第千二百七十七話 神流の火(十二)
神流にとって、神威は、まさに天に輝く星だった。
偉大なる英雄であり、大いなる魔法士にして、導士の中の導士たる神威に特別な想いを抱くのは、なにも神流に限った話ではない。魔導院に学ぶ魔法士の大半が、そうだ。魔法士の完成形とも究極形ともいわれるのが神威なのだから、当然の結果だろう。
神威は、戦団最高峰の魔法士であり、戦団の象徴ともいえる存在だ
綺羅星の如く輝くその存在は、双界全土を遥か上天から遍く照らしているといっても過言ではないのではないか。
「……それは、過言だよ」
苦笑交じりの大伯父の言葉は、神流の顔を綻ばさせた。
神威による魔導院での講義は、大反響の中で幕を閉じた。
神流は、神威の肉声で紡がれる言葉の数々が雷鳴の如く聞こえていたし、天の声そのものと受け取ったものだ。一言一句、耳朶どころか鼓膜を通り越して脳髄に刻まれている。
大講堂に集まった学生のほとんど全員が同じように受け取ったはずだったし、だれもが興奮状態のまま、つぎの授業に参加していたものである。興奮冷めやらぬとはまさにこのことだろう。
そして、その日のすべての授業が終わると、神流は、教官に声をかけられた。なにか問題でもあったのか、なにか失敗したのか。品行方正かつ成績優秀な神流は、なにか特別な理由でもなければ教官に声をかけられることなどはなく、故に様々な考えを巡らせたりしたが、杞憂だった。
教官に促されるまま理事長室に入ると、そこに神威がいた。思わず仰け反ってしまったほどの衝撃を受けた神流に対し、神威がなんともいえない顔をしたことは、終生、忘れないはずだ。
神威が理事長室にいたのは、神流と直接逢って話をするためだった。その事実を聞かされると、神流は、感動の余り泣き出してしまったものだから、狼狽えたのは神威だ。まさか、そんなことで彼女が大泣きするとは想像しようもない。
神威は、神流を泣き止まさせる方法も思いつかず、おろおろとしたものである。もしこの場に麒麟ら護法院の老人たちが居合わせていたらどうなっていたか。後々、神威は胸を撫で下ろしている。
やがて泣き止んだ神流は、神威の心配を他所にこういった。
「総長閣下と直接お話する機会が得られるとは、思いもよらず……」
「……そうか。そうだったか。だが、そう畏まらなくていい。これは公的な会見でもなんでもないんだ。ただの私事だよ。私用で、きみを呼びつけた」
「私用?」
「うむ」
神威は、静かに頷くと、神流の顔に弟の面影を見た。
神威にとって、実弟の神土は、必ずしも親しい存在ではなかった。肉親でありながら、血の繋がり以上の関係性がないといっても過言ではないくらいだ。記憶に残っているのも、わずかばかりのものでしかない。
というのも、神威は、統治機構の人体実験に捧げられたも同然の存在であり、そのすべての権利を統治機構によって掌握されていたからだ。神木家の人間というよりは、統治機構の実験動物だったのだ。
地上奪還部隊に参加したほとんど全員が、そうだ。
ただふたり、伊佐那麒麟と上庄諱だけがそうではなかったが、それ以外の全員が神威と同じ立場、同じ立ち位置だったのである。
異界環境適応処置の人体実験と、その成功を見ての地上奪還計画の立案、幻想空間を利用した魔法士の強化育成、そして、地上奪還作戦――。地上奪還部隊は半壊しつつも、リリスの〈殻〉バビロンを制し、央都の基礎を築き上げた。
そして、地上と地下は、分断された。
数十年の昔のことだ。
いまや、地上と地下の分断は過去のものと成り果てており、近い将来、双界の往来も自由になるはずだった。
そうなれば、神土も地上に上がってくるのだろうか。
いや、ありえまい。
神土は、異界環境適応処置を受けてはいないのだ。生身では地上に上がってくることはできないし、そうでないのなら、わざわざ央都を尋ねる理由はないと考えるのが、神土という人間だった。地上のことを、いまもなお、快く想っていないのだ。
神威も、そんな実弟の複雑な心中について、同情しないわけではないのだが。
「おれは総長だ。こういう場を強引にでも作らなければ、きみと話す機会も得られない」
「わざわざわたくしのために、この場を?」
「うむ。なんといっても、きみは神土の孫だからな」
一方で、神威の中の神土への感情というのは、この数十年で少しずつ、変化していた。当初こそ、己の両親や弟妹たちに対し怒りに似た感情さえ抱いていたのだが、時が流れ、年を取ると、相手の立場に立って物事を考えられるようになっていた。
神木家が統治機構に神威を差し出したのは、望んで、ではないという事実が明らかになった、ということも大きい。
同様に、地上奪還部隊の隊員たちのだれもが、神威と同じく、統治機構によって強制的に被検体となり、地上奪還作戦に組み込まれていたということが判明している。
つまるところ、統治機構は、地上を幻魔の手から取り戻すためならば、方法や手段など選んでいる余裕などはないという道理に従ったのだ。
道理。
そう、道理だ。
当時の統治機構の選択は、必ずしも間違いではない。
たとえ人道から大きく外れていようとも、地上奪還、人類復興という大願を成就することこそがなによりも重要であり、それ以外は些事だったのだ。
ネノクニの三十万の市民では、いずれ行き詰まり、行き止まる。
生きて、止まる。
それより先に未来はなく、あるのは暗澹たる絶望だけ。ならば、未来を切り開くべく、あらゆる手段を講じるべきだろう。そして、それが可能であるのならば、そのためにどれだけの犠牲を払おうが関係ないのだ。
無論、当事者の心情となれば、話は別だ。
神威は、統治機構の選択を理解したが、感情としては許容していない。
それは、ともかく。
神流である。
姪の神蘿から送られてきた彼女の成長記録の数々が、神威の神木家に対する心情を軟化させた一因だったのは間違いなかった。神蘿はただ愛娘を自慢するために送りつけてきたようだが、その親バカぶりこそが神威の心を解きほぐしている。
いま目の前にいるその立派な姿を見れば、感動もひとしおだ。
「だとすれば、お爺さまに感謝しなければなりませんね。いえ、もちろん、常日頃から感謝しておりますが」
「ふむ。おれも感謝しよう。きみがこうしてここにいるのは、神土や神蘿の教育の賜物なのだろうからな」
初めての会話。直接交わした言葉の数々。思いの丈をぶつけるにはいたらなかったものの、神流にとってとても満足感の高いものだったことは、間違いない。
いまもこうして思い出せるのだから。
そして、そう、〈星〉を視たのだ。
星央魔導院を卒業し、そのまま戦団に入った直後のことだ。
戦闘部第二部隊に配属された神流は、再び神威と直接話し合う機会を得た。そこで神威に弟子入りを志願すると、すぐさま幻想空間へと移動することとなった。
汎用訓練場と呼ばれる殺風景な幻想空間に、神威と神流のふたりきり。制服ではなく、導衣を纏う神威の姿は、威厳と圧力、迫力に満ち溢れていた。対峙しているだけで圧倒されかねないほどだ。
一方、神流も導衣を纏っていた。導士になったばかりで、導衣を身につけるのもこれが最初だった。だが、それでいい。
「神流。おまえがおれに一撃でも叩き込めれば、弟子入りを認めてやる。条件は、それだけだ」
「……はい」
神威の宣言に、神流は、覚悟と決意を込めてうなずいた。
神威は、大魔法士だ。長らく実戦から遠ざかっているものの、その実力を疑うものはいない。戦団最強にして、史上最大の魔法技量の持ち主。幻想空間に満ちた魔素が、神威の周囲に渦を巻く。魔素が魔力となり、魔力が律像を描いていく。
神流も、同じだ。全身の魔素という魔素を総動員して、これまでにない量の魔力を生み出す。そしてそのまま、律像を形成し、唱える。
「百参式・熱閃光」
神流が用いたのは、戦団式魔導戦技。掲げた両手の先に生じた火球から熱線を照射する攻型魔法は、瞬時に神威へと到達した――かに見えたが、しかし、熱線が貫いたのは残像。神威は、既に別の場所へと移動している。神流は、その影を目で追いながら腕を動かす。熱線は照射され続けており、神威を追いかけるのだが、追いつけない。
速度。
(これが閣下の戦闘速度……!)
神流は、圧巻としかいいようのない力量の差を実感したが、諦めなかった。諦められるはずがない。神威の弟子になるのだ。神威の弟子になって、その教えを請い、すべてを受け継ぎたい。無論、神威がそのすべてを伝授してくれるかはわからないのだが、しかし、そう願わずにはいられないのだ。
そのために、ここにいる。
神威の力になるために。
神威になるために。
「百漆式・灼光波!」
神流の全身から放出される灼熱の波動が、全周囲の広域に渡って灼き尽くすものの、やはり、神威を捉えるには至らない。神威は、ただ飛び回り続けているだけではない。ときには足を止め、神流の攻撃を誘導した。
数多の魔法が、空を切る。
だが、神流の魔法は、そのたびに洗練されていくようであり、神威は、感心せざるを得なかった。神流の魔法技量が並外れたものであることは、魔導院の成績からも明らかだ。
神流は、魔導院を首席で卒業している。
星央魔導院十三期において、頭抜けた魔法技量の持ち主というだけでなく、あらゆる面で頂点に君臨していたのが彼女だ。
そんな彼女だからこそ、半端なことはしたくなかった。
師弟制度が制定されてからというもの、神威に弟子入りを希望するものは後を絶たない。なんといっても、戦団最高峰の魔法士なのだ。もし、神威から手解きを受けることができれば、それだけでだれよりも強くなれるのではないか――そのような幻想を抱くものが少なからずいるのだろう。
優れた魔法士は、優れた師ではない。
が、優れた魔法士から学び取れなければ、意味がない。




