第百四十八話 窮極幻想計画
「明日にでも日岡博士に会いに行くといい。美由理くんなら快く紹介してくれるはずだ」
幻想空間から現実へと回帰する直前、神木神威が幸多に告げた言葉は、幸多が家に帰ってからも脳内に響き続けた。
なぜ神威が直接紹介してくれないのか、などと問う暇はなかった。
なぜならば、現実空間に戻った直後、神威は総長特務親衛隊の導士たちによって連行されていったからだ。理由は不明だが、幸多と話す時間さえなかった以上、緊急の要件でもあったのかもしれない。
幸多は、そんな神威のどこか小さくなった背中を見送り、総合訓練所を出た。
真夜中。
満天の星々が眩しいくらいに輝く空の下、夏の熱を帯びた風を浴びていると、なんだか体がざわざわした。精神的疲労から来る悪寒とかそういうものではない。
血が、騒いでいる。
神威に全身全霊でぶつかったことが原因なのかもしれない。心身ともに興奮しきっていて、いまだその昂揚感から逃れられずにいるのだ。細胞という細胞が叫びを上げているような、そんな錯覚すら感じる。それはきっと思い違いに過ぎないのだが、なんだか立ち止まっていられなかった。
幸多は、戦団本部を出るど、天風荘に向かって駆け出した。
体が、いつになく軽く感じた。軽く地面を蹴って跳躍しただけで、重力の軛から解き放たれたかのように大きく飛び上がった。
とてつもない開放感があり、爽快感すらも全身を包む込む。
体中の筋肉という筋肉が喜びの声を上げているのがわかる。
これを成長と呼ぶのだろうか、などと、らしくもなく思ったりもした。
幸多は、建物の屋上から光の絶えない夜の市街地を遠目に見遣り、その後、天風荘の方角に視線を向けた。
地上十メートル近くはあるだろう建物の屋上まで、なんなく飛び上がることができたのだ。
全力を出すまでもなくここまで軽快に飛ぶことができたのは、初めてのことだった。
「なんだろう……この感じ」
幸多は、真夜中の静かな世界に響き渡る、全身を巡る血の音を聞いた。それは体内にのみ反響する音だったが、さながら燃えたぎる岩漿のような感じがあった。
血が、筋肉が、細胞が、叫び声を上げている。
そんな漢字だったのだ。
翌、七月五日。
幸多は、戦団本部に出向くなり、伊佐那美由理を探した。
美由理は、幸多の師匠だが、星将にして軍団長という身の上であり、多忙を極めている。
幸多につきっきりで手取り足取り教えてくれるわけではないことは、師弟の契りを交わしたときからわかりきっていたことだ。
師匠が星将となれば、そうなる。そうならざるを得ない。
統魔も、師匠である麒麟寺蒼秀の訓練を受けられる機会というのはそう多くはない、と愚痴をこぼしていた。せっかく師弟になったというのに、学びを得るための時間を得られないというのは、少しばかり悲しいものだ。
とはいえ、空いた時間を優先的に弟子の育成に当ててくれているのだから、文句をいうのも間違っているのだろうが。
美由理は、兵舎の執務室にいた。
執務室に至るまでの道中、兵舎にいた導士たちが幸多を見る目は、以前となんら変わらなかった。ほとんどの導士は、同僚の死に慣れているのかもしれないし、そうでなかったとしても態度に出さないように訓練されているのかもしれない。
幸多が軍団長執務室の扉を叩くと、入ることを許可された。
いつも通りの冷ややかさを感じる容貌で幻板を睨み付ける彼女の姿は、氷の女帝の異名に相応しいものだ。美由理がどのような作業をしているのかは幸多にはわからないが、幸多を室内に通してくれたことを考えれば、多少なりとも会話する余裕はあるのだろう。
「なにか用事か? 次の任務ならまだ決まっていないが……」
美由理は、端末を操作しながら、幸多を一瞥した。制服姿の幸多は、医療棟を退院した翌日だというのに、元気そのもののように見える。彼の体調自体には心配はしていなかったが、精神面に不安を抱えていたのだ。
それが一日経過しただけで多少なりとも持ち直したようだった。
それこそ、導士として一歩前に進んだ、というべきなのか、どうか。
幸多が、改まった面持ちで、口を開く。
「師匠にお願いがあって、参りました」
「わたしに? なんだ?」
「いきなりですけど、日岡博士を紹介して頂けませんか」
「……イリアをか? 本当に突然だな、きみは」
美由理は、思わず怪訝な顔になるのを抑えられなかった。日岡イリアは、技術局第四開発室長だ。戦団有数の技術者であり、博士と尊称されるほどの天才である。現在の戦団においてなくてはならない人物というのは少ないが、その少ない必須人員として真っ先に名を挙げられるのが彼女だった。
そんな彼女だ。お近づきになりたいと考えるものがいたとしてもなんらおかしくはないのだが、しかし、幸多がそんなことを言い出してくるというのは、あまりにも不自然だった。
幸多は、美由理の反応にぎょっとなって、頭を下げた。
「す、すみません」
「いや、謝ることではないが……しかし、突然、どうした? イリアが気になっているのか?」
「あ、いや、そういうわけではなくて、ですね」
幸多は、慌てて、昨夜の出来事を掻い摘まんで説明した。
真夜中、未来河の河川敷で総長神木神威と遭遇するなり訓練することになった挙げ句、日岡博士を頼るようにいわれた、ということをだ。
「なるほど。総長がな。確かにイリアと間を取り持つならわたしか愛が適当だろうが……」
「どうかされたんですか?」
「いや……どうということはない」
美由理は、幸多のきょとんとした顔を見て、視線を逸らした。
「さっそく、行くか。イリアもきみを調べたくてうずうずしている頃合いだ」
「ぼくを?」
「行けばわかる。総長もきっとそのためにきみをイリアの元に寄越そうとしたのだろうし、わたしに紹介させようとしたのだろう」
美由理は一人納得すると、端末での作業を終了させた。彼女の周囲に展開していた無数の幻板が消滅し、室内に沈黙が訪れた。
「今日も、来ないねえ」
特殊合成樹脂製の机に突っ伏したような姿勢で呻くようにつぶやいたのは、阿弥陀真弥だ。空席を挟んだ隣の席に座る百合丘紗江子は、そんな彼女の様子を心配そうに眺めている。
天燎高校一年二組の教室は、一限目の授業を終えたばかりだった。魔法史に纏わる授業は、小学校のころに学んだことをさらに深掘りするようなものだったが、学びがないわけではない。
とはいえ、特段、面白い授業というわけでもなく、米田圭悟は、きっと真弥は授業中も上の空だったのだろうと思った。
「あれからまだ二日しか立ってねえぞ。入院しててもおかしくねえっての」
圭悟がぶっきらぼうに告げると、真弥がのっそりと上体を起こし、彼を振り返る。真弥だけではない。紗江子と中島蘭も、圭悟に視線を集中させた。
「んだよ?」
「圭悟は心配じゃないの?」
「んなもん、心配したってしょうがねえだろ」
圭悟は、強い口調で言い返したものの、内心、気が気でないというのが本音だった。しかし、彼の厳つい顔は、そうした内面の葛藤を覆い隠すには十分すぎるほどに分厚く、効果的だった。
無論、彼らが考えているのは、幸多のことである。
二日前、幸多は、コミュニケーションアプリ・ヒトコトを通して、これから初任務だということを圭悟たちに伝えてくれた。
そしてその日、葦原市西稲区石掘町で鬼級幻魔の現出が確認され、緊急事態警報が葦原市内のみならず、央都四市を駆け巡った。戦団は、現場に三名の星将と多数の導士を投入したという。
鬼級幻魔による被害こそ少なかったものの、現場周辺の巡回任務に当たっていた第七軍団所属・成井小隊は、全滅に等しい状態に陥っている。古大内美奈子と臨時隊員だった皆代幸多だけが生き残り、四人が戦死したのだ。
そして、幸多は、重傷を負い、意識不明のまま、戦団本部医療棟に搬送された――。
それが、二日前の出来事だ。
報道によって詳細が判明したのは、翌朝のことであり、圭悟たちは、それを知ったとき驚きの余り、放心したものだった。誰もが幸多のことを大いに心配したが、だからといって一般市民にどうこうできる問題ではない。
幸多にもしものことがあれば、圭悟は立ち直れなくなるかもしれない、と思ったものだった。たった数ヶ月前に知り合ったばかりの間柄だが、心に与える影響というのは、時間よりも密度なのだと思い知らされる気分だった。たった三ヶ月。しかし、その密度たるや、普通の関係の数年分はあるのではないかと思えるほどだった。
それは、圭吾に限った話ではない。だからこそ、蘭も真弥も紗江子も、黒木法子や我孫子雷智、魚住亨梧、北浜怜治でさえも、気になって仕方がないのだ。
しかし、その日のうちに幸多が意識を取り戻し、退院したという話を聞くと、多少どころではない安心感を覚えたものだった。
そうはいっても、幸多自身との連絡がつかないというのが、不安の火種として、彼の友人を自称する四人の間で燻っていた。
「あいつは、導士になる道を選んだ。自分の意思でな。しかも戦闘部に入る道をだぜ。その結果、命を落とす覚悟だってしているだろ」
「それは、そうだけど。でも、わたしは、嫌だな。皆代くんを失いたくないよ」
「わたくしも、真弥ちゃんと同じ気持ちです」
「ぼくも」
三者三様に幸多への想いを馳せる様を見遣り、圭悟は、教室の天井を見た。無機的な天井からは、なにか閃きを得られるものでもない。
「んなもん」
おれだって同じだよ、などとは、彼はいわなかったが。
携帯端末を操作して、ヒトコトを起動する。
幸多からの返事はないが、圭悟は、気にすることなく伝言を残した。




