第百四十七話 神木神威(五)
神威による幸多の訓練は、一時間以上に渡って続いた。
幸多が直感として把握した今現在の神威の力は、鬼級幻魔相当だ。一撃一撃が重く強烈であり、直撃を喰らえば、それだけで幻想体が粉砕されかねなかった。ここなら全力を出せるというのは冗談でもなんでもなかったということだ。
そんな神威を相手にして戦い続けた幸多だったが、ついには精も根も尽き果てて、真っ白な訓練場の床に倒れ伏してしまった。
戦いは、高速戦闘どころか、超高速戦闘へと以降し、さらに速度を上げ続けた。
幸多は、全身全霊でもって立ち向かい、限界を超えてもなお力を引き出そうと苦心した。それこそ、いままでに出したことのないほどの力を発揮できたのではないか、と思うのだが、それだけでどうにかなるほどの相手ではなかったし、埋めがたい力の差を見せつけられただけだった。
叩きのめされ、打ちのめされ、踏み潰された。
そのたびに起き上がり、抗い続けたのだが、結局、傷ひとつつけることができないまま、終わった。
幻想訓練は、現実の肉体を用いない訓練だ。身体的な面での疲労はなく、現実世界に回帰すれば、疲れていたという事実すら忘れてしまう。その誤差が違和感を生むに違いないが、大した問題ではない。
しかし、精神的な面では、そうではなかった。
神経接続は、脳と精神に負担がかかることが判明しており、長時間の連続使用や、幻想体の設定を大幅に変更することは奨励されなかった。
今回は、幻想体の能力こそ変更していないが、損傷しても復元し、即座に離脱しないように設定したことが、多大な負荷となって幸多を襲ったのだ。
精神的な疲労が、幻想体の動きを緩慢にし、やがて立つことすらできなくなっていった。
「身の程は知れたかね」
神威が、幸多を覗き込む。神威は、息を切らしてもいない。
幸多には、そんな総長の万全極まりない姿がとてつもなく大きく見えていた。ただでさえ大きな神威の巨躯が、山のように巨大に感じられたのだ。威圧感も迫力もたっぷりだった。
ただ、気圧される。
「はい……存分に」
静かに認める。
それは、最初からわかりきっていたことだ。幸多は自分の実力を知っていたし、戦団最高峰の導士に全力でぶつかって敵うわけがないことも理解していた。伊佐那美由理を相手にし、手も足も出なかったのだ。
神威に徹底的に打ち負かされたことで再認識することができたのは、間違いない。
「それならば、いい。ここまでにしよう」
神威の声から先程までの迫力が感じられなくなっていた。全てが終わったからだろう、と、幸多は勝手に決めつけたが、多分間違いではない。
神威の姿が、等身大の大きさに見えるようになった。
神威が、納得したようにいう。
「だが、きみの実力もよくわかった」
「……それで、満足ですか」
「ああ。満ち足りたよ」
「そうですか」
幸多は、なんといえばいいのかわからず、ただそのようにつぶやいた。
全身全霊の力を込めても、限界を超えて体を酷使しても、神威には一切届かなかった。
しかも、神威は全力を発揮しているようには見えなかった。余裕すら感じられたのだ。
それなのに、一切の攻撃が掠りさえしなかったのは、傷ひとつ負わせられなかったのは、絶望的なまでの力の差を感じざるを得ない。
これが戦団最強の魔法士と、完全無能者の力の差である、と、絶対的な現実を突きつけられた気がした。
そんな幸多の心情を察するようにして、神威がいう。
「やはりきみには、さっさと昇級してもらうべきだろうな」
「……はい?」
神威が言い出してきたことがあまりにも突拍子もなさすぎて、幸多は想わず上体を起こした。神威は、なにか考え込むような表情でこちらを見下ろしている。先程までの狂暴な面構えからは想像もつかないほどに穏やかな表情だった。
「きみは、今後も戦闘部の導士として在り続けようというのだろう?」
などと問われて、幸多は、即答した。
「そう、考えています」
当たり前のことだ、と、神威を睨むように見るが、総長は穏和な表情のままだ。
「ならば、昇級するに限るだろう」
「そりゃあ……そうかもしれませんが。でも、いきなり、なんでそんな話に?」
「きみの運用方法を考えるならば、それが一番だからだよ」
「ぼくの運用方法……ですか」
神威には神威の考えがあるのだろうが、断片的な言葉ばかりでは、要領を得ず、幸多の困惑は増えるばかりだった。
幸多の当惑を理解して、神威は、説明した。
「戦闘部の導士は、小隊で活動する。それが幻魔と戦うために最低限必要な戦力と想定したからだ。だが、察するに、きみを、魔法不能者を、自分の小隊に組み込みたいと望む導士はいないだろう。魔法士たちにしてみれば、魔法不能者など足手纏いにしかならないし、任務の邪魔にほかならない」
ぐうの音も出ない正論とはまさにこのことだ、と、幸多は神威の言葉を聞きながら思う。
「初任務こそ、軍団長命令で小隊に編成されることになったが、これから先も常にそうするわけにもいくまい。かといって、師弟だからという理由で伊佐那美由理軍団長と小隊を組むのも、問題だ。それでは、きみを昇級することが難しくなる。手柄の殆どが星将のものとなれば当然だ」
神威は、幸多の目を見つめた。黒い隻眼が、さながら射貫くようだった。
「きみには、一刻も早く輝光級にまで昇級してもらうのが、望ましい」
神威がこともなげに言い放ってきたのは、幸多にとって予期せぬ言葉であり、愕然とするしかなかった。しかし、神威が続ける説明を聞けば、納得もしようというものでもあった。
「きみが輝光級三位にでもなってくれれば、きみが小隊長として小隊を編制することができるようになる。それは、きみにとっても、きみを小隊に組み込みたくないだろう導士たちにとっても、喜ばしい事態だ。違うかね」
「それは……そうでしょうが」
幸多は、神威のまなざしを受け止めて、肯定する。
神威の言い分には、一理ある。
幸多が、統魔のように自分の小隊を持つことができれば、初任務のとき成井小隊に世話になったように他の小隊に面倒をかける必要もないし、迷惑を掛ける心配もない。もちろん、幸多の小隊に入ってくれるような人材を探す必要はあるのだが、小隊に編成してくれる導士を探すよりは、遥かに可能性が高いに違いない。
しかし、そのためには、輝光級にまで上り詰めなければならない。
それはつまり、統魔と同じだけの活躍をし、戦果を挙げなければならないということだ。
統魔が八ヶ月で輝光級に昇級したことですら加速度的であり、歴史的快挙といわれたほどなのだが、それは統魔の魔法士としての才能と技量があればこその結果だ。
幸多とは、違う。
神威は、そんな幸多の苦悩を知ってか知らずか、思いもよらぬ話をした。
「……きみが過去、かなりの数の獣級幻魔を斃しているということは、我々も把握済みだ。そしてそれらをきみの導士としての戦果と認証することも決まった。きみは早晩、閃光級三位に昇級する」
「はあ?」
幸多は、神威の言葉の意味を理解した瞬間、素っ頓狂な声を上げざる得なかった。
現在、幸多は、灯光級三位だ。
導士の階級は、灯光級、閃光級、輝光級、煌光級、そして星光級の五階級であり、煌光級以下の階級にはそれぞれ三つの位階がある。三位、二位、一位と上がっていき、一位になれば、上の階級に上がることができるという決まりになっている。
それなのに、灯光級三位から閃光級三位に上がるというのは、いくらなんでも突拍子もなさすぎではないか。
「とはいえ閃光級だ。これでは、小隊を組むことは出来ないし、小隊に組み込んでくれる導士もいまい。やはり、きみはさらなる戦果を挙げ続けなければならないわけだが」
「総長?」
「なんだね?」
「あの、そんなことをして、いいんですか?」
「きみが幻魔を撃破した事実を隠蔽し、戦団導士が討伐したと報道していたことのほうが余程問題だと、おれは考えているよ」
神威は、情報局が把握している情報の改竄の数々を思い出しながら、いった。
幸多は過去、獣級下位の幻魔を多数、討伐してきている。それもかなりの数だ。
幻魔災害の頻発に伴う戦団の対応の遅れが、幸多にそのような機会を巡り合わせたのだろうが、それにしたって多すぎた。
幸多は、中学時代の三年間で、五十体以上の下位獣級幻魔を討伐している。
そのたびに彼は重軽傷を負い、直後に到着した小隊の度肝を抜いたり、怒られたり、説教されたようだが、それで彼が行動を止めることはなかった。
ただし、それらの記録は、公には戦団の小隊、あるいは導士のものとなった。
報道でも、そうだった。
幸多が幻魔を討伐したという話がニュースになったことは一度もなかった。
情報局が、そう改竄し、報道するように指示したからだ。
「確かに一般市民が幻魔と戦うのは禁じられている。それはあまりにも危険で、返り討ちに遭って殺される可能性が少なくないからだ。しかし、幻魔を討伐した市民のほとんどは、戦団や市によって表彰されている。きみだけだよ。表彰ものの活躍が隠蔽され、秘匿されてきたのは。それはなぜか、わかるかね」
「ぼくが魔法不能者だから、ですね」
「そうだ。それだけだ。そしてそれがこの魔法社会の歪みというのであれば、正さねばなるまい。その結果、きみが閃光級三位に昇級するだけのことだ。どこに問題がある」
にやり、と、神威は笑う。その力強い笑みを見ているだけでなんともいえない安心感が沸き上がってくるのは、どういうことなのだろうか、と、幸多は想うのだ。
「しかし、それら過去の戦果をどれだけ多く見積もっても、きみを一気に輝光級まで引き上げることは無理だった」
「それは当然ですよ」
幸多は、神威が残念そうにいってくるので、苦笑せざる得なかった。まだ戦団に入って日も浅く、初任務を終えたばかりだ。それなのに、過去の戦果を参照し、いきなり輝光級に昇級させるなど、無理難題にもほどがある。
「まったく、残念だ。きみには一刻も早く輝士になって欲しいのだが」
「……それって要するに厄介払い、ってことですか」
「まあ、ある意味ではそうなる。きみが灯士であるということは、輝士たちには厄介極まりないんだよ」
「……でしょうね」
神威がそう断言してくれれば、幸多も納得が行くというものだった。そして神威がなぜそこまで尽力をしてくれるのか、はっきりと理解できる。
灯光級導士に魔法不能者がいるのは、足手纏い以外のなにものでもないのだ。
たとえ獣級幻魔を斃せるのだとしても、魔法士たちにとっては、迷惑至極な存在に違いない。幻魔との戦いは、常に命がけ、死と隣り合わせなのだ。そんな戦いに魔法を使うことのできないものを連れて行くなど、自殺行為にほかならない、と、考えられたとしてもおかしくはない。
幸多だって逆の立場ならそう思っただろう。
「しかし、閃士にはなれるわけだ。輝士までの道程は遠いが、それでも灯士よりはいいだろう」
「本当にいいんですか」
「いいんだよ。おれが決めた。おれは総長だぞ。戦団で一番偉いんだ。おれが決めたことは絶対だ」
そんなことを神威が胸を張っていってきたものだから、幸多は、呆然とするしかない。
神木神威という人間がこのような人物だとは、思ってもみなかったからだ。もっと厳かで近寄りがたい人物だとばかり思っていた。戦団広報を通して見る総長の姿は、いつだって威厳に満ちたものであり、人前に現れる彼の姿も厳粛極まりないものだったからだ。
本当の神木神威を知らなかったのだ。
神威が、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばきみは、日岡博士は知っているかね」
「日岡イリア博士、ですよね。技術局第四開発室長の」
「ああ。その日岡博士がとある研究をしている。それは新兵器開発のための研究でね、きみにとっても無関係とは言えないものだ」
神威は、そういってから、考え直した。言い方を間違えたのだ。
「いや、現状、きみのためにあるといっても過言ではないか」