第百五十話 窮極幻想計画(三)
「窮極幻想計画」
美由理は、静かに、しかし確実に何処かへと移動をし始めた執務室の中で、イリアを見つめていた。室内は先程よりも暗くなっているのは、執務室を移動させるために必要なことなのだろうが。
「それがきみが第四開発室設立以来、押し進めていた計画か。第四開発室は、きみが、その揺るぎない実績と戦団への計り知れない貢献によって勝ち取ったものだといっていたな」
「そうよ。わたしが戦団に入ったのは、全てそのためだった。究極の幻想を現実にするためにこそ、わたしは戦団に入ることに決めた。戦団技術局の技術水準は、他の追随を許さないものだし、人類のためという大義名分があれば、どのような研究だって許されるものね」
イリアは、悪びれることもなく認め、断言した。彼女の語った大半の部分は、美由理には既知の事実だ。イリアが星央魔導院に入学したのも、戦団技術局に入るためだということは、親友である美由理と妻鹿愛には伝えられていたのだ。
美由理が戦闘部に入るために星央魔導院に入学したのと、大差はない。
しかし、イリアが掲げるものが抽象的過ぎて、美由理にも幸多にもいまいち理解できなかった。美由理は、イリアの目を見つめて、問う。
「……究極の幻想とは、なんだ?」
「なんだと思う?」
「質問を質問で返すな」
美由理が半眼になれば、イリアは幸多に目線を向けて肩を竦めて見せた。取り付く島がない、とでもいうように。
幸多は、そんなイリアの茶目っ気たっぷりな態度にどういう反応をすればいいのかわからず、思わず美由理を横目に見た。美由理が頭を振る。
イリアが、静かに口を開いた。
「……かつて、この世界には幻想が満ち溢れていたわ。神話や伝説、伝承や寓話、数多の物語が世界各地にあって、それは幻想として人々の心の中に息づき、人生に彩りを添えていた。時には心を躍らせる夢物語となり、時には心を震わせる創作物となり、時には、そう、幻想そのものが目的となって人々を突き動かした」
「なんの話だ」
「でも、幻想は、現実になってしまった。だって、魔法が誕生してしまったんだもの。魔法は、人々の幻想を具体化してしまった。想像の産物を形あるものにしてしまった。誰もが魔法を扱えるようになり、幻想は現実になってしまった。今や神話や伝説なんて、誰も追い求めないでしょう?」
「そういう場合ではないからな」
「それもあるけど……相変わらず、合理的ね、あなたは」
イリアは、まったく話に乗ってくれない美由理に嘆息するほかなかった。確かに彼女の言うとおりではある。現実問題として、神話や伝説を追いかけている暇もなければ、そんなことができる世界ではないのだ。神話を追いかけて央都の外に出れば、死が待っている。かといって、研究に没頭できるだけの資料を一研究者が漁れるかといえば、そんなわけもない。
結局、現実に向き合う以外にはないのだ。
誰もが、そうだ。
央都を生きる誰もが、日々、現実と向き合い、戦っている。
「研究者のほうが余程合理的なはずだが」
「あら、研究者っていうのは非合理的で夢想家が多いのよ。夢想を現実にするために研究しているようなものだもの。ロマンチストっていって頂戴」
「……それで、究極の幻想とはなんだ?」
「かつて幻想そのものだったはずの魔法が当たり前の現実になった世界において、幻想とは、なにかしら」
「結局、そこに戻るのか」
「そうよ。そしてそれは、あなたじゃなくて、きみに答えてもらおうかしら。皆代幸多くん」
「え? ぼくですか?」
「そう、きみ。きみは、どう思う?」
幸多は、突然イリアに質問を投げかけられて一瞬戸惑ったものの、よくよく考えれば、なにも迷うことのない問題だった。
「……ぼくにとっては、魔法こそ幻想だと思いますけど」
「うむ」
美由理が至極当然といわんばかりにうなずいたのは、幸多の境遇を理解しているからだ。
幸多は魔法不能者だ。魔法を使えないことが当たり前の身の上である彼からしてみれば、魔法は、幻想と呼ぶべき概念にならざるを得ない。たとえ現実にありふれていたのだとしても、彼自身が自由に使えないのだから。
「そっか。きみは、そう思うのね。でも、わたしはそうは想わないわ。この魔法で満ち溢れた世界で、魔法を使わずとも生きていくことのほうが、とっても幻想的だと、わたしは考えているのよ」
イリアは、幸多の褐色の瞳を見つめながら、いった。どこかあどけなさを残した丸みを帯びた顔は、まだまだ導士としての覚悟も足りなければ、経験も浅く、薄い。とてもではないが、戦士と呼ぶにはあまりにも貧弱過ぎる。
そう感じるのは、イリアが美由理の顔を見慣れているからにほかならない。戦団最高峰の魔法士の筆頭である伊佐那美由理は、戦士の中の戦士だ。顔つき一つとっても、十年以上昔の学生時代とは比べ物にならないほどに研ぎ澄まされている。
だが、そんなことは、いまは問題ではない。
いまや星将と畏れ敬われている歴戦の猛者たる美由理だって、最初はそうだったのだ。星央魔導院入学当初の美由理など、右も左もわからず、魔法士としての才能だけでどうにかしていた。そんな彼女でも、今では立派な軍団長になれている。
幸多も、今でこそ駆け出しの導士だが、将来的には戦団を代表するほどの導士になれる可能性があるのだ。
「特にきみは、完全無能者。その身体に一切の魔素を宿さず、故に魔法の恩恵を受けることすら出来ない存在。この世界で唯一にして、窮極の幻想」
イリアは、幸多に歩み寄ろうとしたが、進路上に美由理が立ちはだかったため、諦めた。美由理のそれは無意識の反射に過ぎないのだろうが。
「それがきみなのよ、皆代幸多くん」
「ぼくが……幻想」
幸多には、全く実感の出来ないことだ。そんなことをいわれても、ピンとこない。確かに希有な体質であるということは、わかりすぎるくらいにわかっている。だが、それが幻想的かつ、窮極などといわれるのは、どうなのか。
「つまり、だ。究極幻想計画とやらは、幸多を当て込んだ計画だった、ということか?」
「少し違うわね」
執務室の振動が収まり、室内の明るさが戻った。
長い長い振動時間は、執務室がどこをどう移動したのかまったく想像つかなかったし、そもそも執務室が移動することすら異常ではないかと思えた。
「半分は正解。でも、半分は間違い。まあ、ついてくればわかるわよ。わたしたちが一体なにを企み、なにを研究し、なにを開発し続けてきたのか。その一端くらいなら、見せてあげられるわ」
そういって、イリアは執務室の扉を開いた。
扉の向こう側には、さっきまでとはまるで異なる外観の通路が巡っていた。真っ白だった壁や床、天井は、黒く硬質なものに変わっていて、天井照明の淡い光だけが頼りといった有り様だった。
「数十年どころか百年ものの通路だから、立て付けが悪いったらありゃしないのよね。一刻も早くなんとかして欲しいんだけど、そういうわけにもいかないし」
「なぜだ?」
「この通路の一部をいじるだけで、本部地下全体に甚大な被害が出かねないのよ」
「ええ!?」
「というのは大袈裟にいった冗談だけど」
イリアは、訂正しながらも、幸多の反応の良さに心地よくなって頬を綻ばせた。そんなイリアの横顔を美由理が睨み据えていることを彼女は理解したが、黙殺する。
三人並び立って、通路を進んでいく。
通路は、道幅も広ければ、高さも十分すぎるほどにあった。まるで身の丈三メートルを超える巨人のために用意されたのではないかというような通路だ。
そんな幸多の想像は、イリアの説明によって補強されることになる。
「この地下迷宮は、約五十年前、地上奪還作戦の成功後、央都開発に先んじた調査で発見された場所よ。戦団本部が在った場所には、かつて、鬼級幻魔リリスの宮殿があったことは、知っているでしょう」
「はい、学校で学びました」
「その宮殿の地下には、領土全域を巡る迷宮があったのよ。リリスは、その地下迷宮を使って領土全域の支配を確固たるものにしていたらしいわ。そして、わたしたちは、その地下迷宮を再利用させてもらっているっていうわけ。もちろん、そのままだとあまりにも居心地が悪いから、手は入れてあるけどね」
イリアは、そんな風に饒舌に語りながら、二人を目的地へと案内していく。移動式執務室を出てから、まさに迷宮のように入り組んだ複雑な通路を迷いなく歩いて行った。
やがて辿り着いたのは、広い一室だった。地上の開発室とは異なる黒一色の室内は、雰囲気からなにからまるで違う印象を受けた。
室内に入るなり、一人の研究員がイリアを出迎えた。
「お早いお着きで」
そういってイリアに笑いかけたのは、伊佐那義流である。
「そりゃあ、急かされたもの」
「だれが急かした」
「あなた」
イリアは間髪を容れずいってきたが、美由理は黙殺した。それよりも、義流がここにいることのほうが驚きを覚える。
美由理は、兄の笑顔になんともいえない表情を返す。
「兄さんも、関わっていたんですね」
「当然だろう。第四開発室副室長だよ、おれは。室長が最も力を入れている計画に関与しないわけがないだろう」
義流が道理を説いてきたものだから、美由理は、返す言葉もなかった。
室内には、義流以外にも多数の研究員たちがいて、なにやら作業に従事している様子は、地上の開発室よりも熱気とやる気に満ちているように見えた。