第百三十五話 バアル
バアルは、幾重にも張り巡らせた罠を次々と突破し、眼前に肉薄してきた導士に対し、にやりとした。もはや怒りで我を忘れ、ただ突っ込んでくるだけの人間を相手にするなど、容易いことだった。
そう、彼が無数に展開した罠は、亜空間の亀裂は、この時のために用意されたものだったのだ。
バアルが指を鳴らす。
瞬間、全ての亜空間の亀裂から莫大な魔力が赤黒い光芒となって迸った。導士の全周囲が赤黒い光の奔流に埋め尽くされ、飲み込まれていく。
そして、バアルの眼前で、膨大な魔力が螺旋を描いた。
「ふむ」
彼は、なにが起こったのかを察した。
バアルが放った魔力の奔流の全てが、なにか強大な力によって受け流され、霧散していったのだ。
「まったく、世話がかかって仕方がないな。この馬鹿弟子は」
麒麟寺蒼秀は、皆代統魔を片腕に抱えながら、いった。統魔が一切抗わないのは、意識を失っているからであり、それも蒼秀が昏倒させたからにほかならない。意識があったままならきっと抗い、鬼級幻魔に挑みかかったことだろう。
彼の隣には、神木神流が浮かんでいる。二人して統魔に殺到したバアルの魔力をいなしたのだ。
「世話のかかる子ほど可愛いといいますが」
「こういう状況では、さすがにな」
「そうですね。その通りです」
星将二人は、統魔の暴走を決して褒めたりはしなかったし、認めることもなかった。許すことの出来ない馬鹿げた行動だ。その結果、味方に被害が及ぶ可能性だって十分に考えられた。
相手は、鬼級幻魔だ。
誰が死んでもおかしくなかった。
既に四名の戦死者が出ていて、皆代幸多も重傷だ。
統魔も、危うく死ぬところだった。
そんな相手を前に感情に身を任せるなど、あってはならないことだった。
「きつく教育しておかないと」
「よろしくお願いしますよ、麒麟寺星将。彼は希望の星なのですから」
「もちろん、わかっている」
蒼秀は、腕の中の弟子を一瞥し、バアルに視線を戻した。
鬼級幻魔バアル。
これまでの戦い方を見る限り、空間魔法の使い手かそれに類する能力を持っていると見ていい。虚空に触れることによって、こことは異なる赤黒い空間との境界に穴を開けることができるようであり、その中へ移動することも、その中から魔力を撃ち出すこともできるようだ。
強敵、というほかない。
「止めだ、止め止め」
「なに?」
「そもそもおれ様は、帰って寝ようとしていたところだったんだ。そこをその人間に呼び止められただけだ。だから、おれ様は帰るよ」
「逃がすとでも」
「逃がせよ。これ以上犠牲を増やしたくないだろう?」
バアルの発言の意図に気づいたのは、神流だった。彼女は、目線で蒼秀を制した。蒼秀も、そのおかげで状況を把握するに至る。
この戦場には、数十名の導士が動員されている。それら導士たちは、星将二名と鬼級幻魔の戦いによって生じる被害の拡大を食い止めるべく、大きく広範囲に渡って布陣しており、魔法壁を展開していた。
それはある種の結界である。
星将とバアル、両者の魔法が予期せぬ方向に飛んでいけば、それだけで多大な被害を招く。そうした事態を防ぐためには、戦場を魔法壁で覆うのが一番だった。
そして、導士たちの結界は、幻魔を結界という限定された戦場の外に逃がさないという面でも大きな意味があった。
だからこその大量投入でもある。
相手は、鬼級幻魔だ。
魔法壁の結界も強力なものにしなければ、容易く破壊されてしまいかねない。
だが、現在、結界構築のために動員された導士たち全員の背後に、赤黒い断裂が生じていた。それは獲物の前で舌なめずりをする怪物の口そのものであり、バアルがその気になれば一瞬にして全員が捕食されること間違いなかった。
紛れもなく人質なのだが、しかし、幻魔がそんなことをする理由が、星将たちには理解できない。
殺せるのであれば、いますぐにでも皆殺しにすればいい。幻魔とはそういう生き物であるはずだ。人類の天敵であり、人間を餌としか見ていない怪物なのだ。
だから、蒼秀にも神流にも、この状況がまったく飲み込めなかった。
バアルが、口を開く。
「おれ様はただ惰眠を貪りたいだけなのさ。邪魔をされて腹が立ったから殺した。それだけのことだ。これ以上邪魔をしないのなら、生かしておいてやるよ。そういう約束だものな」
「約束?」
「だれとのです?」
蒼秀と神流は、バアルが虚空を撫でる様を見遣りながら、その一言を聞き逃さなかった。約束、と、幻魔は言った。
約束。
鬼級幻魔と約束を交わすことのできる存在など、いるというのか。
鬼級幻魔は、かつて人類が定めた幻魔の等級の中でも最上位に位置しているわけではない。
等級としては、竜・鬼・妖・獣・霊の順であり、鬼級の上には竜級が君臨している。
しかし、竜級幻魔が自らの意志を示すような動きを見せたことは、歴史上、数えられるほどしかなかった。人類が確認している竜級幻魔は全部で六体。そのほとんどが、住処と定めた場所に留まり、能動的な動きを見せるということがなかった。
そして、鬼級幻魔が竜級幻魔の指示に従って動いていたという話も、聞いたことがなかった。
ただし、鬼級幻魔同士で主従関係を結んでいる可能性は、大いにある。
かつて、幻魔戦国時代と幻魔たちが呼んでいた時代、幻魔同士の国取り合戦が頻繁に行われていた、という。その頃は、主従の契りを交わす鬼級幻魔も少なくなかったという話であり、バアルが言った約束も、そうした関係を結んだ相手とのものである可能性はあった。
「はっ」
バアルが、神流たちを一瞥し、嘲笑うように口角を上げた。なにもない空中に亀裂が走り、口を開こうとしたその瞬間、しかし、その灰色の肉体を砲撃が襲った。閃光と爆音がバアルの魔晶体を震撼させる。
極めて強烈な魔法攻撃。
バアルは、女導士の目が鈍く輝いていることに気づき、そして、その周囲に複雑な紋様が浮かんでいることを理解した。それは魔法の構築に伴って発現する律像と呼ばれる紋様だった。砲撃は、その女の魔法だ。別の第三者によるものではない。
バアルが、怒号を発した。
「おれは警告したぞ!」
「ええ、聞きましたよ」
神流は、涼しい顔で聞き流しながら、さらに何度となく火属性魔法による砲撃を叩き込む。無数の魔法弾がバアルの肉体に直撃する度に爆光が閃き、けたたましい轟音が響き渡る。
「皆殺しだ……!」
バアルは叫び、亜空間の門・虚空の顎に全ての導士を食らいつかせるようとした。しかし、虚空の顎が食らいついたのは、導士ではなく、巨大な氷壁だった。
「なっ!?」
バアルには、なにが起こったのか、一瞬、全く理解できなかった。混乱が生じた。
虚空の顎は、この場にいる全ての導士の背後に生み出したものであり、逃れる術はなかった。どのような魔法を使おうとも、虚空の顎が導士を食い殺すのを止めることはできない。刹那の時間すらかからないからだ。
しかし、現実として、全ての虚空の顎は、導士ではなく、導士と虚空の顎の間に発生した分厚い氷壁に食らいついていた。全ての導士が、氷壁に押し出されるようにして内側に移動しており、無傷だった。
一秒どころか刹那の時間もかからない瞬間同時空間攻撃から、どうやって、これだけの人数を守り抜いたというのか、バアルには皆目見当もつかなかったし、いつの間にかこの戦場そのものが巨大な氷の檻の中に閉じ込められていることに気づき、愕然とする。
上空に、導士がいた。長い黒髪と漆黒の衣を閃かせるようにしながら空中に浮かび、バアルを睨み据える導士の女。その双眸が強く輝いている。
間違いなく、その女の仕業だった。
どうやったのかはわからないが、どうにかして、虚空の顎による瞬間同時空間攻撃から全ての導士を護って見せたのだ。
バアルは、その群青の眼を睨めつけるとともに、いまさっき開いたばかりの亜空間へと、砲撃でぼろぼろになった体を滑り込ませた。砲撃の嵐は止まない上、さらに無数の雷撃が殺到し、痛撃となって魔晶体を破壊していくが、その程度で滅び去るわけもない。
そして、亜空間の中へと完全に入り込むと、異空間への扉を閉じた。
神流は、輝火閃焔砲による連続砲撃がほとんど意味を為さなかったことを実感するとともに、蒼秀の魔法も効果がなかったことに憮然とした。鬼級幻魔が相手ならば、そうなる可能性も多分にあったが、とはいえ、こちらの全力の攻撃を受けて顔色一つ変えず逃走するなど、考えられることではない。
もはや、バアルの姿はない。
幻魔は、亜空間へと消えてしまった。
見回せば、導士たちを食い殺そうとし、しかし氷壁によって阻まれていた怪物たちの口も消えていた。
神流と蒼秀は、目線を交わすと、頭上を仰いだ。戦場全体を覆う魔法結界、その内側に張り巡らされた巨大な氷壁を生み出したのは、伊佐那美由理だ。
「助かりましたよ、伊佐那星将」
神流で手を振ると、美由理はゆっくりと降下してきた。
「間に合って良かった」
「ええ、本当に」
神流は、美由理が咄嗟の判断で全力を尽くしてくれたことに心の底から感謝していた。美由理が氷の結界を張り巡らせてくれていなければ、今頃、導士たちはどうなっていたものか。全滅していた可能性もある。
バアルは、ああいっていたが、幻魔が一方的にいってきたことを護ってくれるなどとは到底考えられない。少なくとも、バアルがこの場を離れる際に殺せるはずのものたちを放っておく道理がないのだ。
だからといって、攻撃を仕掛けるのも躊躇われた。むざむざ導士たちを見殺しにはできない。
そんなとき、美由理の到着を知ったからこそ、神流は攻撃に転じることができたのだ。もし、到着したのが美由理以外の星将ならば、別の方法を取らざるを得なかっただろうが。
それから、作戦司令部と連絡を取った。
「鬼級幻魔は消失、状況は終了した。戦死者四名、重傷者一名。被害のほどは……鬼級が出たにしては小さすぎるな」
『こちらでも状況は全て把握しています。軍団長におかれましては、周囲を警戒しつつ、幻災隊とともに対応してください』
「了解」
蒼秀は作戦司令部との通信が終わると、腕の中の弟子に目を向け、それから戦場跡地に視線を遣った。
第七軍団の成井小隊がほぼほぼ全滅した。現場には、無惨な亡骸が残っていて、鬼級幻魔の容赦のなさが見て取れるようだった。
巡回任務がこのような形で終わることというのは、決して珍しいことではない。
予期せぬ強敵と遭遇し、小隊が壊滅的な打撃を受けることも、ありえないことではないのだ。
戦団は、常に死と隣り合わせの職場だ。
実働部隊たる戦務局戦闘部に所属すれば、特にそうなる。
そうならざるを得ない。
人類の天敵たる幻魔と戦い続けるということは、つまり、そういうことなのだ。
導士の命は、軽く、安い。
蒼秀は、弟子の命すらも失いかけたという現実を認識しながら、屋上に降り立ち、部下が集まってくるのを待った。
それでも、気分は、最悪だった。
気分は、最悪だった。
せっかく惰眠を貪ろうと言うところを邪魔されただけでなく、空きっ腹を満たすことすらままならず、人間の導士に手傷を負わされるという羽目になってしまった。
彼のこれまでの生涯では、ありえなかったことだ。
核を傷つけられたわけではないため、なんの痛手もないし、あっという間に復元したのだが、とはいえ、人間如きに負傷するなど、どこの敗北者たちなのか、といわざるをえない。
バアルは、己の楽土たる亜空間に寝そべろうとして、はっとした。
影が、眼前にあった。
暗澹たる無明の闇が、バアルの目の前に広がっている。その暗影の奥底から赤黒い光が迫ってきて、止まった。それが見開かれた双眸だと気づいたときには、バアルの体の半分ほどが闇に飲まれていた。
闇そのものたる衣の、宇宙のように広大無辺の影の中に取り込まれていく。
「なっ、なんだ、なんなんだ!?」
バアルは、その長い生涯で初めて、取り乱した。
突如目の前に現れた幻魔もそうだが、それが自分を取り込みだしたのだ。有無を言わさず、ものもいわず、唐突に、いきなりだ。
バアルには、なにが起こっているのかわからなかったし、どうしてこの亜空間に見知らぬ幻魔がいるのかも理解できなかった。
ここはバアルの楽土であり、バアルの支配する領域なのだ。
そこに他者が入り込む余地はない。
少なくとも、彼が開いた亜空間への出入り口を通らなければならない。
それは、掟だ。
誰であれ破ることの出来ない、絶対の摂理。
だが、それは彼の眼前にいて、彼の肉体の大半を闇の中に飲み込んでいる。
《我が名はサタン。大いなる影にして、遙かなる敵対者。汝、バアルなるものよ。汝には、約束通り、大いなる力を与えよう》
「約束? 約束だと……!?」
バアルは、頭の中に響く声の重圧に狂いそうになりながらも、それの発した言葉の意味がわからず、叫ぶしかなかった。
「約束――」
バアルは、サタンの衣の闇の中に完全に飲み込まれた。
サタンは、広大な亜空間の赤黒い闇の中で、静かに佇んでいた。
黒衣を纏い、黒き光の輪を背負う、暗黒の化身。影そのものたるサタンの足下に影があるのは、背後に浮かぶ光輪の放つ黒い光のせいだろう。その黒い光は、サタンの姿を影に隠し、サタンの影を足下に映し出す。
その影が盛り上がったかと思うと、灰色の肉体が組成されていく。
それは、バアルに酷似した新たな幻魔が誕生する瞬間だった。顔の作りも体格も肌の色も、格好も、なにもかもがバアルのままだ。異なる部分があるとすれば、頭上に浮かぶひび割れた黒い環であり、裂けた背中から生えた透明な四枚の翅くらいのものだ。
そして、バアルに酷似した幻魔は、サタンの影の上で跪いた。
《汝の名は、是より、バアル・ゼブル》
サタンは、新生した幻魔をそう名付けると、彼に外への扉を開かせた。
この亜空間は、バアルの、バアル・ゼブルの領域。
サタンでも決して立ち入ることの出来ない亜空間だった。




