第百三十九話 心を灼くように
「あ、おはよ、統魔」
「おはようございます、皆代先輩、だろ」
「うん、おはよう、統魔」
「……おはよ」
統魔は、幸多を矯正するのを諦めて、小さく返事をした。
無意味なことで張り合うのも馬鹿馬鹿しいという気分と、頭上を行き交った信頼感に満ちたやり取りに対するなんともいえない複雑な感情がない交ぜになって、統魔は、自分がなにをどうしたいのかわからなくなっていたのだ。
幸多は、そんな統魔のふくれっ面がおかしくて仕方がなかった。寝起きだから、というわけではなさそうだったが、せっかくの端整な顔立ちが台無しだ。
「なにむくれてんのさ」
「むくれてない」
「むくれてる」
「うっざ」
「いつものことじゃん」
「……ったく」
統魔は、いつも以上に馴れ馴れしく接してくる幸多に辟易しつつも、それとともになんともいえない安心感を覚えた。
幸多が普段通りだということは、彼が初任務の後遺症を受けていないことを示しているような気がしたからだ。
それが確認できただけでも、十分だった。
「軍団長とは上手くやれそうか?」
「まだなんともいえないけど、まあ、唯一ぼくを弟子として引き取ってくれた方だし、上手くやっていくつもりだよ」
「おまえのそういう自信はどこから湧いてくるんだか」
統魔は呆れるように言って、未だ握ったままだった幸多の左手から手を離した。
窓の外から差し込んでくる日の光が、あのときからかなりの時間が経過したことを示している。
バアルの現出は、七月三日十五時二十七分と記録されている。
統魔が皆代小隊を率いて出撃したのは、その直後だ。統魔は、現場が幸多の巡回任務先だと理解した瞬間、小隊を出動させた。それは作戦司令部からの命令でもなかったし、制止も振り切った独断専行だった。
つまり、命令無視だ。
しかし、そうしなければ幸多が殺されていた可能性は、高い。
天使型幻魔が割って入ったものの、あれだけではどうにもならなかったのも事実だ。バアルと天使型幻魔ドミニオンの力の差は、余りにも大きかった。
もっとも、統魔が生き残ることができたのも、二名の星将、《せいしょう》神木神流と麒麟寺蒼秀のおかげなのだが。
さらに星将・伊佐那美由理の到着が遅ければ、あの場にいた導士も、皆代小隊も全滅していたかもしれない。
統魔は、戦闘中に意識を失い、気づけば戦団本部第九軍団兵舎にいた。医療棟ではなく、兵舎だ。幸多とは違い、手当をする必要すらなかったからだ。そして上庄字が看病してくれていたが、その必要はないくらいに体力は万全だったし、気力も充溢していた。
怒りと憎しみが渦巻いていた。
それから統魔は、軍団長にして師匠である麒麟寺蒼秀の説教を受けた。もっとも、蒼秀は、話のわかる人物だ。統魔の気持ちを汲んで、形だけの説教で済ませた。
ただし、これからもしこのような形で飛び出すのであれば、小隊を巻き込むな、と厳しく言われた。
死にに行きたいなら、一人で行け、と、蒼秀はいった。自分が死にに行きたいだけなのに、大切な戦団の導士たちを巻き込むな、と。
統魔は、それはそうだと理解し、蒼秀の説教に感謝さえした。
そして、幸多が医療棟に運び込まれているということを聞いた。
夜中だったが、幸多の病室に入れてもらうことができた。家族だから特例で許されたのだ。
幸多が生きていることをこの目で確認したときには、統魔は、なんだか全身の力が抜けるような感覚さえ抱いたものだった。死んでいないことはわかっていたのだが、それでも、実際に確認するのとしないのとではわけが違うのだ。
それからのことは、あまり覚えていない。じっと幸多のことを見守っていただけだからだろう。
「自信なんて、ないよ」
幸多が、いった。その目は虚空を見遣り、瞳が揺れているように見えた。
「なくても、前に進むしかない。それだけがぼくにできる唯一の方法だから」
「……そうだな」
統魔は、幸多の言葉を否定しなかった。
統魔と幸多は、違う。生まれも体質も能力も技量も、なにもかもが違う。生まれ落ちた場所は同じで、途中から家族となって一緒に育った。そして道は分かたれ、いま再び一つになった。だが、だからといって、統魔には彼のすべてをわかってやることはできなかったし、わかってあげられるという傲慢さもなかった。
わかっているのは、幸多は、完全無能者であり、鬼級幻魔とはまったく相手にならないということだ。
幸多は、鬼級幻魔と戦うための方法を身につけたいと考えているのだろうし、統魔もその力になってやりたいと思う。
だが、現状、そんな方法は皆無だった。
少なくとも、統魔に出来ることはない。
どれだけ体を鍛えても、鬼級幻魔の強靭極まりない肉体に通用する攻撃を放てるわけもなければ、幻魔に通用する兵器など、あろうはずもない。歴史がそれを証明している。
かつて、幻魔の発生が確認されて以来、人類は、様々な方法で、幻魔を斃そうとしてきた。通常兵器を用い、攻撃したこともあったが、全く通用しなかった。魔法以外、決定打になりようがなかったのだ。魔法の普及によって、あらゆる分野の技術力、科学力が大きく発展したことにより、対幻魔を想定した兵器の開発も押し進められた。
しかし、いずれも成果を上げることができないまま、現在に至っている。
幸多は、幻魔と戦えるものか、どうか。
獣級下位程度ならば、余裕で斃せる、ということはわかりきったことだった。
彼が二体のケットシーを撃破した事実は、戦団の多くの導士たちに衝撃を与えたようだが、統魔にとっては既知の事実を再確認しただけのことだった。
幸多は、中学時代に、既に下位獣級幻魔を討伐している。
もっとも、その事実が世間に知らしめられることはなかった。現場に駆けつけた戦団導士のお手柄ということにされたからだ。
幸多の活躍は、隠匿され続けた。
そしてそれも致し方のないことだと、思う。
幸多の存在は、魔法社会の在り方を根底から崩しかねない。たとえ幸多が獣級幻魔にしか通用しないのだとしても、魔法不能者が幻魔に対抗できるとなれば、魔法士を優遇するこの社会そのものに疑問を投げかけることになる。それは波紋となって広がり、現状に不満を抱く魔法不能者たちに大きな影響を及ぼすかもしれない。
そうした可能性を考慮した結果、幸多が幻魔を斃してきた事実は秘匿され、隠され続けた。
だから、今回の初任務で幸多がケットシーを撃破した事実が大きな衝撃として、戦団本部を駆け抜けている。
それは、統魔には、小気味の良い反応であり、反響だったが。
「おまえが会敵した鬼級幻魔バアルは、上層部によって特別指定幻魔弐号と呼称されることとなったらしい」
統魔は、昨日、蒼秀から聞いたことを口にした。
「特別指定幻魔……」
「ダークセラフに続く二例目だ。それがまさか、おまえの初任務に現れるなんてな」
統魔のいうように、特別指定幻魔に認定された幻魔は、これで、壱号たるダークセラフ以来の二例目となる。
それがどういうことなのかは、幸多にもすぐにわかった。
極めて異例だということと、あの鬼級幻魔が今もなお生きているということだ。
幸多は、拳を握り締めた。心の奥底に火が点くのを認める。それは怒りの火だ。幻魔への、自分自身の弱さへの。
「だが、奴は確かに特別だったんだ。大量の導士を前にして、圧倒的な有利な状況を作っておきながら、逃亡したそうだ」
「逃亡? どうして?」
「約束といったそうだ」
「約束?」
幸多は、その言葉を反芻するようにつぶやいて、怪訝な顔になった。意味はわかるが、理解は出来ない。幻魔の約束とは、いったい、なんなのか。
「そう言い残して、去ったんだと」
「どういう……」
「さあな。おれにはさっぱり理解できん。ただわかっていることは、奴は、いまもなおこの央都の何処かに潜んでいるということだ」
統魔は、幸多の褐色の瞳を見据えて、告げた。幸多の瞳には、決然たる光が宿っていて、その事実を確認できたことに安堵さえ覚える。
統魔は、幸多の心が折れる可能性については、まったく考えていなかった。そんなこと、あるわけがないと思った。
確かに酷い有り様だ。獣級幻魔を一掃して、初任務の出だしは上々だった。成井小隊の面々の気分も昂揚していたことだろう。
それが突如として崩壊した。
鬼級幻魔の現出によって、なにもかもが失われてしまった。
普通ならば、心が折られたとしても仕方がない。
しかし、幸多は、普通ではない。
誕生日の幸福の真っ只中、目の前で父親を殺されたのだ。まだ身も心も成熟していない子供のころに、だ。
そのときの絶望の深さたるや、統魔は、いまも忘れていない。
だからこそ、戦団に入り、導士となった。
幸多も、その怒りと憎しみを復讐の炎で灼き尽くすため、戦団に入ったのだ。
故に、心が折れるということはない。
既に心が灼かれ尽くしているのだから。




