第百三十三話 鬼級幻魔
「ふむ」
全身が灰色の鬼級幻魔は、突如乱入してきたものたちを順番に見遣った。
頭上には、幻魔がいる。彼の知識には存在しない幻魔だが、力量的には、人間が定めた等級で区分ですれば、妖級上位のくらいだろう。
彼の敵にはならない。
周囲には、人間たち。
黒衣を纏った戦団の導士たちは、大量の魔力を魔法に注ぎ込んでいる最中だが、いずれも彼の相手にはならない。
彼の敵は、一人としていない。
ただ一人、脅威になる可能性を秘めているものがいるとすれば、先程、彼に光の槍を突き刺してきた人間くらいのものだ。その人間は、彼が殺し損ねた人間をこの戦闘に巻き込まないように遠ざけていた。
「無駄なことをするものだ」
彼は、敵対者たちを見回して、告げた。
「こんなことになんの意味があるというんだ? おれ様はただ眠りを邪魔されたから、せっかくの夢心地のところを起こされたから、邪魔者共を処分しただけのことだ。腹も減ってたしな。余計な手出しをしなければ、貴様等まで命を失うこともなかったというのに」
「だったら、いいことを教えてやる」
彼の嘆息に対して強い口調で言い返してきたのは、戦場に舞い戻ってきたさっきの人間だ。黒髪に紅い目の導士。黒衣が舞い上がり、莫大な魔力が渦巻いていることがわかる。両目が紅く輝いているようだった。
殺意に満ちている。
「ほう?」
「死に曝せ」
統魔は、怒号とともに右腕を振り上げた。
「撃光雨!」
真言とともに、練り上げた魔法を発動させる。
鬼級幻魔の頭上に無数の瞬きが生じ、破壊的な光の雨が降り注いだ。幻魔は、嗤う。幻魔の頭上に赤黒い亀裂が生じ、光の雨の全てが吸い込まれしまった。
しかし、それで動じる統魔ではない。その光景は、一度見ている。
天使型幻魔が放った攻撃が、同じ方法でいなされていた。
統魔たちにしてみれば、上空の天使型幻魔も要注意対象に変わりなかったが、もっとも注意するべき相手が鬼級幻魔であることは疑いようのない事実だ。
鬼級幻魔は、第七軍団の成井小隊を壊滅に追い遣った。小隊長および隊員三名が死亡、生き残ったのは隊員一名と、臨時隊員の幸多だけ。
鬼級幻魔出現の報せが飛び込んできたとき、統魔は、本部を飛び出していた。
命令があったわけではない。
が、いてもたってもいられなかったし、一秒一刻を争う事態だった。
鬼級幻魔の出現は、それだけで多大な被害をもたらしかねない。既に四名の死者が出ているが、それは極めて少ない被害といっていい。
それもこれも、皆代小隊が間に合ったからだ。が、それで状況が好転したわけではないということもまた、覆しようのない現実だった。
統魔は、脳髄を貫くような威圧感と全身を灼くような緊迫感と戦いながら、鬼級幻魔と向き合っていた。人類の遺伝子に植え付けられた根源的な恐怖、その最たるものが鬼級幻魔なのだ。
まともに向かい合っているだけでも、頭がどうにかなりそうだった。
「蒼雷真流撃!」
「焔王双破掌!」
「参百四式破天翔!」
「弐百捌式水龍激!」
皆代小隊の隊員たちが、一斉に魔法を放ったのは、統魔の魔法が亀裂に吸い込まれた直後だ。
香織の放った雷光の奔流は、幾重にも折り重なるようにして幻魔に殺到し、枝連から伸びた巨大な炎の腕が彼の動きに合わせて幻魔を挟み込むと、幻魔の足下から強烈な衝撃波が撃ち出され、破壊的な水流が渦を巻くようにして幻魔へと向かっていく。
四者四用の魔法による一斉攻撃。
しかし、鬼級幻魔は、表情ひとつ変えない。
「くだらんな」
灰色の幻魔は、魔法の嵐の中で微動だにしなかった。全身に強烈な魔法を浴びているにも関わらず、その魔晶体には痛撃が一切入らない。
まったく通用していない。
統魔は、その事実を確認しながら、魔法を練った。想像を働かせ、鬼級幻魔を破壊するための魔法を紡ぎ上げていく。
幻魔は、そんな統魔の事情など知ったことではない。
「……しかし、まずは」
幻魔が、一歩踏み出したかと思うと、その姿が統魔の視界から掻き消えていた。だが、強烈な気配は逃しようもないものであり、統魔の視線はそれを追いかけた。
幻魔が、戦場となった屋根上から遠く離れた場所に向かっているのがわかった。その先には、統魔が退避させた幸多がいる。
「幸多!」
統魔は、無意識的に叫ぶと、地を蹴るようにして飛んでいた。全速力で幻魔を追いかけるが、間に合わない。
幻魔が路肩に寝かされた幸多を踏みつけようとしたそのとき、光がその隙間を縫うようにして吹き荒んだ。一対の翼が煌めき、幻魔を押し退ける。
「貴様は……いったいなんの真似だ? たかが妖級如き、おれ様の邪魔ばかりをして、いったいなんの意味があるというのだ」
灰色の幻魔は、幸多と自分の間に割って入るだけでなく、押し退けさえした幻魔を睨み据えた。天使のような姿をした幻魔は、どういうわけか片手を失っていて、それを直してもいない。
まったく彼には理解の及ばない存在だった。
そもそも、妖級程度の力しか持たない幻魔が、鬼級幻魔に襲いかかってくること事態、あり得ないことだった。
摂理に反している。
もちろん、例外はあるのだが、しかし、その例外に該当しているとも思えない。
ここは、誰の領土でもないのだ。
領土争いの課程で妖級以下の幻魔が鬼級幻魔に挑みかかり、討ち滅ぼされることは多々あれど、そうでもない限り、圧倒的な力量差のある鬼級幻魔に妖級以下が戦いを挑むなど、考えられないことだった。
だから、彼は、天使のような姿をした、まさに皮肉の塊のような幻魔を睨めつける。
「我が名はドミニオン。我が意は天の意、我が行いは天の行いと心得よ」
「……なにをいっている?」
彼には、天使の発した言葉の意味が理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。考える必要はない。
邪魔者は、潰せばいい。
力こそが正義であり、絶対の法だ。
それが、幻魔世界の唯一無二の掟なのだ。
彼は、天使に向かって左手を掲げようとして、止めた。後方から強烈な魔力を感じる。莫大な密度の魔力。これほどの魔力を人間が内包しているというのは、少々考えにくかったが、しかし、現状を思えばありえないことでもなかった。
でなければ、人間がかつてこの地に君臨していた鬼級幻魔リリスを打倒し、リリスの楽土を人類の王国に作り替えることなど不可能だ。
彼は、天使を魔力だけで吹き飛ばすと、魔力源を振り返った。
眼前に迫っていたそれは、光の槍を突き刺してきた導士だった。その小さな人体からは考えられないほどの質量の魔力が満ち溢れていて、鮮烈としか言いようのない膨大な光を放ちながら、彼へと肉薄していた。
迫り来る導士の怒りに我を忘れたような形相の意味は、彼にはまったく理解のできないものだったが、どうでもいいことではあった。
爆発的な速度で飛来した導士に対し、幻魔は、前方に亜空間を開くことで対応した。赤黒い亜空間への亀裂が急激に拡大し、殺到する導士を飲み込もうとする。が、導士は、強烈な光を曳きながら、大きく迂回し、幻魔の背後に回り込んだ。幻魔は、背中に痛烈な打撃を受け、吹き飛ばされる。
「ふむ」
彼は、空中で身を翻すと、眼下で光を纏った導士が意識を失った人間を抱え、飛んでいく様を見た。
「なるほど」
そういうことか、と、彼は認識する。あのなにも持たない人間こそ、光の導士にとっての弱点、急所というべきものだった、ということだろう。だから、彼が踏み潰そうとしたのを見て、怒り狂った。
激情が、あの導士の魔力を爆発させている。
そしてそれは、往々にしてあることだ。
人間が、その死の瞬間、激情の果てに莫大な魔力を生み出してしまうのと同じだ。
感情は、魔力を生み出す大きな原動力となる。
幻魔は、民家の屋根上に舞い戻ると、さらに数多くの導士がこの戦場を包囲していることに気づいた。大小無数の魔力の塊たち。
数十人に及ぶ導士たちが、鬼級幻魔の討伐に駆り出されたのだ。
無意味に、無駄に、死にに来たのだ。
彼は、しかし、そうした導士たちを一瞥することもなかった。彼の興味は、既に光の導士だけに映っている。
殺し損ねたから始末しようとした塵未満の存在は、もはやどうでもよくなっていた。
未だ燦然と光り輝く導士は、塵未満の存在を別の導士に預けると、彼に向き直った。
「殺してやる」
導士は、いうが早いか、飛んでいた。その速度は、鬼級幻魔の彼ですら目で追うのが精一杯というほどのものであり、人間の中では最高峰といっても過言ではあるまい。
少なくとも、彼はそう感じた。
だが、彼はその極めて直線的な動きを見切っていた。爆発的な光を帯び、真っ直ぐに飛びかかってくる導士には、なんの考えもなかったのだろう。ただ、怒りに身を委ね、魔力に全てを任せている。
原始的な本能。
本能的な衝動。
故にこそ破壊的で、圧倒的なのだ、とも、彼は認識する。
眩い光の中、赤黒く輝く双眸を見据えながら、彼は、軽く後ろに飛んだ。すると、導士はさらに加速して、彼との間合いを詰めた。幻魔は、嗤う。彼の立っていた場所に亜空間の亀裂が生じ、瞬時に導士を拘束したからだ。
胴体を寸断しかねないほどの衝撃を受け、導士が血を吐いた。
彼は、悠然と導士に歩み寄る。
「殺されるのは、貴様だったな」
幻魔は、嗤う。