第千三百九十三話 竜と竜(十五)
異界環境適応処置。
地下都市ネノクニは、数十年に及ぶ統治機構の支配の中、長きに渡る停滞があった。
統治機構が革新や変化を求めず、現状の維持と安定にこそ全力を注いでいたからであり、市民の多くもそうした統治機構の判断による平穏を享受していた。
そこには確かに変化はなかったが、安定があった。
安定とは、安心であり、安寧である。
幻魔災害や魔法犯罪が市民の不安を煽ることもなくはなかったが、しかし、そうしたものには統治機構の治安維持部隊が対応し、ネノクニの秩序や理は、冷徹なまでに維持されていた。
ネノクニは、永遠に変化しない。
永久に、地下の楽園で在り続ける。
だれもが、そう思っていたし、考えていたのではないか。
だが、あるものが、地上の様子を探ることを提案した。
統治機構の評議員のだれかのちょっとした提案は、しかし、すぐさま統治機構全体の考えとして共有されていった。
統治機構がネノクニの支配に飽き始めていた、というのもあるのかもしれない。
あるいは、ネノクニの広大な地下空間に漂うある種の閉塞感にだれもが倦んでいたというのも、あるのではないか。
いずれにせよ、統治機構は、地上を目指すことに決めた。
魔法の父、始祖魔導師・御昴直次が提唱した生命保全計画によって地の底に作られた地下都市ネノクニ。そこに住む人々は、自分たちに課せられた使命を全うする傍らで地上の様子をのぞき見していたのだが、それもいつからか途絶えていた。
地上の情勢が悪化し、地球全土が戦場となるほどの大戦争が勃発したことは、わかっていた。
その後の地上の状況は、不明。
統治機構がネノクニの運営に全力を尽くすこととなったのは、その時期、ユグドラシル・システムが機能不全に陥り、ネノクニ全体が大混乱に陥ったからだ。ユグドラシル・システムに全てを一任していた地下都市は、そのときこそ、破滅的な災厄に見舞われたといっていい。
そして、そうした状況からようやく立ち直り、ネノクニ全体が安定し始めた矢先、地上を気にするものが現れ始めたのである。
地上へは、大昇降機を使えば、すぐだ。
大昇降機は、ネノクニが誕生し、地上との交流を絶ってから使われてこそいなかったものの、整備は続けられていた。いつ地上へ上がることになっても問題ないように。
そして、そのときが来た。
そして、失敗した。
大昇降機に乗って地上へ向かった調査隊の面々は、地上に到達する前に全滅した。
理由は不明。
未知の事象に統治機構は大騒ぎとなったが、市民にその事実が知らされることはなかった。そもそも、市民は、地上に調査隊が派遣されたことすら知らなかったのだが。
統治機構は、地上調査に関するすべてを市民に秘匿していたのである。
万が一失敗したときのことを考えれば、その判断は正しかった――と、統治機構の評議員たちは証言する。
独善にして独断、唯一無二の支配者にして独裁者たる統治機構にとってしてみれば、市民の反応など恐れるものではないのだが、しかし、最悪の事態、状況というのは避けるべきだ。
結果、第一次地上調査隊は全滅。
その原因が地上と地下の魔素濃度の差にあることが判明すると、耐魔素装備が研究、開発され、再び調査隊が派遣されることとなった。
だが、それも失敗。
第二次調査隊は、地上に上がることにこそ成功し、変わり果てた地上の様子を記録することができたものの、幻魔の大群と遭遇、激闘の中で全滅した。
一説には、ネノクニへの帰投を望む調査隊の声を統治機構側が黙殺した結果だという。
そして、その説を、神威たちは支持している。
一方、統治機構は、第二次調査隊の敗因は、耐魔素装備にある、と、結論づけた。耐魔素装備は、確かに魔素の濃度差を無視して行動できるものの、幻魔との戦闘の中でわずかでも破損すれば最後、着用者の肉体が魔素圧に耐えきれず、崩壊、死亡してしまうからだ。
そこで統治機構は、さらなる装備の研究、開発を推し進める傍らで、新たな可能性を模索した。
それが異界環境適応処置である。
地上は、超高濃度の魔素に満たされていた。
ネノクニと比較すれば数十倍以上もの魔素濃度であり、その濃度差に人体が耐えきれなくなり、崩壊、死に至るのである。
これでは、いくら耐魔素装備が強化されようとも、装着者の安全を確保しきれないのではないか。
耐魔素装備が幻魔の攻撃を完璧に耐え抜くほどに強力な代物となればまだしも、それほどの装備を開発できる環境ではないのが、ネノクニだ。
秩序のための意図的な停滞が、このときになって統治機構を苦しめることとなった。
自縄自縛。
あるいは、自業自得。
されど、研究は進み、新たな可能性が見出される。
異界環境適応処置である。
つまり、異界の如き地上の環境に対し、人体そのものが適応できるように強化、改造するという方法である。
魔素圧に耐えきれないのであれば、人体が内包する魔素総量を増加させるのはどうか。そのためには、どうすればいいか。魔素生産量の増幅、増強。それができれば、自ずと地上の魔素濃度にも耐えられるようになるのではないか。
仮説は、数々の実験の果てに確たるものとなり、異界環境適応処置が完成した。
そして、人間として最初の実験体に選ばれたのが、神木神威であり、旭桜であり、朱雀院火流羅を始めとする、後の地上奪還部隊の主要人員である。
神木家の長男であった神威は、両親も知らぬうちに被験体とされ、統治機構に差し出される羽目になった。その際、神木家は、統治機構から多額の資金援助を行われており、これによって、神木家が栄えたという話だが、神威には関係がない。
神威は、自分が神木家の人間であるということを知らないまま、魔法士としての英才教育を受けた。だが、その記憶すらも、曖昧だ。
なぜならば、つぎの記憶が戦場の中だったからだ。
ヴァルハラ・ゲーム。
いまや悪名高き統治機構の政策として知られるそれは、異界環境適応処置を受けた新世代の魔法士たちを効率的に育成しつつ、市民の間に蔓延していた統治機構への不平不満や、ネノクニへの閉塞感をわずかでも和らげるためのものであった。
神威たち新世代の魔法士たちは、ヴァルハラと呼ばれる世界に生まれ落ちた存在であり、いくつかの組織に分かれ、血で血を洗う闘争を繰り返す。
その様子を記録映像をドラマ仕立てに編集し、市民に提供したところ、熱狂的な人気を博した。
ヴァルハラの魔法士たちは、自分たちが幻想空間にいることも知らず、ヴァルハラの闘士として、命懸けの戦いを行っている。そこには確かな感情があり、迫力があり、熱があり、心を動かすドラマそのものだったのだ。
さらに統治機構は、ヴァルハラ・ゲームを対象とする公営競技とした。つまりは、賭博である。ネノクニの在り様に鬱積していたものをため込んでいた市民の多くは、この公営ギャンブルにのめり込んでいった。
神威たちは、知らない。
ただ、日々を戦い続け、ヴァルハラの勝利者になることだけを目指していた。
その戦いの果てに勝利するにせよ、敗北するにせよ、闘士たちは、すぐさまつぎの戦いに投じられる。永劫に繰り返される幻想空間での戦いの日々。だが、闘士たちには違和感はない。
記憶を改竄され、夢の世界に囚われていたのだから。
そして、そんな神威の傍らには、常に旭桜の姿があり、ふたりが手を携え、協力し合う姿、愛し合い、支え合う様子は、ネノクニ市民を熱狂させていたという。
神威は、ヴァルハラ・ゲーム最強の闘士であり、彼率いる組織がもっとも人気を集めた――。
「あのですねえ、いくらなんでもいまそんな昔話をされても反応に困りますよ」
天空地明日良が困惑を通り越して愚痴を吐き出すのも無理のないくらいには、伊佐那麒麟の語りは唐突で、意味不明だった。戦団副総長である。明日良相手に遠慮など必要はないのだが、しかし、明日良としては勘弁して欲しかった。
「そうだな、まったく、なにを考えているのやら」
「閣下の昔話ならばいくらでもあるでしょうに、なぜ、ヴァルハラ・ゲーム?」
「まあ、懐かしい話ですが」
「困りましたね。わたくしにも、まるでわかりません」
麒麟は、明日良のみならず、同僚たちからの不評を受けて、口を噤んだ。
戦団本部から第五霊石結界への移動中のことだ。
移動は、明日良任せだった。明日良が、護法院の老人たちを星装を含む六本の腕で抱えるようにして、飛行魔法で空をかっ飛んでいる。
なぜそのような羽目になったのかといえば、明日良が軍団長の中でただひとり戦団本部にいたからであり、彼の力ならば、護法院の長老たちを護りながら移動することも容易いと判断されたからだ。
そしてなにより、神威が決戦を行っている。
竜と竜の決戦。
その行く末を見守るのに、戦団本部に留まってなどいられないというのが、護法院全員一致の意見である。
それは、明日良も同じだ。
(じじい……英霊になんざ、させねえからな)
明日良は、恐府跡地に誕生した新たな霊石結界へと突っ込むと、オトロシャ軍残党との激闘を尻目に、恐王宮の在った場所へと一直線に飛んでいった。
神威の姿など、もはやどこにもないのだが、構わない。




