第百三十二話 初任務・皆代幸多の場合(六)
灰色の鬼級幻魔は、ただ左手を軽く振っただけで、成井英太の亡骸をばらばらにしてしまった。
幸多は、ただ、見ていることしか出来なかった。
成井小隊の面々よりも、恐怖を感じるのが遅かったのだ。彼らは皆、鬼級幻魔が出現する予兆を感じていた。それがおそらく違和感の正体であり、気づいたときには既に遅かったのだ。
幻魔に対する根源的恐怖は、人間ならば誰もが持つものだ。
幻魔は人類の天敵であり、その事実は、現在になっても一切変わっていない。下位獣級幻魔程度ならば容易く一掃できたとしても、人間よりも幻魔のほうが圧倒的に強い現実に違いはない。
妖級以上の幻魔に対抗できる人間はそう多くはなく、鬼級となればなおさらだ。
鬼級幻魔は、幻魔の王族とでもいうべき階級である。妖級幻魔とすら隔絶した力を持ち、星将数人がかりでようやくまともに戦えるといわれるほどだった。
そんな鬼級幻魔が、突如、目の前に現れた。
幸多は、体中が金縛りに遭ったかのように動かなくなったことを認めた。全身総毛立ち、穴という穴から汗が噴き出していた。
ただ対面したというだけで凄まじい重圧を感じる。
完全無能者の幸多でこれなのだ。魔法士たちはどれほどの圧力を感じているのか、想像もつかない。
しかし、その重圧を振り切るようにして、鬼級幻魔に飛びかかったものがいた。山中伊吹だ。
「よくも隊長を!」
「駄目よ! 立ち向かっては――」
美奈子の制止は、伊吹に届かなかった。伊吹は、全身に氷の鎧を纏い、多量の冷気を撒き散らしながら、鬼級幻魔に殺到した。
「こっちはただ安穏たる惰眠を貪るつもりだったんだよ。貴様等が暴れ回らなきゃ、誰も死なずに済んだ」
鬼級幻魔は、伊吹を見てもいなかった。軽く右手を振り上げて、赤黒い軌跡を描く。それは虚空に刻まれた断裂であり、飛びかかってきた伊吹の体をずたずたに切り裂き、一瞬にして肉塊へと変えてしまった。血しぶきが、嘘のように散乱する。
「伊吹!?」
「くそっ!」
広尾真一と行常憲康が口々に叫び、そして、つぎの瞬間には全身から血を噴き出しながら崩れ落ちていた。
幸多には、なにが起こったのか、わからなかった。幻魔がなにかをした、ということはわかる。しかしそれ以上はなにも理解できない。幻魔が動いた様子すら見えなかった。
警報音が、鳴り響いている。
それとともに、導衣に備わった通信器からは、鬼級幻魔の現出への対応に追われる無数の声が聞こえてきていた。
作戦司令部にとっても想定外の事態なのだ。
「目が覚めてしまった。これじゃあしばらく眠れそうにないし、腹も減るし、どうしてくれる」
鬼級幻魔は、一方的に告げてくるなり、こちらに歩み寄ってきた。一歩、一歩、確実に近づいてくる。
幸多に、ではない
幸多の手前に立っている美奈子に向かって、だ。
「最後の一人。どうした、抵抗しないのか?」
灰色の幻魔は、恐怖で動けなくなった美奈子を眼前に捉え、問うた。詰っているわけでも、弄んでいるわけでもない。ただ純粋な疑問を浮かべたような、そんな素振りだった。
幻魔が美奈子に向かって右手を翳し――
「させるか!」
幸多は、咄嗟に飛び出すと、美奈子の体を抱え込んで跳躍した。
背後で凄まじい破壊音がしたが、振り向かず、距離を取る。
「ん?」
幻魔には、なにが起こったのかわからなかった。
幸多は、美奈子を軒下に退避させると、即座に屋根上に戻った。灰色の幻魔は、自分が作った破壊跡を見下ろしている。民家を一つ、根底から消し飛ばしていた。残骸一つ、瓦礫一つ見当たらない。消滅した、といっていい。
あのままなにもしなければ、幸多も巻き込まれ、命を落としていたかもしれない。
「なんだ?」
「ぼくが相手だ、鬼級幻魔!」
「……声は聞こえる。が、姿は見えない。魔法か? いや、そういうわけでもなさそうな……」
幻魔は、こちらを向いたが、どうやらそれは音の発信源を追ってのことのようだった。幸多の姿は一切見えていないらしい。
鬼級幻魔でも、完全無能者を一発で見切ることはできない、ということだ。
それがわかったからどうだというのか、と、幸多は、内心唾棄するように思った。そんなことで状況がどうなるわけもない。
力の差は圧倒的だ。
死にたくなければ逃げるべきだった。
それ以外に選択肢はない。
作戦司令部が手配しただろう戦力の到着までの時間稼ぎなど、幸多一人で出来ることではない。相手が妖級幻魔程度ならばのらりくらりと躱せばなんとかなるかもしれないが、眼の前のそれは鬼級幻魔だ。
場数を踏んでいたはずの導士たちが、瞬く間にやられていった。
目の前で、惨殺されていった。
絶望的だった。
同時に怒りを覚えた。限りない怒りが、底知れぬ激情が、幸多の体を突き動かしている。
敵わないからなんだというのか。
そんなことが幸多の足を止めるわけもなかった。
道理に従うだけの人間であれば、戦団に入ることすらしなかった。
地を蹴り、幻魔との距離を詰める。幻魔は身動ぎひとつしない。幸多が幻魔の顔面を殴りつけた。強烈な衝撃が幸多の拳に走った。電撃を浴びたような痛み。
拳が、砕けた。
鬼級幻魔の魔晶体は、妖級以下の幻魔とは比較にならない、ということを身を以て理解する。
しかし、幸多は、止まらなかった。つぎは、がら空きの腹を蹴りつけた。左足にも、拳と同様の衝撃が生じた。激痛に顔をしかめる。
またしても骨が折れた。
「ふむ。なるほど。そういうことか。理解した。理解したぞ」
鬼級幻魔は、幸多に目を向けた。赤黒い目が見開かれ、眼球の奥底、瞳孔に当たる部分が最大限に拡大している。その目には、幸多の姿が映っていた。朧気に、まるで幻影のように。
「なぜ、貴様のような塵が生きている」
幻魔の右手が、幸多の首を掴んだ。無造作に、しかし、避ける暇もなかった。
幻魔は、幸多を持ち上げながら、首を締め付けた。常人ならばあっという間に折れて死んでいるだろう圧力は、幸多だから辛くも耐えられている。だが、それもすぐに終わる。
「いや、失礼。塵にも魔素は宿っているな。貴様は、塵未満だ。塵にすらなれない、この世に存在してすらいない、何者でもないモノだった」
幻魔は、幸多の存在感の希薄さを実感として覚えたが、だからといってなにかを感じたわけではなかった。
所詮、不完全であろうと人間は人間だ。首を絞めれば死ぬ。
幸多は、左手で幻魔の手首を掴んだが、抗えたのはそこまでだった。首が絞められ、息が出来なくなっていく。意識が遠のいていく。痛みはやがて甘美な囁きとなり、天から迎えが来たような感覚すらもあった。死ねば楽になれる。あらゆる苦悩から解放される。この完全無能者の肉体から解放され、魂だけの、自由な存在になれるのだ。
(ああ……)
幸多は、頭上に光を見た。
まるで、翼を広げた天使が舞い降りてくるかのようだった。
本当に天国があって、迎えが来ることがあるのか、などと思ったのは、意識が正常ではなかったからに違いない。
だが、眩い光が降り注ぎ、鬼級幻魔の右手首を寸断した瞬間、幸多は、幻覚を見たのではないのだと思えた。しかし、意識は朦朧としていて、確信は持てない。
鬼級幻魔が天を睨むと、頭上から光の雨が降り注いだ。無数の光線は、全て鬼級幻魔に向かっていく。極めて高性能な追尾誘導。鬼級幻魔が瞬時に再生した右手を掲げ、虚空に穴を開ける。光の雨が虚空の穴に吸い込まれて消えた。
すると、鬼級幻魔の体勢が崩れた。背中から脇腹にかけて、光の槍が貫いている。
幻魔がそちらに目を向けたが、そのときには、光の槍の使い手は、幸多を抱き抱え、幻魔の目の前から飛び退っていた。
「生きているな?」
統魔が、抱き抱えた幸多の顔を覗き込んで、問うた。
幸多は、返事もなにもできる状態ではなかったし、誰に助けられたのかもわからなかったが、声だけは確かに聞いた。
統魔の声だ。
だからだろう。
幸多の意識は、暗澹たる闇の中に沈んでいった。