第千三百八十九話 竜と竜(十一)
「いやはや、想像以上に凄まじいことになっているね」
月面は、惨憺たる有り様だった。
月の全域に死が満ちていて、莫大な魔素が充ち満ちている。月の重力に引き寄せられ、宇宙に解放されることも叶わない死の魔力。死の記憶。死の温度。
死。
そう、死だ。
絶対的な死が、この凍り付いた大地に充ち満ちている。
いまにも溢れかえり、月からこぼれ出してもおかしくはないほどの魔素質量。だが、月はそれらを逃さない。月の持つ魔力が、月の魔素質量が生み出す重力場が、魔素の拡散を妨げている。
「竜級幻魔と竜級魔法士が暴れ回ったのなら、さもありなん、だよ」
マモンは、遠くを見るような仕草をしながら視線を巡らせるアザゼルを横目に見て、つぶやいた。
「いやしかし、しかしだよ、マモンくん。月はどうやら幻魔の楽園だったらしいじゃないか」
「この死骸の数を見れば、そうねえ。楽園といえば、楽園だったのかしら」
「魔界と化した地球から、闘争の日々から逃げ出した連中にしてみれば、楽園か」
アスモデウスに続いて、ベルゼブブも月面に現れ、死に満ちた冷酷な大地に刻まれた破壊の跡を目の当たりにする。深々と刻まれた力の紋章。竜の絶対性を主張するそれらを目の当たりにすれば、悪魔とはなんぞやと考えたくもなる。
幻魔とはなんなのか。
悪魔とは、なんなのか。
さりとて、竜級幻魔ブルードラゴンと、戦団総長・神木神威が恐府跡地から飛び立ち、地球の重力圏を離脱したのを見れば、悪魔たちも宇宙へと移動せざるを得なかった。
でなければ、観戦し続けることはできない。
地上からでは、宇宙の現状を把握することは、悪魔たちの魔力、魔法技量を以てしても簡単なことではない。
悪魔たちの遠視魔法も万能ではないのだ。地球の裏側までも観測可能なのは、地球が潤沢にして膨大な魔素に満ちているからだ。
魔天創世。
幻魔大帝エベルによる、幻魔のための地球改革は、まさに魔法の力を十全に発揮する領域の構築に等しく、故に、悪魔たちも本領を発揮できるのだ。
が、地球の外、宇宙ともなれば、悪魔たちの魔法の影響力も大きく低下せざるを得ない。
宇宙に満ちる魔素の総量こそ地球などと比較する必要もないほどに膨大だが、それらは一点に集まっているわけではなく、宇宙全域に等しく分散しているのだ。
星のひとつひとつが、地球と同等かそれ以上の魔素質量を秘めていたとしても、それらはすべて、互いに影響力を及ぼさないほどに遠く離れている。
地球がいまの魔素濃度を誇るのは、魔天創世によって地球そのものの魔素生産量が増大した結果だ。
エベルが宇宙全域に魔天創世を行ってくれていれば、アザゼルたちも闇の世界ハデスから移動する必要はなかったのだが。
まさか、エベル如きにそれほどの力があろうはずもない。
「だが、魔界の戦乱を逃れたものたちの末路には相応しい」
とは、アーリマン。傲岸不遜そのものたる彼の顔面は、宇宙の闇よりも昏く、黒い。双眸だけが紅く輝き、月面の惨状を確認していた。
月面を覆い尽くしていたのであろう大量の幻魔が、死滅した。竜と竜の激突による余波、あるいは、竜による一方的な殺戮の果てに、死に絶えた。死骸もほとんど残らず、あるのは、かつて幻魔を構成していた要素たる魔素だけだ。
大量の魔素が月の重力圏を漂い、集まり、離れ、渦巻いている。
「まあ……そうだねえ。結局、魔界で戦い続けることから逃げたんだ。地球を逃れた先も、魔法の世界に変わりはない。ここはエーテル宇宙。どこに逃げても、安定することなんてありえない。宇宙の構造が安定を望まない。構造改革が必要だ!」
「意味がわからないよ」
突然大声を上げてくるアザゼルに顔をしかめると、マモンは、月面を歩き始めた。
竜と竜の決戦を観戦するべく月面を訪れたのだ。月の惨状を確認して、それでよし、というわけではない。
「ここからなら、見えるか」
ベルゼブブは、遥か頭上でぶつかり合うふたつの光点を見遣り、それらが発する竜気の余波が月の重力圏にすら影響を与えている現実に目を細めた。
ブルードラゴンは、わかる。
生粋の竜級幻魔であり、悪魔たるベルゼブブにも一切の勝ち目のない存在だ。絶対的な力の差は、彼であっても認めるほかない。
だが、もう一方は、どうだ。
神木神威は、人間だ。生粋の人間であるはずなのだ。人間の魔法士としても、飛び抜けた実力者ではない。少なくとも、魔導強化法の第一世代である彼と、第二世代、第三世代の後続者たちとでは、生まれ持つ魔法士としての能力、素養が段違いであるはずだ。
もちろん、神木神威が半世紀に渡って魔法士として、魔法技量を鍛え続けてきたという事実は理解しているが、とはいえ、だ。
第二世代の星将たちのほうがより優れた魔法士になり得ることは、だれにも否定できまい。
そんな人間が、竜の眼を持つが故に、竜級幻魔と対等の戦いを繰り広げている。
ベルゼブブには、理解できない。
理解できないが、観戦する必要があるため、彼は虚空に穴を開け、ハデスと繋げた。そして、ハデスから自分専用の超大型ソファと菓子類が山盛りになったテーブルを取り出して見せた。
「あなた、ここでもそんな真似をするつもり?」
「竜同士の世紀の戦いって奴だ、思い切り楽しむのが道理ってもんだろ」
「そうかなあ」
などといいつつも、マモンは、彼よりも先にソファに腰を下ろした。ベルゼブブがそんなマモンをどなりつける素振りを見せれば、アスモデウスが彼を睨みつけ、凍り付いた隙にマモンの隣に座って見せる。
「ふむ……確かに世紀の決戦ではある」
「おれたちにとっても、サタン様にとっても、極めて重大な戦いだね」
飄々《ひょうひょう》とした、そして空疎とした言いようのないアザゼルの態度にアーリマンが無言でいると、アザゼルはなんともいえない顔をした。それから、だれとはなしに尋ねる。
「ところで、サタン様は、無事なのかな?」
「――問題はないよ」
遥か頭上、アザゼルたちの上空に浮かぶサタンが、告げた。
サタンもまた、〈七悪〉たちが観戦のために月面へと場所を移した際に移動し、月の上空に在った。月の空から月面を、あるいは空を見回し、月の重力圏内に漂う莫大な魔素を感じ取り、怨嗟の声を聞いた。
突如として月の秩序が崩壊し、混沌に飲まれていく中ですべてを失い、滅び去っていったのが、月の幻魔たちだ。月を支配し、分割統治していたのであろう彼らの中には、確かな平穏があったようだ。
ここには、闘争はなかった。
少なくとも、大それた戦いは、長らく起こっていなかったようだ。
地球の戦乱を嫌い、逃れたものたちが集まったのだ。
闘争ではなく対話によって月の秩序を築き上げた。
だが、それは、二体の竜によって無慈悲にも崩壊した。
サタンの目は、月から宇宙へと至る。
広大な暗黒の宇宙。地球の間近、星々が瞬き、太陽の光に曝された宙域で、二体の竜が激突している。
その圧倒的な力の前では、鬼級程度では話にならないことはいうまでもない。
鬼級と竜級は、次元が違うのだ。
霊級と獣級、獣級と妖級、妖級と鬼級の間に横たわる力の差も巨大だが、鬼級と竜級の力の差というのは、それらとは桁が違う。それも一桁二桁の話ではない。
現在、地球上に存在する全鬼級幻魔が力を合わせようとも、一体の竜級幻魔を斃すこともできないのではないか。
それほどまでの力の差。
ブルードラゴンが地球を離れ、月を離れた理由もわかろうというものだ。
竜級二体が全力を発揮すれば、それだけで地球は崩壊しかねない。
故に、宇宙へと飛び立った。
そして、宇宙全域を激震させかねないほどの力を見せつけている。
サタンは、両目を見開き、じっと凝視していた。
竜気が、サタンの魂をも飲み込んでいく。




