第百二十九話 初任務・皆代幸多の場合(三)
葦原市西稲区石堀町の町中を歩いて見て回る。
巡回任務とはそういうものだと、古大内美奈子が幸多に知っているだろうけれどと前置きをして、優しく囁くようにして教えてくれた。
なぜ彼女がそのように気を使うのかと言えば、成井小隊の一員である山中伊吹が、幸多に対して辛辣な態度を取り続けているからだろう。
幸多は一切気にしていなかったが、小隊長の成井英太と古大内美奈子は、気遣わざるをえないようだった。そして、幸多は、特に小隊を率いる成井英太の胸中を思うと、むしろ申し訳ない気分になった。
幸多が参加していなければ、まったく違った空気感だったのではないか、と思うのだ。少なくとも、山中伊吹がふて腐れることはなかったのではないか。
とはいえ、いつまでもそんなことを気にしている暇もないし、考えている場合でもない。
幸多は、古大内美奈子の後に続いて、成井小隊の最後尾を歩いていく。
石堀町のどうにも素朴な町並みの中を歩いていると、出くわす人々が導士たちに頭を下げたり、手を振って声援を送ってきた。そうした声に適切な反応を送るのも導士の仕事だ、と、古大内美奈子はいった。
「いつかきみもたくさんの声援を送ってもらえるようになるよ」
古大内美奈子のそうした言葉の数々は、新人導士である幸多を激励するためのものだろうし、実際、幸多は彼女の励ましに応えたいと思った。
巡回任務は、一日掛けて、担当地区を歩き回る。それはつまり、それだけ体力の要る任務だということでもある。
無論、常に歩き続けているわけではない。休憩時間もあるし、昼食も取る。
成井小隊は、何事もないまま昼間まで歩き続け、石堀町内の駐屯所で昼食を取った。
駐屯所は、市内各所、様々な場所に設けられており、そこには常に複数名の導士が待機している。近場で幻魔災害が発生した場合、すぐさま駆けつけるためだ。そのように駐屯所で待機する任務は、そのまま待機任務と呼ばれる。
駐屯所は、地上のみならず、央都地下鉄道網の各駅にも、央都大地下道各所にも、存在している。それら全ての駐屯所には、日夜幻魔災害の発生に備え、複数名の導士たちが待機任務についているのだ。
また、駐屯所は、巡回任務中の導士たちが休憩場所として利用することも考慮されており、成井小隊が駐屯所に入ると、同じ第七軍団の有島小隊が暇そうにしていた。
待機任務は、暇との戦いだ、と成井英太はいった。一日中駐屯所に籠もっているようなものだからだ。いつ何時幻魔災害が発生するわからない以上仕方がないことであり、この待機時間もまた、一種の訓練だと、古大内美奈子はいった。
有島小隊と雑談しながら昼食を終え、少しばかり休憩した後、再び巡回任務に出る。
そのころには、幸多は、古大内美奈子とすっかり打ち解けていた。古大内美奈子は、頼りになる先輩だったし、彼女も新人導士に色々と教えるのが楽しそうだった。
そんな二人の様子が気に食わないのか、山中伊吹が舌打ちすることもあったが、そのたびに成井英太が彼女を窘めた。さすがに小隊長には頭が上がらないのだろう。山中伊吹の態度も次第に軟化していった。
ただ町中を歩き回っているだけだというのに、精神的な面での消耗を強く感じるのは、常に気を張っていなければならないという意識があるからだろう、と、幸多は考える。
普通に歩くだけならば体力の消耗だけで済むし、この程度で消耗するほど柔ではないという自負もある。しかし、幻魔災害発生の兆候を一刻も早く掴み取らなければならないという考えは、幸多の神経を酷く疲れさせた。
巡回任務が必ずしも気楽な任務ではない、という古大内美奈子の教えを実感するようだった。
そして、成井英太が足を止めたのは、とある路地でのことだった。
民家が立ち並ぶ一角の路地裏。当然のように道幅は広く、軒を連ねる家屋は決して高くはない。民家以外の建物はないが、左手には広大な田畑が広がっている。
夏の日差しを浴びて燦然と輝くのは、無数の向日葵であり、それらが風に揺れる様は、季節感に満ちているといっていい。
そんな光景に目を奪われることなく、前方に注視したのは、成井英太だ。
彼は、広い路地の真ん中で丸まっている黒猫を見据えていた。一見するとただの黒猫だ。日光を浴びて輝く毛並みは美しいといっていい。決して大きくはないが、小さくもない。普通の猫だ。
しかし、この央都に野良猫などそうそういるわけもない。
かつて、地球上の動植物は死に絶えた。犬も猫も例外ではない。
そして、今現在、央都に存在する猫というのは、全て管理番号の割り振られたものだけだ。それら管理番号は、マイクロチップとして体内に埋め込まれているため、照合すれば何処の誰が飼っていた猫なのか、すぐにわかった。
育てるのが面倒だから、愛着がなくなった、などといって飼っている動物を捨てたものには、厳罰が待っている。
もっとも、成井英太が眼前の黒猫をただの猫ではないと断定したのは、そうした理由からではない。猫がこちらを見るためにわずかに目を開いたとき、その赤黒くも禍々しい眼球を確認したからだ。
それこそ、幻魔の目だった。
「成井小隊、幻魔の存在を肉眼で確認。これより掃討に取りかかる」
成井英太は、導衣の通信機能でもって、作戦司令部に報告する。
「獣級下位ケットシーだ。見た目に騙されるなよ」
成井英太がいうが早いか、隊員たちが散開する。
すると、猫に擬態していた幻魔も、こちらの意図に気づいたのか、素早く飛び退いたかと思うと、二本の足で地面に立った。全身から水気が飛散し、それらは無数の水球となった。
ケットシー。獣級下位に区分される幻魔であり、見た目通り猫に擬態して人間に近づき、油断したところを襲いかかり、殺戮する。水妖猫と言われるように水を操る能力に長けている。
「たった一体でしょ!」
山中伊吹が、怒声とともにケットシーに突っ込んでいく。ケットシーは飛び退きながら水球を撃ち出し、山中伊吹を迎撃したかに見えたが、水球が彼女に触れることはなかった。山中伊吹の周囲で凍結してしまったからだ。
伊吹の周囲には、冷気が渦巻いていた。
「いい囮だ、伊吹」
成井英太の冷徹な声とともに振り下ろされた炎の太刀が、ケットシーを背中から真っ二つに切り裂いたかと思えば、紅蓮の炎で燃やし尽くした。
「さすがは隊長、横取り上手」
「だから輝光級なんだよ」
「なるほど」
幻魔を討伐し、多少気分も上向いたのか、伊吹と英太が軽口を飛ばし合う。
そんな二人に対して忠告が飛ぶ。
「おいおい、そんなこと行ってる場合じゃあないぜ」
「多いぞ」
広尾真一と行常憲康が口々にいって指し示したのは、民家の屋根上だった。
いつの間にか民家の屋根上に黒猫の集団が集まっており、成井小隊を見下ろしていたのだ。いずれの黒猫も、双眸を見開き、禍々しくそして赤黒く輝かせている。
ケットシーの群れだ。
警報音が、先程からそこかしこで鳴り響いている。住民はとっくに避難を始めていることだろう。
「これほどの数のケットシーになんで気づかなかったんだ? 作戦部も情報局も、常に央都全体の魔素密度を計測しているはずだろ」
広尾真一が当然の疑問を口にすれば、行常憲康が苦い顔をする。
「さっきのケットシーもそうだが、なにかおかしい。不自然だ」
「幻魔が突然現れる事件は、これまで何度も確認されている。対抗戦の決勝大会でもあったことだ。原因は不明。だが、おそらくは奴らの支配者が送り込んできているんだろう」
「なんのために?」
「それは……」
成井英太は、部下からの質問に答えるべく考えながら、その場を飛び離れた。ケットシーが放った水球が地面に直撃し、小さな穴を穿った。人体に直撃すれば、怪我どころの話ではあるまい。
「人間が嫌いなんだろうさ」
屋根上のケットシーの群れは、いずれもが立ち上がっており、さながら人間のように腕組みして、こちらを見下ろしていた。
周囲には大量の水球が浮かんでおり、いまから狩りを始めようとでもいわんばかりだった。