第百五十二話 窮極幻想計画(五)
『聞こえる? 聞こえるわよね? 聞こえてるわね』
「は、はい」
一方的に畳みかけてくるように話しかけてくるイリアの圧力に負けそうになりながらも、幸多は、なんとか反応した。
全周囲には、無数の立方体で構築された空間が広がっている。
ここは現実空間ではなく、幻想空間だ。
地下第四開発室内の幻創調整室から、この幻想空間に幸多の意識を転送している。幻想空間上に作られた幻想体に、だ。
なぜこのような目に遭っているのかといえば、単純な理屈だ。
F型兵装の性能を確認するためにほかならない。
いわば、実証実験である。
イリアは、F型装備が幻魔に通用すると断言したが、美由理は、当然、疑問を持った。
たとえば、F型装備が魔法を用いる武装ならば、幻魔に通用するというのは理屈でわかる。幻魔の魔晶体は、魔法によってのみ傷つけることができるからだ。
しかし、F型装備は、魔法不能者専用の装備だと、イリアはいった。そのことが美由理には解せなかったし、理解の及ばない部分だった。
そしてイリアは、美由理にも幸多にも、F型装備の仕組みを説明しても理解できないだろう、ということで実演することになったのだ。
実演するのは、幸多なのだが。
『その幻想体は、過去の情報を元にしているから、いまのきみには違和感があるかもしれないけど、我慢してね。本当なら現在のきみに関するあらゆる情報を取り込んでからにしたかったんだけど、横のお姉さんがうるさいし、いきなり実演することになっちゃったしで、仕方がないのよ』
『わたしのどこが口うるさいんだ』
『そういうところなんだけど』
幸多は、イリアにいわれて初めて、幻想体の感覚を確かめるべく手足を動かした。
幻想体は、幸多の体を完全に再現している。外見、筋肉の質量、動体視力、あらゆる部分がだ。その上で身につけているのは、導衣だった。導士といえば、導衣を身につけて戦うのが基本だから、だろう。そして、それは第三世代導衣・流光である。
手足を動かしてみて、感覚を確かめる。
幻想体の情報は、常に最新の状態に更新しなければ、本人との誤差が大きくなっていき、やがて完全に乖離したものとなる、といわれている。
体感型ゲームなどならばシステム側で補正され、違和感を抱くこともないのだろうが、訓練などでは微妙な違和感すらも致命的だ。幻想空間上での経験を現実に持ち帰ることこそ、幻想訓練の意味であり、意義だ。その持ち帰った経験が誤差の元に築き上げられたものだとすれば、なんの価値もないのだ。
だからこそ、幻想体の更新は、常に行わなければならない。
もっとも、戦団の総合訓練所では、導士がわざわざ行うまでもなく、技術局の技術士が更新してくれるため、問題はないのだが。
幸多は、昨夜、神威との訓練を終えてからというもの、総合訓練所に行っていない。当然、幻想体の情報の更新を行っていなかった。
そして、幸多は、神威との訓練を経て、より身体能力が向上したという実感があったのだ。
その感覚は、一夜を開けたいまも変わっていない。
ただ神威と多少組み手をしただけで身体能力が上がるなど、通常、考えられないことだ。しかし、幸多はそれを実感していたし、事実としか認識しようがなかった。確信がある。それが気の所為などではないことを祈るばかりだ。
だからこそ、幻想体の身体能力と現実における幸多の身体能力の間に差が生じ、違和感や齟齬を覚えることになっていたのだとしても、おかしくはないように思うのだが。それがわかるのは、全力で体を動かしてからのことになるだろう。
今のところ、大きな差違はなかった。
『まずは、現状の把握と行きましょうか』
イリアの声が響くと、幸多の前方に無数の立方体が出現した。それらはいくつかの塊を作るように集合し、瞬く間に形を変えていく。やがて人ならざる怪物の姿を形作ると、幸多と対峙する構えを見せた。
幻想空間上に再現されたのは、下位獣級幻魔ケットシー、カーシー、そしてガルムである。人類及び戦団がこれまで集積してきた幻魔の情報を元にして作り上げられた幻想体であり、姿形だけでなく、その能力や特性も完璧に再現されている。
幻想訓練は、なにも導士だけで、魔法の撃ち合いだけを行うものではない。完璧に再現された幻魔の幻想体を相手に訓練することもできたし、多くの導士は、率先して幻想幻魔を相手にした訓練を行った。そうすることによって、いかなる幻魔と遭遇したとしても混乱することなく対処できるようになるからだ。
もちろん、現実にはそうはいかない。誰もがあらゆる状況に対応できるわけではないし、常に冷静でいられるはずもないからだ。
幸多も、鬼級幻魔バアルの現出とその後の事態に直面したことで冷静さを失った。
仲間を、同僚を失っても冷静でいられ続けることこそ、導士に求められる資質であり、能力なのだろうが。
幸多は、無意識のうちに拳を握りしめながら、イリアに問うた。
「これと戦うんですね」
『そうよ。もちろん、きみが獣級下位程度ならば斃せることは把握しているけれど、一応、ね』
『無茶だけはするなよ』
『して欲しいんだけど。幻想体だし』
『いいや、幻想体だからといって無理をする必要はないだろう。その結果、傷だらけの勝利が身に染みついてしまったらどうなる』
『ああ、もう、あなたは黙っていなさいよ!』
『むう……』
イリアが苛立ちを隠しきれないと行った様子で声を張り上げると、さすがの美由理もたじろがざるを得なかったようだ。
幸多は、幻魔の幻想体を見据え、腰を落とした。半身になって構える。左半身を前に出し、右半身を後ろに下げ、腰を落とすという構えは、真武の型の一つ、神左の型である。
右半身を前に出す型もあり、それは右魔の型という。
いずれにせよ、正面からの相手の攻撃を受ける範囲を極力減らすため、半身になって構え、その上で死に体にならないように体を微妙に揺らし続けることに意味がある。
三体の幻魔のうち、まず最初に動き出したのは、ケットシーだった。
どうやら三体同時に襲いかかってくる、ということはなさそうだ。その場合、幸多は防戦一方になりかねない。
獣級下位を斃せるとはいっても、複数体を同時に相手にしたことはなかったし、できる自信もなかった。その辺は、イリアもよく理解しているようだ。
だから、一体ずつ戦うようにしてくれているのだろう。
ケットシー。水妖猫とも呼ばれる幻魔は、一見すると愛くるしい猫のような姿をしているが、それは人間を騙すための巧妙な罠であると考えられている。可愛い野良猫だと思って近づいた人間を水圧で押し潰して殺し、その死体から魔力を奪い取るのがケットシーのやり口なのだ。
もっとも、それは魔天創世以前の昔、地上に動植物が溢れていた時代だからこそあり得た事件であり、災害だ。
現代、央都において野良猫の存在は極めて稀であり、ほぼいないといってもいい。猫と見ても警戒するように徹底されているのは、十中八九ケットシーだからだ。
ケットシーの両目が赤黒く光る。猫への擬態を早々に諦めたのか、上体を起こして二足歩行になった。すると、ケットシーの周囲の水気が渦巻きだした。幻魔の持つ凶暴性が、その愛らしかった猫の顔を怪物のそれへと変貌させている。
幸多は、対応しない。
対応では、力負けに負けるからだ。
だから、先んじて手を打つべく、地を蹴った。空脚。限りなく低空を飛び、さながら地面を滑るように移動しているように見える、真武の基本技術だ。
高く飛べばそれだけ隙が大きくなる上、魔法士ではないのだから空中で方向転換や姿勢制御などできるわけもなく、余程の好機でもなければ高く跳躍するのは悪手以外のなにものでもない。
真武は、魔法不能者が魔法士に打ち勝つために編み出され、練り上げられた武術だ。そしてそれは、魔法攻撃を多用する幻魔との戦いにも応用することが可能だった。