第百四十五話 神木神威(三)
「まあ、おれがいきなり現れれば誰だって驚くか」
彼は、当然のことをいってのけた。
戦団総長・神木神威の登場によって、幸多の頭の中が一瞬真っ白になったのは、ごくごく当たり前のことだった。
真夜中。
頭上には満天の星空が広がっていて、その強烈な光は、街灯など必要ないかのように央都の夜を照らしている。温い風が夏の夜の気温の高さを訴えてくるようで、少々鬱陶しかった。
幸多の全身は汗だくだが、もちろん、気温のせいではない。それは長時間に渡って走り続けているからにほかならなかった。
走り続けることで体を鍛えつつ、考えている事を纏めようとしていた。
その矢先、突如として河川敷の上空、未来河に架かる万世橋から降ってきたのが神木神威だったという事実には、幸多も愕然とするしかなかったし、あまりの事態になにを考えていたのかも忘れてしまうほどだった。
頭の中が真っ白な空白になる。
「退院早々訓練に勤しむとは、噂通り、きみの体の作りは尋常ではないようだ。皆代幸多くん」
「体だけが取り柄ですから……」
幸多は、神木神威の登場に動揺している事実を認め、呼吸を整えるようにしながら、言った。
神木神威。戦団の頂点に君臨する、総長という立場の人物。階級としては星光級であり、星将に位するが、神威だけは大星将と呼ばれることもある。星将の中の星将という意味と、尊敬を込めてのことだ。
戦団創設者の一人であり、戦団の中核を成す人物であり、央都開発の音頭を取った人物であり、地上奪還作戦における英雄であり、生きる伝説である。
黒髪黒目で、幸多よりも遥かに上背のある大男だ。体格もしっかりしていて、筋骨隆々であることが制服の上からも伝わってくるようだった。鍛え上げられた肉体は、彼が七十代に至ってなお壮健であることがわかったし、そんな年齢を感じさせない若々しさが外見に現れている。
右目を眼帯で覆っているのだが、魔法医療の発展した現代において、そのように眼帯を付けるのはファッション以外のなにものでもない、といのが一般的な考えだ。しかし、総長たる神威がファッションで眼帯を付けるというのは、考えにくい。
仮に右目が魔法で直せないほどの状態ならば、高性能な義眼をつければいいはずだが、それもしていない理由は、幸多にはわからない。
左目のまなざしは鋭く、眼光は異彩を放っている。
ただ見つめられているだけだというのに、射竦められるような感覚さえあった。
「身体能力も、特筆に値するほど素晴らしいと聞いている」
「それだけです。結局、バアルには手も足も出ませんでした」
「……当然のことだ」
幸多の返答を受けて、神威は、にべもなく告げた。幸多がどこか落ち込んでいるように見えたのは、そういうことなのか、と、彼は理解する。
自分が生き残ってしまったことに苦しんでいるのだろう、と、察した。
その痛みは、神威にとっても理解できて余りあるものだった。おそらく、戦団の導士ならば誰もが共感できるものだ。
戦闘部以外の導士であっても、だ。
戦団は、この世界で最も死に近い職場だ。死神を飼っていると揶揄されるほどに、死に満ち溢れている。いつもどこかに死は横たわっていて、毎日のように誰かが死ぬ。
そして、誰もが同僚の死を経験し、体感し、理解し、納得し、克服していくのだ。
神威は、幸多の褐色の目を見つめて、問うた。
「きみは、鬼級幻魔に食い下がることができるとでも、思っていたのかね?」
「それは……でも……しかし……」
幸多は、苦悩する。妖級幻魔にすら歯が立たない自分が鬼級幻魔に手も足も出ないのは、道理だ。神威のいった、当然、なのだ。
だが、それでも、と、考えてしまう。
それでも、ほかになにかできたのではないか、と。
犠牲を減らすことの一つや二つ、出来なかったのか、と。
神威は、そんな幸多の懊悩を感じ取り、口を開く。
「きみはなにか大きな勘違いしているようだ。きみは、バアル――鬼級幻魔と遭遇し、生き残った。その事実に喜びこそすれ、卑下する必要など一切ない。鬼級と直接交戦し、生き延びることのできる導士など、数えられるほどしかいないのだからな」
それは、絶対的な事実であり、覆すことの出来ない現実だった。
真実といっていい。
鬼級幻魔は、妖級以下の幻魔と一線を画する力を持つ存在だ。
全ての幻魔は人類の天敵であると断言しても過言ではないのだが、妖級以下と鬼級以上では、隔絶した力の差があった。
まるで別種の生物なのではないかというほどの力の差があり、だからこそ、鬼級幻魔の討伐実績は、数えられるほどしか記録されていない。
そして、鬼級幻魔が幻魔たちの王の如く振る舞うのもまた、その絶対的な力の差によるところが大きいのだ。
「星将ですら一対一となれば厳しい相手なのが鬼級幻魔という存在だ。それくらい、きみも知っているはずだが」
「それは……わかっています。でも、だからといって、納得できることではありませんよ」
「いいや、納得しろ。きみは、鬼級幻魔どころか、おれに手傷一つ負わせることができないんだからな」
神威が断言すると、さすがの幸多も思うところがあったのか、表情を変えた。苦しみ、悩み抜いていた少年の表情から、戦士のそれへと変わる。
その変化は、神威にとって好ましいものだった。
「もしきみがおれに手傷の一つでも負わせることが出来たのならば、きみの傲岸不遜そのものの考え方も、少しは認めてやってもいい」
「なにを……」
幸多は、神威を無意識のうちに睨んでいることに気づいたが、止められなかった。幸多が神威の実力を知らないわけはない。戦団最高峰の魔法士であり、鬼級幻魔討伐の実績を持つ、英雄の中の英雄が、神木神威という人間だ。央都史上最高の英雄を一人挙げるとすれば、誰もが迷うことなく彼を指名するだろう。
それは幸多も同じだ。
幸多を指して傲岸不遜というのは、神威が鬼級幻魔と戦ってきた経験からの実感なのだろうし、そこに反論する余地はないのだが、しかし、幸多の脳裏には、バアルに惨殺される成井小隊の面々の最期が過って仕方がないのだ。
理不尽極まりない鬼級幻魔という存在への憤りと、自分自身の無力感がない交ぜになり、なにがなんだかわからなくなっている。
だから、だろう。
幸多は、神威を睨めつけている。
「安心したまえ。おれは魔法を一切使わない」
「馬鹿にしているんですか」
「そうではないよ。むしろ、きみには期待しているんだ」
「期待?」
「そう、期待だ」
「期待……」
幸多が反芻したときだ。
神威が、踏み込んできた。構えもなにもない、無造作な一歩。しかし、目にも止まらぬ速さであり、あっという間に距離が詰まった。幸多が飛び退かなければ、神威が繰り出した拳が腹に突き刺さっていただろう。
幸多は、ぞくりとした。
神威は、有無を言わさず襲いかかってきたのだ。
そうとなれば、対応するしかない。
というよりも、幸多の体が勝手に反応している。神威は、右拳の一撃を躱されても、攻撃の手を止めなかった。それどころか立て続けに手足を使った連続攻撃を試みてきたものだから、幸多は、その対処に追われたのだ。体を捌いて躱し、腕で受け止め、脚で受け流す。
身体能力だけでいえば、神威も強力無比といってよかった。
しかし、ただ対応しているだけの幸多ではない。ここまでされた以上、黙って受け続けるわけにはいかなかった。隙を見つけてその場に屈み込んで脚を払えば、神威は軽く跳躍して躱してみせる。それは幸多の狙い通りであり、即座に飛び上がって蹴りつけた。神威は両腕を交差させて、幸多の飛び蹴りを受け止める。
距離が離れた。
幸多は、叫ぶようにいった。
「それを馬鹿にしているっていうんじゃないんですか」
「事実をいったまでだよ、皆代幸多くん。でなければ、きみを戦闘部に入れることを認めたりはしなかった」
神威は、両腕の骨が悲鳴を上げている現実を認めながらも、表情には出さなかった。強烈な一撃だった。この頑健なだけが取り柄の肉体が揺らぐほどだ。
幸多の身体能力は、神威の想像以上だった。並の魔法士ならば、魔法を使わなければ対抗できないだろうという確信を抱く。
彼が、魔法を使わずに獣級幻魔を撃破したというのも頷けるというものだった。
だが。
「誰であれ、そうだ。成井英太も、山中伊吹も、広尾真一も、行常憲康も、古大内美奈子も、期待していた。期待したからこそ、戦闘部に入ることを認めたのだ。鍛錬と研鑽を積み重ね、任務を繰り返すうちに、戦団を代表するほどの導士になってくれることを期待せず、なにが総長か」
神威の脳裏には、彼ら成井小隊の面々が殺されていく光景が過っていた。
鬼級幻魔バアル現出時の記録映像を見るということは、成井小隊が壊滅する瞬間を見るということでもあった。為す術もなく殺戮されていく導士たちの、断末魔を挙げることすらできない死に様は、無惨で無慈悲だ。
が、そのような死を数多に見届けてきたのが、戦団総長たる神木神威なのだ。
「おれは、戦団に所属する全ての導士に期待しているよ。もちろん、きみも」
神威が、反撃に出るべく踏み込み、攻撃を繰り出すと、幸多もまた、体を捌いて神威の打撃を躱して見せた。一進一退の攻防は、高速度で繰り広げられる。真夜中の静寂を切り裂くように、二人の重い打撃音が響く。
「きみにも、将来、戦団を代表する導士になってもらいたいと考えている」
「どうやって」
「それはこれからだろう。きみがどこまで己を鍛え上げられるのか、きみがどこまで任務をこなせるのか。そこにすべてがかかっている」
神威が幸多を蹴り上げれば、幸多は空中で身を捻り、落下とともに踵を落としてくる。足捌きで踵落としを受け流し、即座に首を狙い撃ってきた手刀を右腕で受け止める。互いの筋肉と筋肉がぶつかり合い、烈しく音を立てた。汗が飛び散る。
「きみのそれは真武だろう。対魔法士用に磨き抜かれた武術だ。確かに魔法士相手には効果的だが、魔法を使わない相手には、ほとんど意味がないな」
「そんなこと……!」
「やってみなければわからない、か。確かにそうだ」
その通りだと、神威は思った。
皆代幸多の速度は、戦闘を始めてからというもの上がり続けている。最初から超高速といっても過言ではない速度だった。しかし、まだまだ体が本調子じゃなかったのか、それとも様子見していたのか。いずれにせよ、戦闘速度そのものが加速度的に上昇していくこの状況は、神威にとって面白いことこの上なかった。
昂揚する。
「何事も、やってみなければわからないものだ」
そのとき、不意に、黒い風が吹いたかと思うと、三人の導士が神威を包囲していた。そのうちのひとりが口を開く。
「閣下」
「……つまらん」
「つまるつまらないの問題ではありません。危うく――」
「わかっている。わかったているとも」
総長特務親衛隊、通称首輪部隊の警告を受けて、彼は、無意識に込めていた力を解いた。幸多との戦闘に熱中する余り、本気になるところだったのだ。
首輪部隊は、そうした兆候を見て取り、慌てて制止しにきたというわけだ。
彼らがそうするのは、道理だ。彼らにはなんら非がなく、故に、神威は苦い顔をするしかない。悪いのは、神威のほうなのだから。
とはいえ、このままでは消化不良だと、神威は思った。
首輪部隊が突如割って入ってきたことに対しては、幸多も当惑するほかないのだ。彼は、憮然とした様子でこちらを見ていた。
神威は、ふと、思い立った。
「皆代幸多くん、まだ眠れないかね?」
「はい、全然、まったく、これっぽっちも」
「ならば、ついてきなさい」
神威は、河川敷から土手の上に視線を遣った。その先には、戦団本部があるはずだった。
「ここでは、全力を出せない」
いってから、言い訳じみていたことに気づき、神威は内心、苦笑するよりほかなかった。