第百四十六話 神木神威(四)
「ここでなら、全力を出すことになんの問題もない」
神威は、幻想空間上に再現された己の肉体を見下ろし、そして広大な空間を見回しながら、いった。
戦団本部総合訓練所は、年中無休で稼働しており、朝から晩まで、時間の空いている導士たちによって様々な訓練が行われている。
非番の導士ですら、そうだ。
常日頃から鍛錬と研鑽を積み重ねなければ、戦闘部の導士は務まらない。
日々の努力を怠るということは、みずから死ににいくのと同じことだ。
もっとも、日々訓練漬けだったとしても、幻魔との戦いの中で命を落とさないわけではない。
幻魔との戦いは、死との戦いそのものだ。
だからこそ、訓練を怠ってはならないし、訓練を積んだとしても、油断してはならない。常に緊張を保ち、警戒し、全力で挑まなければならないのだ。
そのための訓練所の一室から幻創機・神影によって転送されたのが、いま二人がいる空間だった。
なにもない、ただ広いだけの空間は、壁も天井も床も真っ白だが、距離がわかるようになのか、縦横に等間隔で線が入っていた。
幻創機神影の最も基本的な訓練設定によって呼び出される幻想空間であり、俗に汎用訓練場と呼ばれている。
その空間には、神威と幸多のただ二人しかいない。
神威もそうだが、幸多の幻想体も、現実の肉体を幻想空間上に完璧に再現されたものだ。幸多の完全無能者としての肉体を幻想空間上に再現するということはつまり、彼には一切魔法が使えないということであり、極めて大きな差となるが、致し方がない。
訓練とは、そういうものだ。
幻創機の設定を変更すれば、普段できないことをできるようにすることも可能だ。たとえば魔法不能者が魔法を使えるように設定することだってできたし、体を頑丈にすることや、身体能力を向上すること、魔力を無尽蔵にすることだってできる。
が、そんなことをしても、なんの意味もない。
そんなものはなんの訓練にもならないし、時間の無駄でしかない。
現実との差異が大きくなればなるほど、現実に回帰したときの違和感は増大し、反発となって襲いかかってくるものなのだ。
だからこそ、訓練においては、現実の自分と全く同じ能力、同じ姿形の幻想体を用いるべきだった。
幸多は、幻想体の感覚を確かめるように拳を握り、開く。神経接続によって完全に同期した幻想体は、刹那のずれすら感じない。
普段の幻想訓練となんら変わりがなかった。身につけているのは導衣だが、問題はない。導衣での訓練にも、もう慣れた。
先程の神威の言い分は、理解できる。
神威は、生粋の魔法士だ。それも戦団最高峰の魔法士であり、英雄の中の英雄、導士の中の導士と呼ばれるほどの人物である。伝説的な存在といっても過言ではない。
そんな彼が町中で全力を出すとどうなるか、火を見るより明らかだ。
多大な被害が及ぶに違いない。
だからこそ、神威は、幸多を幻想訓練に招いたのだろうが。
「ここまでする必要があるんですか?」
「あるとも。きみには身の程を知ってもらわなくてはな」
神威が導衣を翻すようにして、地面を踏みしめた。ずだん、という轟音が、神威の大地を踏む足音だと気づいたときには、その姿は幸多の眼前にあった。
(疾っ――)
幸多は、ただ、呆然と、その事実を認識することしか出来なかった。大きな掌が視界を覆う。顔面が掴まれた。ぐらりと、体が崩れ、視界が変転する。指の隙間から遥か彼方の天井が見えた。後頭部に凄まじい痛みが走る。意識が飛びそうになる。
「きみが如何に愚かで甘く、くだらない戯れ言を吐いていたのか、その身をもって思い知るがいい」
神威は、後頭部を地面に叩きつけた幸多を、その顔面を掴んだまま持ち上げると、空中高く放り投げた。
普通ならば、いまの一撃で幸多の幻想体は崩壊し、現実へと回帰しているはずだ。
しかし、神威の要望通りの訓練設定により、幸多の幻想体が崩壊することもなければ、意識が途切れることもなかった。
倒す度、倒れる度、意識を失う度に幻想空間を離脱するというのは、わかりやすくはあるが、何分、時間がかかる。
神威は、この時間を一分一秒でも無駄にしたくもなかったし、そのためにこのような訓練設定にしたのだ。
それはつまり、通常の訓練とは異なる設定であり、これが訓練ではないということの証明でもあった。
空中で身を捻ろうとする幸多だったが、そのときには、地上に神威の姿はなかった。突風が真横を駆け抜けたかと思うと、背骨が折れるほどの衝撃が体を貫いた。そのまま地面に叩きつけられ、全身が悲鳴を上げる。
だが、痛みは瞬時に引いていき、意識も元通りだ。
違和感があるとすれば、そうした異常と正常の強烈な振幅によるものだろう。
即座に立ち上がるのではなく、腕の力だけで前に飛び上がって、落下してきた神威の踏みつけを回避する。轟音が響き渡る中、さらに転がり、立ち上がって、飛び退くことで、ようやく神威を視界に捉えた。
幸多は、自分の呼吸がもう既に荒くなってきている事実を認めた。神威の連撃を喰らったからであり、五感が神威の戦闘速度に追い着こうと必死になっているからだ。
神威の速度は、常軌を逸しているといっていい。
しかし、それこそが魔法士の戦闘速度であり、幻魔の戦闘速度でもあるのだ。幸多は、この速度に追い着けなければならないし、食らいついていかなければならない。
(もっと、疾く)
神威は、構えなど取ってはいない。仁王立ちに立ち尽くし、こちらを見つめている。距離にして二十メートルほど。広い間合いだ。が、魔法士ならば、遠距離戦闘を繰り広げることのできる間合いでもある。
幸多にとっては不利で、神威にとって極めて有利な間合い。
幸多は、神威に向かって駆け出した。神威が、軽く地を蹴った。一瞬にして間合いがなくなる。神威は、攻撃魔法ではなく、補助魔法を使っているのだろう、と、幸多は顔面に拳を埋め込まれながら、理解した。
神威が、現実空間とは比較にならないほどの速度で行動できているのがその証左だ。
身体能力を強化する類の魔法は、扱いが極めて難しい、という話を聞いたことがある。が、幸多には、神威が十全にその力を発揮しているようにしか思えなかったし、その結果、神威との間に圧倒的な力の差を感じずにはいられなかった。
さすがは、戦団の頂点に君臨する導士だと、想った。
英雄の中の英雄と謳われるだけのことはあったし、その絶対的な力には、幸多がさっきまで感じていた心の中のわだかまりが吹き飛ばされるようだった。
強大な力。
それは、決して幸多が手に入れることのできない類のものだ。
だからこそ、憧れる。
眩しい。
全身の筋肉が躍動し、心が昂揚していくのがわかる。
「こんなものか?」
「まだまだ!」
幸多は、起き上がるなり顔面に向かってきた神威の右足を両腕で受け止めた。強烈な一撃が両腕を粉々に打ち砕くかのようだった。
ああ、と、幸多は想った。
これは、この一撃は、バアルを殴りつけたときの衝撃とよく似ていた。
殴りつけた反動と、ただ蹴りつけられた衝撃を比較するのは無意味なことなのかもしれないし、似て非なるものなのかもしれない。だが、幸多は、神威が鬼級幻魔に匹敵する力を発揮しているのだと認識したし、だからこそ、この訓練が全く意味のないことではないと理解したのだ。
両腕が根こそぎ吹き飛んだかと思えば、瞬く間に復元される。意識が吹き飛びそうになるほどの痛みも、その瞬間には消えてなくなっている。
幻想体は、便利極まりない。
どれだけ破壊しても、どれだけ粉砕しても、どれだけ原型を失っても、瞬時に元通りだ。
これならば、いくらでも戦える。
もちろん、そんな訓練は意味がない。
死なないために鍛え上げるのが行うのが訓練の意義だ。攻撃を食らうことや死ぬことを前提とした訓練は推奨されない。そんなことを戦団の誰一人として望んでいないからだ。
しかし、いま、この瞬間だけは、そうではなかった。
幻想体が瞬時に復元する設定は、神威が決めたことだ。
神威がこの訓練で幸多になにを求めているのか、なにを思ってこんな設定にしたのか、今、わかった気がする。
神威は、幸多にどれほどのことができるのかを知りたいのではないか。
幸多の全身全霊が一体どれほどのものなのか、知っておきたいのではないか。