第百三十話 初任務・皆代幸多の場合(四)
「護炎壁!」
古大内美奈子が放った魔法は、彼女の前方の地面からせり上がる炎の壁であり、屋根上の十数体のケットシーが放った無数の水球が雨のように降り注いでくるのを見越して練り上げたものだった。
実際、数多の水球が燃え盛る炎の壁に次々と衝突し、破裂し、蒸発していったものだから、屋根上から悠然と見下ろしていたケットシーたちも、さすがに反応を示したものだった。
ケットシーは獣級下位に類別されるが、しかし、十数体もいるとなれば脅威以外のなにものでもない。いや、一体であったとしても、一般市民にとっては命の危険性を考えなければならない相手だ。
対抗戦決勝大会の閉会式の一幕が幸多の脳裏を過る。獣級幻魔を一掃して見せた伊佐那美由理の魔法技量は、やはり圧倒的とした言い様がないのだ。
この場には、伊佐那美由理ほどの実力者はいない。
が、成井小隊の面々も、それぞれに数多の実戦を経験してきたのだろう導士たちであり、今日まで生き残ってきた歴戦の魔法士であることに違いはない。
そのことで不安になる幸多ではなかった。
実際、成井小隊が攻勢に出ると、安心感すら抱いた。
地を蹴るようにして飛び上がった成井英太が炎の太刀で斬りかかれば、山中伊吹が氷の檻で複数体のケットシーを拘束してみせる。散開する獣級幻魔を逃さなかったのは、広尾真一が生み出した竜巻であり、行常憲康の放った伝播する雷光だ。
古大内美奈子も四人を援護するべく魔法を放ち、戦場に満ちていた水気を強烈な熱気で吹き飛ばしていく。
ケットシーは、水を操る幻魔だ。戦場に水気を呼び寄せ、先程のように水球を生み出したり、滝のような雨を降らせることで攻撃してくる。古大内美奈子の生み出した熱気は、ケットシーにとって最大の天敵といってよかった。
成井小隊は、ケットシーとの戦い方がわかっている。
さすがだ、と、幸多は感心する。
もちろん、幸多は、ただ成井小隊の戦いを見守っているだけではなかった。幻魔たちの動きを観察し、距離を測り、隙を窺っていた。
そのとき、一体のケットシーが、民家の屋根上に上がった成井小隊から逃れるように路上に降り立った。二本の足で着地した幻魔は、頭上を睨み、攻撃を試みようとしているようだった。
目の前に幸多がいるのに、だ。
まるで幸多の存在など眼中にないかのようだった。
(見えていないんだ)
幸多は、確信とともにケットシーに飛びかかる。それは、いままでも何度もあったことだった。幻魔の目は、人間の目とは作りが違うということが長年の研究の結果、判明している。
人間と幻魔では見えているものが違うのだ。
幻魔の視界がどういうものなのかを再現した映像は、幸多も見たことがあった。幻魔の目は、魔素
《まそ》の密度、性質によって色分けされた世界を見ている。幻魔にとっては魔素が全てであり、魔素を内包しない存在など、端から認識できないのだ。
だから、幸多を無視する。無視したくて無視しているのではない。
認識できていないのだ。
それは、幸多が魔素を一切内包しない完全無能者だからであり、ただの魔法不能者ならば、ケットシーが路上に降り立ったとき、真っ先に狙われた可能性が高い。
すぐ目の前だったのだ。
幸多は、一瞬でケットシーとの間合いを詰め、その小さな首を締め上げるようにした。小さくとも幻魔だ。その肉体は極めて頑強であり、幸多の膂力程度でどうにかなるものではない。
幻魔に通常兵器は効かない。
これが定説であり、常識だ。
あらゆる兵器が幻魔には意味を為さなかった。
核兵器ですら、幻魔を滅ぼすには至らなかった。
魔法以外一切通用しない。
それが幻魔という生物だ。
だが、それは幻魔の肉体を覆う外骨格たる魔晶体の話だ。
幸多は、腕の中のケットシーが、突如見えない力に持ち上げられたかのような怪訝な表情を浮かべるのを見ていた。ケットシーの体は、大型の猫くらいだ。普通の猫ならば幸多の腕力に押し潰されておしまいだが、魔晶体にはどれだけ力を入れても意味がない。
しかし、ケットシーに大口を開けさせることには成功したようだった。状況を不審に思った水妖猫が、力を拡散させるためにわめき散らしたのだ。ケットシーの魔力が水気となって飛び散り、幸多の全身を切り裂くが、彼はそれを好機と判断する。
ケットシーの口の中に右手を突っ込み、奥へ奥へと押し込む。幻魔の双眸が大きく見開かれ、赤黒い眼球が痛いくらいに光を放つ。水の刃が幸多の顔面を縦に切り裂くが、幸多は手を止めない。
外骨格たる魔晶体は、核兵器すら通用しない堅牢さを誇るが、内部は違った。人間や動物のような臓器などがあるわけではないし、傷ついても瞬く間に再生する回復力を持つが、魔晶体のようにまったく傷を負わないようなものではなかった。
なにより、幻魔の体内には、幻魔の心臓ともいうべき魔晶核が隠されているものだ。
そして、ケットシーの魔晶核は、猫で言う胃袋の位置に抱え込まれていて、幸多の右手は、いままさに魔晶核を掴み取ったところだった。ケットシーの魔力が乱れ、幸多の全身をずたずたに切り刻むが、彼は構わなかった。ケットシーの体内で魔晶核を握り締め、握力だけで破壊する。
その瞬間、ケットシーの双眸から禍々しい光が爆発的に噴き上がったかと思うと、その全身から力が抜けていった。
死んだのだ。
魔晶体を包み込んでいた水気が流れ落ち、青黒い結晶の塊のような死骸だけが幸多の腕の中に残る。
幸多は、ケットシーの死骸を足下に投げ捨てると、屋上からのこちらを見下ろすケットシーを睨み返した。ケットシーの死亡によって、幸多の存在を認識したのか、どうか。
ケットシーが路上に降り立ち、死骸の側まで寄ってくる。
当然、そこには幸多がいるのだが、ケットシーには警戒している様子すらなかった。やはり、幸多を認識してはいない。
同胞がなぜ死んだのか、どうして死んでいるのか、怪訝な様子をしていたが、その隙を見逃す幸多ではなかった。
そして、幸多は、さっきと同じ方法でケットシーを撃破した。
大きな猫のような体躯を持ち上げ、大口を開けるケットシーの喉の奥に腕を突っ込み、魔晶核を破砕する。
それだけでケットシーは死亡する。
幻魔とは、そういう生き物だ。
なによりも堅牢強固な魔晶体は、己の心臓にして力の源たる魔晶核を護るための鎧であり、装甲なのだ。
幻魔は、魔晶核を中心とし、魔晶核を柔らかく包み込む内殻、その内殻を覆う外殻から成り立っているとされている。その外殻こそが魔晶体であり、魔晶体は核兵器すら通用しないが、内殻や魔晶核には、一切効果がないわけではなかった。
特に魔晶核は、幸多の握力で破壊できるほどに脆弱だ。
だからこそ、魔晶体がなによりも堅固に発達したというのは、理に適っているというべきか。
そして、それこそが唯一、幸多が幻魔に打ち勝つ方法だった。
魔晶体には傷つけられないが、魔晶核は破壊できる。
これまで、そうして幻魔を倒してきた。
ケットシーなど、何体倒したものかわからない。
幸多が二体のケットシーを屠っているころ、屋根上の戦いは、佳境に入っていた。
十数体いたケットシーは、もはや片手で数えるほどでしかなくなっていて、幸多が屋根上に飛び上がったときには、勝敗は決していると言って良かった。
わずかに生き残っていたケットシーたちは、氷の牢獄に閉じ込められていて、身動きが取れなくなっていたからだ。
そこへ、成井英太が大魔法を叩き込む。
「百陸式紅焔陣!」
四体のケットシーを閉じ込めた氷の牢獄、その真下の地面が紅蓮に燃え上がったかと思うと、巨大な火柱となって立ち上り、氷の牢獄を一瞬にして溶かし尽くし、ケットシーを灼き尽くしていく。幻魔の咆哮が響き渡り、魔力が拡散していくが、ごうごうと燃え盛る火柱の前では全てが遅すぎた。
なにもかもが灼き尽くされて、ケットシーの魔晶体すら残らなかった。
圧倒的な火力だった。
幸多は、さすがは魔法士だと、思わざるを得ない。
「成井小隊、幻魔災害の鎮圧を完了」
成井英太は、通信器を通して作戦部に報告する。報告するまでもなく認識しているだろうが、一応、念のために報告を忘れないのが、小隊長の務めだ。
「後の処分は幻災隊に任せるとして、だ」
成井英太は、通信を終えるなり、屋根上に集まった隊員たちの様子を見た。ほとんどが軽傷程度で済んでいる中、ただ一人、とても軽傷とはいえない、傷だらけの隊員が目に飛び込んでくる。
皆代幸多だ。