第百四十一話 初任務の後先
医療棟を退院した幸多は、第七軍団兵舎に向かった。
古大内美奈子がいるとすれば、兵舎以外に心当たりがなかったし、もしいなければ兵舎にいるであろう第七軍団の導士に聞けばいいと考えていたのだ。聞けば、なにかわかるはずだ。
もちろん、服は着替えている。
淡い水色の病衣を脱いで漆黒の制服を身につけると、それだけで気が引き締まる想いがしたが、同時に、死の足音が聞こえた気もした。
戦団の、特に戦務局戦闘部の導士であるということは、つまり、それだけ死の危険性が高いのだということは、今回、はっきりと理解できた。
目の前で導士たちが殺されていく様をただ見ていることしか出来なかった事実と、鬼級幻魔には全く歯が立たなかった現実は、幸多の足取りを重くした。
軽々しく考えられることではなかったし、だからこそ、古大内美奈子の話を聞いてみたいと思ったのだ。
彼女がなにを想い、なにを考え、なぜ、そのような結論に至ったのか、知っておきたかった。
知っておくべきだと、幸多は想った。
それが幸多の独り善がりなのだとしても、それでも、知りたかった。
医療棟から第七軍団兵舎までの道程で、幸多が疲労を覚えるということはなかった。体は完全に回復していて、どれだけ歩いても疲れるということがない、普段通りの自分に戻っている。
足が重く感じるのは、体調のせいではなく、精神的な問題なのだろう。
そして、兵舎に辿り着き、その氷の城の門を潜り抜けると、ちょうど古大内美奈子が出てくるところだった。彼女がもはや戦団の制服ではなく、私服を身につけていることに気づき、呆然とする。
「皆代くん」
古大内美奈子もまた、兵舎を出ようとしたところで幸多と出逢ったものだから、驚くほかなかった。
「数日は安静にしていないといけないって聞いていたんだけど……もう歩き回って大丈夫なの?」
「医務局長のお墨付きをもらいましたから」
「そう……良かった」
美奈子は、心底安堵した。幸多にもしものことがあれば、こうして面と向かって話し合うこともできなかったかもしれない。
場所を第七軍団兵舎内から、本部敷地内の一角に移している。
そこには導士たちが休憩するためなのか、長椅子が置かれていて、幸多と美奈子は並んで座っていた。
頭上には、青空が広がっていて、まばらな雲がそんな青さを際立たせるようだった。風は穏やかで、だからこそ熱気を感じる。夏の熱気。夏の日差し。強く、眩しく、烈しい。
しかし、長椅子が日陰にあるおかげもあって、そこまで暑さを感じずに済んでいる。
美奈子は、視線を虚空にさまよわせた。戦団本部敷地内をこうして見回すことは、もうないのだろう、という確信が彼女の中にあった。それはもう決まったことだ。取り下げることは出来るのだが、彼女にその気はなかった。
口を開く。
「ありがとう、皆代くん。きみのおかげで、わたしだけは死なずに済んだわ」
幸多は、美奈子のそんな言葉を耳にして、なにを言うべきか困り果てた。彼女だけでも生きていて良かったというべきなのか、それとも、ほかになにかかけるべき言葉があるとでもいうのか、幸多にはわからない。
今回の巡回任務で彼女が受けた衝撃というのは、幸多とは比べものにならないだろう。彼女にとって成井小隊は長い付き合いだったのだ。少なくとも、その日の朝に顔合わせをしたばかりの幸多よりも余程深い関係であり、互いに信頼し合っている様子が、随所に見て取れた。
そんな仲間たちが瞬く間に殺されていったのだ。
目の前で、為す術もなく、あっという間に。
そのときの絶望感たるや、想像するに余り在る。
幸多の場合は、最愛の父を目の前で殺され、絶望したものだった。それでも救いの見えない暗澹たる闇の奥底に落ちきらなかったのは、統魔がいたからだ。統魔がいて、彼が前を向いていたからこそ、幸多も立ち直ることができた。
幻魔への復讐のため、戦団に入るという目標が出来た。
それが、絶望を振り払う原動力となった。
「みんな、死んでしまった。殺されてしまった。なにもできず、抵抗することすら許されないまま、一瞬で。痛みを覚える暇もなかったそうだけど、そんなものはなんの慰めにもならないよ」
「……そうですね」
「わたしも、そうなるところだった。でも、きみがわたしを助けてくれたから、わたしだけは生き残ることができたのよ。そのことに関しては、本当に感謝しているの。本当に、心の底から」
美奈子の声音は、真に迫っていた。本当に、心の奥底から幸多に感謝しているのだ、と、その震える声を聞けば、はっきりと伝わってくる。
膝上に置いた鞄の持ち手を握る細い指先が、かすかに震えていた。
昨日の光景を思い出しているのかもしれないし、だとすれば、そうなるのも無理からぬことだと幸多は想う。それこそ、絶望そのものだ。
美奈子は、勇気を振り絞るようにして、口を開く。
「でも、わたしは、戦団の導士であることを続けられなくなってしまった。心がね、折れる音を聞いたのよ。鬼級幻魔の圧倒的な力を目の当たりにして、わたしにはどうすることもできないんだって、思い知らされてしまった……」
「古大内さん……」
「でも、きみは、辞めるつもりもなさそうね」
「はい」
幸多は、美奈子の目を見つめて、頷いた。美奈子の目には、力がなかった。昨日の任務中には確かにあったはずの力強さも生気も意志の強さも、なにもかもが瞳の中から消え失せている。
戦意がないのだ。
それを目の当たりにすれば、幸多も言葉を失うしかない。
美奈子は、幸多を見て、笑おうとしたが、結局、笑顔を浮かべることは出来なかった。力なく、いう。
「強いね」
「ぼくは……」
「ううん、強いよ。あんな状況に遭遇して、それでもなお導士で在り続けようと出来るなんて、並大抵のことじゃないわ。きみだけじゃない。きみと同じように戦団に残る選択をしたひとたち皆、尊敬する」
それは、美奈子の本心だった。
鬼級幻魔バアルとの遭遇と、その直後に起きた惨劇は、彼女の心に深い傷となって刻まれてしまった。その傷は、ふとした瞬間に激しい痛みを伴って呼び起こされ、成井小隊皆の死の瞬間を脳裏に駆け巡らせた。それは絶望そのものといっても過言ではなかったのだ。
「わたしには、出来なかった。わたしは、わたしの命が惜しくなってしまったの。このまま導士として戦い続ければ、また、どこかであんな幻魔と遭遇するんじゃないかって、考えてしまった。ううん。鬼級幻魔だけじゃない。幻魔そのものが恐ろしくなってしまったのよ」
幸多には、美奈子の吐露を聞いていることしかできない。なにかかけるべき言葉があるのではないかと考えるのだが、しかし、考えるだけ無駄だとも想う。彼女には既に決まり切った結論があり、その結論を動かすことはできないし、そんな権利が幸多にあろうはずもない。
そして、そんなことのために彼女は幸多と話したがっていたわけではないのだろう、ということが、美奈子の口から迸る思いの丈を聞く限り、はっきりとしていた。
ただ、聞いて欲しかっただけなのだ。
きっと。
「わたし、きっと甘く考えていたんだわ。これまでずっと、順風満帆だったから。傷を負っても、軽傷ばかりだった。大怪我をすることなんて一度だってなかったし、昨日まで、小隊の誰一人として失わずに来られたんだもの。幻魔に殺されることを、そうなる可能性を、どこか他人事のように考えていたのかもしれない」
美奈子の独白は、続く。
熱を帯びた風が幸多の頬を撫で、通り過ぎていく。
「でも、目が覚めた。目が覚めてしまえば、自分がいかに幻想に縋り、夢想の中で調子に乗っていたのかがわかるわ。わたし、なんて愚かだったのかしら」
「そんなこと、ないですよ。昨日まで戦ってきたんじゃないですか。その戦歴は嘘じゃないし、幻魔を斃してきたことも」
「そうね。その通りよ。嘘じゃないわ」
美奈子は、幸多を見て、微笑んだ。その微笑はあまりにも儚く、だからこそなのか、透き通るくらいに綺麗だった。
「でも、今日でおしまい。わたしはただの一般市民に戻って、普通に生きていくわ」
美奈子が鞄を握り締め、立ち上がった。その横顔は、少しばかり、すっきりしているような、そんな風に見えた。
「最後にきみと話すことができてよかったな」
「ぼくも、そう想います」
「ありがとう、皆代くん。もしなにか力になれることがあれば、いつでも言ってね。一般市民が導士様にしてあげられることなんて思い浮かばないけど、相談に乗るくらいならできるかもしれないから」
そういって、彼女は、幸多の前から去って行った。
幸多は、荷物を詰め込んだ鞄を手に、ゆっくりと遠ざかっていく美奈子の後ろ姿を見送り続けた。
彼女を引き留めることはできないし、そんな権利があろうはずもない。
戦闘部長の朱雀院火留多や副部長の二屋一郎が言っていたように、導士を辞めるのは、導士の権利なのだ。
特に戦闘部の導士は、常に死と隣り合わせの危険な職務だ。
つい昨日、成井小隊の四人が戦死したように、誰にだってそうなる可能性がある。
その可能性を目の当たりにしたことでそれまでの考え方を変え、突如として退職するというのは、よくある話なのかもしれない。
幸多は、そんなことを、一人考えていた。




