第百四十話 妻鹿愛
鬼級幻魔バアル改め、特別指定幻魔弐号。
その存在は、戦団にとっての新たなる脅威として、周知徹底されることとなった。
バアルが先の戦闘で見せた能力は情報局と戦務局作戦部によって徹底的に解析され、判明した情報は、書庫に送られた。
書庫とは情報集積所の通称であり、全ての導士に一定の閲覧権限が付与されている。導士は、書庫から幻魔等に関する情報を自由に引き出すことが可能であり、情報が書庫に格納されたということは、全導士に共有されるということでもあった。
もちろん、特別指定幻魔弐号に関する報告及び警告は、別途、全導士に向けて発せられており、戦団上層部は、厳戒態勢に移行することを決めた。
その方針変更によって、戦団は、今までより多くの小隊を通常任務に割り当てることになったのだ。
もし万が一、特別指定幻魔に遭遇した場合、即座に対応できるようにするためであり、遭遇した小隊を即刻救援できるような体制へと移行するためであった。
そうした体制の変更に伴い、戦団全体の運営計画が大きく変更されることとなり、全ての部局が大わらわとなって走り回っているらしいという話は、統魔に聞いて知った。
さもありなん、といった有り様だ。
新たな特別指定幻魔の認定は、戦団としても予期せぬことだっただろうし、そんな事態を想定できるわけもなかった。
戦団は、ありとあらゆる手段を駆使して、央都全体の警備のさらなる強化を行う必要に迫られたのだ。
かといって、衛星拠点に割り当てた戦力を引き戻すわけにもいかない。
人類生存圏の外には、常に数え切れない幻魔が蠢いていて、いつ央都に攻め込んでくるのかわかったものではないのだ。
よって、央都防衛に割くことの出来る戦力というのは、限りがあるということだ。
それは、いい。
問題は、と、幸多は、考える。
昨日、鬼級幻魔バアルの圧倒的な力を目の当たりにした導士たちの中には、戦団を退職し、一般市民に戻ろうとするものもいるという話を統魔の口から聞いた。
統魔は、妥当な判断だと、そうした決断を下した導士たちを責めることも非難することもなかった。
統魔ですら歯が立たない相手だった。統魔自身、危うく死にかけたのだ。星将たちの到着が間に合わなければ、命を落としていた可能性が高い。
皆代統魔でそれなのだから、自分はもっと手酷い目に遭うのではないか、と、想像を巡らせる導士たちがいたとしても、なにもおかしくはない。
通常、鬼級幻魔と遭遇するような事態はなく、実力を目の当たりにすることもないのだ。
あの場にいたほとんどの導士が、あの瞬間、初めて鬼級幻魔の絶大な力を目撃した。
その結果、何人もの導士が退職願を出したのだとして、それを笑うことなど誰が出来るだろうか。
幸多は、そんなことを考えながら、医療棟の中を歩いていた。折れた骨は元に戻り、体の調子も悪くない。精神的には落ち込んでいるが、沈み込んでいても仕方がないとも思っている。激情がくすぶり続けていたし、立ち止まってもいられないという気分もあった。
医務局医療棟。
医務局は、戦団における医療の全てを担当する部署である。
医療棟は、そんな医務局の支配する領域であり、医療棟内では医務局に所属する導士の命令に従わなければならない。そして幸多は、医務局導士の指示に従って、医療棟を歩いていた。
幸多が一夜足らずであの大怪我から立ち直り、自由自在に歩き回ることができるまで回復したという事実には、さすがの医務局導士たちも吃驚したようだった。
確かに、運び込まれてすぐさま手術を行い、安静にしてさえいれば数日もすれば回復するに違いなかった。だが、それにしたって、幸多の回復は早すぎる、と医務局員たちは口々にいう。
折れた骨も、ずたずたになった神経も、筋肉も皮膚も、いまや完全な状態といっていいほどの回復を見せていた。
だから、幸多は、入院翌日の今日、身体検査を受けたのであり、その結果を聞くために医師の元へ向かっているところだった。
医療棟に無数に存在する部屋の中で、三階の最も奥まったところにその一室はある。
両開きの扉の上には、医務局長執務室という表示板がでかでかと張り出されていた。
幸多は、扉の前で立ち止まり、呼吸を整えた。どうして自分がここにいるのかと疑問を持つが、指示された以上、間違いではないのだろうが、しかし、と逡巡する。
幸多のためだけに多忙な医務局長が時間を割くというのは、あまりに勿体ないのではないか、などと考えていると、扉が自動的に開いた。
「きみが件の問題児だね」
などと、わけのわからないことをいってきたのは、執務室の椅子に腰掛けた女性だ。際立つのは白金色のショートヘアだが、切れ長の目に浮かぶ藍色の虹彩も美しい。
痩せ形の長身には漆黒の制服を身につけているのだが、改造が施されているのか、胸元が大きく開き、胸の谷間を強調しているかのようだった。そして胸元には五芒星の星印が輝き、星将であるということを示していた。制服の上には、白衣を羽織っていて、医務局の導士であるということを主張していた。
その美女こそ、医務局長・妻鹿愛であるということは、いわれるまでもなく理解できた。
妻鹿愛は、光都事変の英雄・五星杖の一人であり、その際の活躍から戦団の女神と謳われるほどの人物だった。最高峰の治癒魔法の使い手としても名を馳せている。
「問題児、ですか?」
幸多は、妻鹿愛の迫力に気圧されそうになりながらも、疑問を発した。そして執務室に足を踏み入れる。
幸多の背後で扉が閉まった。どうやら愛が手元の端末で操作しているらしく、左手の指先が動いていた。
彼女の右手は、電子煙草を放せないとでも言いたげだ。
それは、医療棟の一室だということを考えても、彼女の立場を考えてもありえないこと――ではない。魔法時代を経たいまとなっては人体に有害な煙草というものは存在しないのだ。電子煙草なら尚更だ。害もなければ常習性もなく、煙草を吸うというのは、完全な趣味趣向でしかない。
そして、だからこそ、この真っ白な医療棟の一室で胸を張って煙草を吸うことができるのだ。
とはいえ、医者が患者の前で堂々と煙草を吸っているという状況は、現代でもあまりないのではないかと思える。
「あたしは妻鹿愛。まあ、知っているだろうけど。まずは、きみの診断結果について話す。座りなよ」
愛が煙草を揺らすと、一部の床がせり上がり、なにかを形作っていった。椅子だ。
幸多がその即席の椅子に腰を下ろすと、端末を操作する打鍵音が室内に響いた。
広い室内には、幸多と愛だけがいて、ほかには誰もいなかった。真っ白な空間だ。壁も床も天井さえも、染み一つない真っ白さは、潔癖といってもいいほどだった。が、室内に配置された調度品の数々は、必ずしも白一色ではない。そのおかげ平衡感覚を失わずに済むのではないかというほどの白さが、執務室内を席巻している。
高級そうな椅子に腰掛けた愛の背後には、いままさに端末が出力した幻板が、つぎつぎと浮かび上がっている。
それらはいずれも幸多に関するもののようだった。
幸多が医療棟に運び込まれた直後に撮影された透視図と、つい先程撮影された透視図のようだ。幻板の一つには、骨がばらばらに砕け散った右手の様子が痛々しいほどにはっきりと映し出されている。
「見てわかると思うけど、きみの手も足も既に完治している。すぐにでも退院できる状態だよ」
「すぐにでも、ですか」
幸多は、愛の診断結果を受けて、右手を握り締めた。もはや痛みが生じることはなくなっていて、完全に回復していると見て間違いなさそうだ。
「ま、あたしが執刀したんだ。手術が完璧なのは当たり前だが、きみの回復速度が尋常ではないのもまた事実だね。ただの魔法不能者ならばともかく、きみは完全無能者なのだから……いや、完全無能者だからこそ、なのか?」
「どういうことでしょう?」
「こればかりは、きみを解剖して見ないとわからないかもしれないね」
「解剖……ですか」
「冗談だよ。ただ、きみの体がどうなっているのか、詳しく研究したいというのは、本音さ」
「研究……」
幸多がその言葉を反芻すると、愛は、遠い目をした。
「完全無能者の、つまりきみの研究は、すぐに打ち切られてしまったんだよ。完全無能者を研究してもなんの意味もないし、役に立つこともないという理由でね」
「そういえば、そんな話を聞いたことがあります」
「しかし、今となれば、研究する意味もあるのかもしれない、とも思うよ」
「そうですか?」
「きみの尋常ではない身体能力も、回復速度も、もしかすると、完全無能者であるからこそなのかもしれない。そんな風に考えたことは、ないかい?」
「それは……」
ない、といえば、嘘になる。
が、真剣に考えたことがあるかといえば、それもまた、嘘になるような気がした。
幸多が答え倦ねていると、愛が大きく息を吐いた。真っ白な煙が、空調機に吸い込まれるようにして室内を流れていく。
「まあ、いいさ。きみの研究はいずれするとして、だ。問題児くん」
「その、さっきからいってますけど、問題児ってなんです?」
「戦団の秩序を乱す問題児と、一部で話題だそうだよ。あたしはまったく気にしていないが」
「はあ」
幸多が要領を得ないという顔をすれば、愛が苦笑とともに告げてくる。
「ただのやっかみだよ。皆、美由理の弟子になりたがっていたものだから、きみが気に食わないのさ」
「なるほど?」
「ついこの間まで美由理が弟子を取らないことは、彼らにとって絶対の秩序だったんだろうね。だから、自分が弟子になれないことにも納得が出来ていた。が、きみが弟子に選ばれてしまった。彼らはさぞや混乱したことだろうさ」
愛は、心底どうでもよさげにいった。
幸多にとってもどうでもいいことのように思えた。他人に妬まれたり疎まれたりしたことがなかったから、理解できない感覚でもあった。
「まあ、そういうわけだ。これから先もきみは僻まれ、妬まれ、疎まれることだろう。あの伊佐那美由理の寵愛を一身に受けることができるのは、きみだけなのだから」
「寵愛だなんて、そんな」
「事実さ」
煙草を吹かしながら、愛は笑う。その笑顔には、屈託がない。
しかし愛は、幸多がまったく理解できないという顔をしているので、訝しんだ。そして、美由理の性格を思い返し、一人で納得する。
「……そうか。きみは意識を失っていたから知らないのか」
「はい?」
「きみを運び込んできたとき、美由理がどんな形相をしていたのか、撮影しておけば良かったな。きっときみも自分が置かれている状況というものを理解できただろう」
「ぼくの置かれている状況……ですか」
幸多は、彼女の言葉を反芻するようにつぶやきながら、多少なりとも納得した。確かに置かれている状況は、特別だ。魔法不能者でありながら戦闘部に入り、伊佐那美由理の初めての弟子に選ばれたという境遇は、特別としか言い様があるまい。
しかし、それだけのことで、それ以上のなにかが掴み取れるわけもなかった。
「さて、お喋りはこのくらいにしよう。きみと二人きりの状況が長く続くのは、後が怖い」
「はあ……?」
「美由理には、あたしがいったことはなにもいわないでくれよ。あたしもまだ死にたくないんだ」
それはきっと軽口なのだろうが、どこか真に迫ったものを感じてしまって、幸多は、困惑せざるを得なかった。
愛の言動からは、まるで美由理が嫉妬深い人物のように感じられる。が、幸多には、そのようには見えなかったし、思ってもみなかった。ましてや、美由理が自分を特別視しているなどとは考えようもないことだ。
ありえないことだった。
幸多がそんな風に悶々としていると、愛が、はたと思いだしたようにいってきた。
「そうだ。古大内美奈子が、最後にきみと話をしたがっていたよ」
「え?」
「成井小隊唯一の生き残りだよ、さすがに覚えているだろう?」
「それは、はい。でも、最後って」
「彼女、戦団を辞めるそうだ」
雑談がてらに聞かされた衝撃的な事実に、幸多は、ただ、愕然とした。
皆代幸多が執務室を後にするのを見届けると、妻鹿愛は、大きく煙草を吸い込み、肺を煙で満たすと、静かに吐き出した。
それから、左手で端末を操作しつつ、執務室の片隅に佇む衝立の向こう側に向かって、電子煙草を放り投げる。
「ひゃっ」
「なっ」
反応は、二つ。
どちらも女の声だったが、可憐さの欠片もないものであり、愛は、冷ややかにそちらに目を向けた。
煙草の煙に炙り出されるようにして衝立の裏側から飛び出してきたのは、伊佐那美由理と日岡イリアだった。
「まったく、寵愛もそこまで行くと、無用な憶測を生むぞ?」
「なにが寵愛だ、馬鹿馬鹿しい。わたしはだな」
「幸多くんとめがみんの逢瀬が気になって仕方なかっただけですう!」
「……イリア」
美由理がイリアに圧力をかければ、イリアはいやいやをした。
「冗談よ、そんな顔で迫ってこないで、本気にしちゃうわよ」
イリアが軽口ばかりを叩くので、美由理は、大きく嘆息するほかなかった。
そんな親友二人のやり取りを半眼で眺めている愛のほうこそ、嘆息したいとしかいいようがなかったのだが。
いったい、二人はなにをしにきたというのか。
愛には一つ思い当たる節があったものの、それが正しいのかどうか、イリアが言い出すまで確証が持てなかった。
というのも、イリアという人間は突拍子もないからだ。
長い付き合いの愛でさえ、彼女がなにを企み、どのような行動に出るのか、想像もつかなかった。