮した瞬間、その大きく開かれた口の中に右手を突っ込んだ。幻魔の全身から水気が迸り、針のようになって幸多を迎撃するのだが、幸多の手は止まらない。体内の魔晶核を掴み取り、握力だけで粉砕して見せると、ケットシーは断末魔を挙げることもできないまま、脱力し、双眸の赤黒い光も消え去った。
ケットシーは、死んだ。
すると、風が巻き起こって幸多を吹き飛ばした。それまで静観していたカーシーが、ケットシーの死に連動するようにして動き出したのだ。
そう設定されているのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
通常、幻魔がこのようなある種統制の取れた動きをすることはない。少なくとも獣級下位に連携や協調が見られることはなかった。
が、これは訓練であり、幸多の実力を試すための戦闘なのだ。
幸多は、受け身を取ることで地面への衝突による痛みを軽減すると、即座に跳ね起きた。
カーシーは、風妖犬とも呼ばれる。ケットシーが水を操る猫であるとすれば、カーシーは風を操る犬である。これまた愛くるしい外見をしているが、禍々しく輝く赤黒い双眸を見れば、人類の遺伝子に刻まれた恐怖が蘇るというものだ。
暗い緑色の長毛から風気を発し、その大型犬にも匹敵する体躯を浮かせつつ、風の刃を生み出し、幸多を狙撃する。
幸多は、大気を切り裂きながら迫り来る風の刃を大きく回避し、幻魔への接近を試みる。
幸多の全身がケットシーとの戦闘による痛みを訴えているが、問題はない。導衣も多少傷ついている程度だ。導衣は、幻魔や魔法士との戦闘を念頭に開発された装備であり、世代を重ね、洗練されていっている。
第三世代導衣・流光は、下位獣級幻魔程度の攻撃ならば、基本的に傷つけられることがない、といわれている。余程の無茶をしない限り、だ。
妖級以上の火力となると損傷する可能性もあるし、たとえ下位獣級幻魔であっても、場合によっては導衣はともかくとして、導衣内の肉体が負傷する可能性はないとは言い切れない。
いま幸多が痛みを覚えているのは、ケットシーの水球の直撃を受けた結果、その衝撃が導衣を貫通し、肉体に浸透したからに他ならない。
とはいえ、だ。
幸多は、導衣の性能を確かに実感するとともにカーシーに飛びかかると、次々と飛来する風の刃を潜り抜け、あるいは体を捌いて躱してみせた。そしてやはりカーシーの口腔内に腕を突っ込んで、強引に魔晶核を掴み取って粉砕する。透かさずその場を飛び退けば、カーシーの死骸を紅蓮の炎が燃え上がらせる光景を目の当たりにした。
ガルムが動いたのだ。
ガルム。魔炎狼とも呼ばれる獣級下位幻魔は、全身から立ち上らせる熱気が炎の如き体毛を形成しているような大型の狼だ。その狂暴極まりない面構えは、ガルムが下位獣級幻魔の中でも強い部類に入ることを示しているようだった。
ガルムが不気味な咆哮を発し、地面を蹴る。巨躯が空中に躍り上がったかと思うと、幸多に向かってその角度を変えた。幻魔は魔法を使う。空中で軌道を変えるなど、朝飯前だった。
幸多は、しかし、そんな幻魔の動きを完全に読み切って飛び退くと、ガルムが突進してくるのを軽々と躱し、大口を開き、火球を放つ瞬間を目の当たりにした。熱気が鼻先を掠め、皮膚が焦げるような感覚があったが、そんなことでたじろぐ幸多ではなかった。そのときには、幸多の右腕は、ガルムの口腔内に突っ込まれていて、魔炎狼の体毛が傲然と燃え盛る中、魔晶核を握り潰したのだった。
ガルムの魔晶体を覆っていた炎が消え去り、眼光も消滅し、死骸となったそれは、力なく崩れ落ちていく。
幸多は、三体の下位獣級幻魔を、難なく撃破して見せた、ということだ。
『評判に違わぬ戦いぶりね。とても魔法不能者とは思えないわ』
『わたしの弟子だからな』
当然だといわんばかりに誇らしげな美由理の声には、幸多もなんだか嬉しくなった。美由理が喜んでくれているということが伝わってくるからだ。しかし、イリアは、そんな美由理の発言を許さない。
『あなたはなにも教えてないでしょ』
『む』
『幸多くん、いいわよ、その調子。でもつぎは、どうかしら』
イリアが幻創機を操作したのか、幻想空間上にまたしても無数の立方体が出現した。それは、幸多の前方の一点に集まっていき、今までの幻魔の比ではない巨躯を形成していく。猛烈な熱気が幻想空間の温度を急上昇させ、炎が渦を巻いた。
燃え盛る紅蓮の炎を身に纏う、全長五メートルはあるだろう巨人。
妖級下位イフリート。
炎魔人とも呼ばれるように人間に似た五体を持ち、全身が燃えたぎる炎を発しているそれは、下位獣級幻魔とは比較にならないほどの圧力を感じさせた。
『妖級だと。勝てるわけないだろう』
『どうかしら。なにごともやってみなければわからないわよ』
冷静に幸多の実力を把握している美由理と、なにかを期待しているようなイリアの声を遥か彼方に聞きながら、幸多は、拳を固めた。じわりと全身が汗ばみ、頬を伝ってこぼれ落ちていくのを感じる。
イフリートを直接この目で見るのは、これで二度目だ。一度目は、現実世界で目の当たりにし、殺されそうになっている。
導衣を纏えば、その身体能力補正もあり、獣級下位程度ならば余裕で斃せるようになった。それは、先程の三連戦からも実感できる。
だが、妖級となれば話は別だろう。
イフリートは、妖級の中でも下位に区分される。つまり、妖級幻魔の中では弱い方だということだ。そんなイフリートに手も足も出なかったのが、三ヶ月前の幸多だ。
たった三ヶ月であの力の差を埋められるわけもない。なにせ、その三ヶ月の大半が対抗戦の猛練習に費やされたものであり、幻魔との戦闘を想定して訓練したわけではないのだ。
体は鍛えた。
法子を始めとする対抗戦部員たちとの高速戦闘の経験も、無駄にはならない。
が、妖級幻魔と戦う前提に立ってはいないのだ。
幸多は、実感として認める。拳を固め、半身に構え、イフリートを仰ぎ見る。人間に比べるまでもなく圧倒的な巨体を誇る怪物は、歩くだけで大気を灼き、熱風を巻き起こしていく。
こちらを見下ろすその双眸は赤黒く、禍々しく輝いていた。
その威容は、あの日見たそれとほとんど変わらない。
妖級以下の幻魔に個体差はほとんど存在しない、とされている。幻創機が再現した幻魔の姿が、幸多の記憶に焼き付いたイフリートとまったく同じなのは、そういうことだ。
鬼級以上になると、むしろ同じ姿形の幻魔を探すほうが困難になるというのだから、不思議だ。
鬼級以上と妖級以下では、隔絶したなにかがあるということなのだろうが。
イフリートの唸りが、大地を震撼させるように響き渡る。低く、重く、凶悪な咆哮。幸多は、全身が震えるのを実感した。しかし、総毛立つほどではない。緊張感はある。が、身動きが取れないほどではない。
鬼級幻魔バアルほどでは、断じてない。
炎魔人が吼え、その巨躯からは想像も出来ないほどの速度で飛び上がったかと思うと、全身の熱気を赤々と燃え上がらせ、火の玉となって降ってくる。
幸多は、頭上より迫り来る大火球を大きく飛び退いて回避するも、地面との衝突によって引き起こされた大爆発の余波に吹き飛ばされた。