第千二百七十六話 神流の火(十一)
子供のころ、ずっと不思議だったことがある。
物心ついたときから、いや、きっと、それ以前から抱いていた疑問は、長ずるに従って大きくなっていった。胸の奥底に蓄積し、渦巻き、膨張していく。この双界の理に根ざした難題。
神流にとってそれは、自分という人間を成立させる重大な一要素だった。
「どうして、お爺さまは大伯父様と逢いたがらないのですか?」
彼女がその質問を最初に投げかけたのは、いつだっただろう。
神流の祖父、神木神土は、極々普通のひとだった。ネノクニのありふれた一市民に過ぎず、なにか特別な能力があるわけでもなければ、重要な役職についているわけでもない。ただ、日々を懸命に生きているだけの、一般市民。
そんな神土にとってただひとつ、他人とは違うことがある。
それが、神木神威の実弟であるという事実だ。
神木神威。
神土の実の兄であり、神流にとっては大伯父にあたる人物は、当時既に大英雄としてその名を轟かせ、双界に知らぬものなどいないくらいの存在だった。だれもがその名を知っていたし、だれもがその逸話や伝説を知っていた。戦団総長にして大星将。魔法士の中の魔法士であり、英雄の中の英雄――。
ネノクニを治める統治機構にとっても無視できない存在だった。
なんといっても地上奪還作戦を成功させ、人類の未来を切り開いた偉人なのだ。人類史上最高の英雄といっても過言ではあるまい。地上奪還作戦が成功しなければ、人類は、再び長い年月をこの地底の王国で過ごさなければならなかっただろう。
そして、なにより――。
「大伯父さまがかわいそうじゃないですか」
神流は、子供心にそのように想い、父や母に尋ねたものだ。そして、そのたびに父や母がどのような返答をすればいいのか、思い悩んでいたことをつい先日のことのように思い出せる。
きっと、両親にとっても同様の感情があったのだろう。
神土の神威への想いは、複雑極まりないものだ。
神威の立場からすれば、神土が感情を拗らせることほど身勝手なことはなかったはずだ。が、神土の立場からすれば、神威の振る舞いこそが身勝手そのものだといわずにはいられないのだ。
神威は、地上奪還部隊の隊長として地上に赴き、任務を完遂させたはいいものの、どういうわけか統治機構と対立、地上を我が物の如く支配した。その事実は、神土を始めとする神木家のネノクニでの立場を危うくしたという。当然だろう。神威は、神木家の代表として、地上奪還部隊に参加していたのだから。
もっとも、神威自身がそのように振る舞っていたわけではなく、統治機構が神威と神木家の繋がりを喧伝していただけだが。
そしてその後、神木家がネノクニ内でそれなりの立場になることができたのは、神威が圧倒的な権力者となったからにほかならない。
神威が地上の代表者であり、央都の支配者であるということは、つまり、統治機構総主と対等な立場だということだ。となれば、神威の生まれである神木家を丁重に扱うようになるのも、自然な流れだったのだろう。
神木家の立場は、神威の存在に振り回されていたといっても過言ではない。
神土が、神威に対して複雑な感情を抱くようになったのは、そういった経緯が関係しているのかも知れない。
もっとも、神流が神土本人に問い質したことはない。神土の前で神威の話題を出すのは、幼心にも憚られたからだ。
それほどまでに神土は、兄に対し、なにか特別な感情を持っている。
神流も、そうだ。
神流にとって神威は、英雄そのものだった。
地上を人類の手に取り戻し、いまなお魔界を切り開き続ける英雄の中の英雄。生きる伝説であり、未来への希望の光そのもの。上天に輝く星なのだ。
神流の記憶に鮮明に灼きついている出来事がある。
それは、神威との初めて逢ったときの記憶。
それが、始まり。
きっと、そうだ。
それがすべての始まりであり、原点であり、原風景に違いない。
彼女がネノクニから大昇降機を使って地上へ上がったのは、最初から戦団に入るためだった。それもこれも神威の力になるためであり、それ以上でもそれ以外でもない。
地上に上がり、星央魔導院に入学した彼女を待ち受けていたのは、優秀な魔法士たちとの切磋琢磨の日々だった。だれもが戦闘部に入ることを目指しているということもあり、入学時点で相当な魔法技量の持ち主ばかりだったのだ。
かくいう神流も、既に熟達した魔法の腕前を持っており、魔導院の教官だけでなく、戦団幹部からも目を付けられていた。
もちろん、神流が神威の姪孫だからということもあるのだが。
神威も、神流が魔導院に入学したことを知っていた。当然だろう。星央魔導院は、戦団が管轄する、導士養成機関だ。人手不足、人材不足は戦団が常に抱える悩みであり、特に戦闘部は人員を求め続けている。その解決策のひとつとして魔導院は誕生したといってよく、戦団最高幹部が入学希望者の中でも特筆するべき人材について知らない理由がなかった。
神流は、神木家の人間であり、神威の血縁ということで大いに目立った。魔導院十三期生の中でもっとも注目を浴びた存在だろう。
十三期生としてはもうひとり、伊佐那義流が名を馳せていたが、それは別の話。
また、神威は、神流が地上に上がってくるという話を姪・神蘿から聞いていたこともあり、大昇降機まで出迎えるのはどうか、と、麒麟らに提案されたこともあったほどだ。
神威と姪孫の出逢いの瞬間をどうにかして記録しようと考えているのであろう護法院の老人たちの戯言に対し、彼は、渋い顔をしただけだが。
とはいえ、姪孫である。
その名も顔も声も、知っている。
度々、神蘿から映像が送られてきていたからだ。
神威は、地上奪還作戦の地獄のような戦いの果て、ネノクニを支配する統治機構と対立、断絶に等しい状況に陥った。当然、己の血筋である神木家との関係も極端に悪化している。
父母や弟が、神威の血縁者というだけで酷い目に遭わされている可能性を考慮しないでもなかったが、とはいえ、地上の状況を考えれば、央都を統治機構に明け渡すという選択肢はなかった。
統治機構の横暴を容認すれば、自分たちはただの捨て駒だったと認めることになり、多くの同胞の死を、その最期を否定することになりかねない。
家族との関係の悪化は、哀しいことだが、仕方がない――そう、割り切っていた。
それから数十年が経ち、状況は変わった。
央都政庁と統治機構の関係は極端に良化しており、ネノクニにおける神威の名誉もまた、大いに回復していた。神木家の立場も激変したと聞いている。
だから、だろう。
神蘿が神威に連絡を寄越すようになり、神土に関する様々な情報を得られた。神土が神威に対し、複雑極まりない感情を抱いているという事実も、知った。
神流についても。
神蘿から送信される姪孫の記録映像を眺める時間は、神威の荒みきった心を癒やす時間であり、やがて、神威にとって神流が特別な存在になっていったのはいうまでもない。
そんな神威と神流が初めて出逢ったのは、神威が星央魔導院の教壇に立ったときのことだ。戦団総長ともあろう人物が教壇に立つことなど、年に一度あるかないかという大事件であり、その日、魔導院は天地を引っ繰り返したような騒ぎになったものだ。
もっとも、神威にとってそのような反応は慣れたものだったから、特別、どうということはなく、ただ、大講堂の神流を見ていた。
神流は、神威が教壇に立つ姿を目の当たりにして、ただただ感動したものだった。その目には、涙すら浮かべていた。
幼い頃より待ち望んでいた大伯父との出逢いがこのような形で果たされるとは想いも寄らなかったのだ。
戦団総長である。
そう簡単に逢えるとは考えていなかったし、魔導院卒業後、戦団に入り、階級を上り詰めたあと、待ち受けているものだとばかり思っていた。
だが、そうではなかった。
神流は、神威に直接、教えを学ぶ機会を得た。
神木神流、十六歳のことである。




