第千二百七十五話 神流の火(十)
第千二百七十五話
「本当に……ほんっとうに――うんざりするよ」
ベルフェゴールが心底嫌そうな顔をして、いった。同時に無数の鏡像が一体だけを残して消えて失せる。神流の鏡像。その瞬間、それまで矮小だった星象現界が超広域に展開し、無数の火砲が火を噴いた。凄まじい爆撃。閃光と爆音の乱舞が、世界を塗り潰す。
神流が、自身を護るために星域を駆使しなければならなくなったほどの猛攻。
「おれは……〈七悪〉に成るんだ。サタン様の言いつけ通り星将を殺し、それによって誓いを立て、〈七悪〉に相応しい悪魔であることを証明する……」
だのに、未だ、一人として殺せていないのは、どういうわけか。
ベルフェゴールは、渦巻く感情の赴くままにぎょろりと目線を巡らせ、星将たちを見た。神流は一体の鏡像と互角の戦いを始めており、万里彩は、ベルフェゴールに攻撃する隙を窺っている。本命は、幸多。幸多をベルフェゴールに叩きつける方法を模索しているのだ。
いずれ劣らぬ優秀な魔法士だが、所詮は人間だ。
鬼級幻魔が、悪魔が、互角の戦いを繰り広げるような相手ではない。
「……そのためにここにいる」
「だとしたら、残念でしたわね」
「うん……?」
「わたくしたちは、あなた如きに殺されるほど柔じゃありませんことよ」
「おれ如き……?」
「そう……あなた如き。たかが鬼級幻魔一体に差し出すほど、わたくしたちの命は安くありませんの」
万里彩は、ベルフェゴールの神経を逆撫でにするべく、言葉を選び、紡ぐ。鬼級幻魔は、強い個性とあくが強すぎるほどの個性を持つ。極めて感情的で、激情家が多いという事実は、星将たちに共有されている。
実際、ベルフェゴールは、感情を露わにしていた。己の不甲斐なさを呪い、人間如きに手間取っている現実に怒りさえ覚えている。
ならば、煽るだけだ。煽りに煽り、激情を誘発させよう。
万里彩の周囲には複雑にして高度な律像が構築されており、真言による発動を待ち侘びている。
幸多も、だ。
万里彩の攻撃に合わせて飛びかかる準備は万端だ。満身創痍だが、軽い傷は既に塞がり、折れた骨や内臓の損傷もどうにか押さえ込めている。源理の力が、致命傷をも欺瞞しているのだ。
まだ、戦える。
(いや、戦うんだ)
幸多は、両手の拳を握り締めることで覚悟をさらに深めた。その目は、ベルフェゴールだけを見ている。神流のことは心配する必要がない。星将だ。そして、その星象現界・銃神戦域は、攻防ともに極めて優秀な魔法である。事実、神流が自衛に専念する限り、掠り傷ひとつつけられていない。
ただし、幸多に意識を割けば、それだけで大きな隙を曝すことになり、その結果、致命的な痛撃を受けかねないようだが。
だからこそ、幸多だ。幸多が、この戦いの鍵を握っている。
悪魔の右胸に刻んだ僅かな傷痕。決して復元することのできないその傷痕こそが、幸多がここにいる理由。ベルフェゴールがいままさに怒り狂っている原因。
「わたくしたちが命を灼き尽くすのは、人類がため。人類復興の悲願のため。幻魔殲滅の宿願のため。鬼級一体如きに費やすわけには参りませんのよ」
「は……よくいう。鬼級一体如きとやらに星将が命を落とした事実を忘れているわけではないだろう……? おまえたちはここで死ぬ。人類復興の悲願も、幻魔殲滅の宿願も、果たすことなく」
万里彩の力強い宣言に対し、ベルフェゴールは口の端を歪めた。翼を大きく広げ、風気を渦巻かせる。どす黒い竜巻が複数、ベルフェゴールの前方に発生した。それらは周囲一帯の大気を掻き混ぜることによって膨大化し続け、あっという間に戦場を飲み込んでしまった。
危うく吹き飛ばされるところだったが、万里彩の魔法が間に合っている。
「百渦繚乱」
万里彩の星装、木花開耶姫を彩る無数の花弁が大輪の花を咲かせたかと思うと、色鮮やかに舞い踊り、幸多を中心とする魔法の結界を構築する。それによってベルフェゴールの竜巻を相殺、幸多の背中を押した。踏み出す。
花弁の結界に包まれたまま飛び出した幸多は、幾重もの竜巻の層を貫き、ベルフェゴールに肉迫した。鼻息すら届く距離。悪魔が目を見開く。
幸多が振り抜いた拳が貫いたのは、ベルフェゴールが瞬時に前方に展開した翼。飛膜に穴を開けたはいいが、つぎの瞬間、翼が触手のように変化し、幸多の腕に絡みついた。そのまま幸多の全身を拘束していく。
「桜時雨!」
「無駄だ……」
突如降り注いできた破壊的な豪雨だったが、ベルフェゴールの触手を打ち砕くには至らない。触手は既に幸多を取り込み、さらなる変化を遂げていた。翼から触手へ、触手から棺へ。幸多を封じ込めるためだけの棺。それは、幸多の全身を完全無欠に掌握し、身動きひとつ取れなくする代物だった。足掻くことも藻掻くこともできず、ただ、圧迫されるのを認めるしかない状況。幸多の視界は、暗黒の深淵を見ている。
悪魔は、その棺を目の前に配置すると、触手を切り離した。翼を復元するも、飛膜に穴が空いている。情報の欠如は、このように肉体を変異させても変わらない。
だからこそ、ベルフェゴールは幸多を相手にするのではなく、封殺することとしたのだ。
「もはや……おまえたちに万にひとつの勝ち目もない……」
「皆代輝士を封じ込めれば、それであなたの勝利は決定した、と……そう仰りたいのですか? だとすれば随分、人間を見くびっておいでのようですわね」
「当然だろう……おれは悪魔だぞ。人間如きとは出来が違うんだ……が……」
「が?」
「それだけじゃあない……もはや……我慢の限界だ……!」
ベルフェゴールの双眸から赤くもどす黒い光が溢れ出たかと思うと、神流の眼前から鏡像が消えた。鏡像の銃神戦域も消滅し、神流は透かさず万里彩に合流する。
「おれは……おれは、ベルフェゴール。〈七悪〉に相応しき悪魔が一柱。たかが人間如きに後れを取る謂われなど、ない……!」
神流と万里彩は目配せだけで、ベルフェゴールへ集中攻撃を行った。銃神戦域による一斉射撃、木花開耶姫による星神魔法の乱打。火と水。相反する属性の魔法攻撃がベルフェゴールへの衝突とともにぶつかり合い、反発による爆発を引き起こす。天地をも震撼させる超爆発。
だが、そんなもので悪魔を滅ぼせるはずもない。
そんなことは、わかりきっている。
それでも、攻撃の手を止めるわけにはいかない。手を止めれば最後、ベルフェゴールの思惑通りに事が進むだけだ。
既に幸多がベルフェゴールに囚われ、こちらの戦術は頓挫した。星将たちが隙を作り、幸多をぶつけるという戦術。一刻も早く幸多を解放しなければならないが、そのためには、ベルフェゴールの気を逸らす必要がある。
そのベルフェゴールは、星神力をさらに増大させている最中であり、その魔素質量たるや、星将たちが唖然とするほどのものだった。そして、
「〈怠惰〉」
ベルフェゴールが発したのは、真言。
それまで神流と万里彩の視界を塗り潰していた爆光が忽然と消滅し、爆音も消え去った。訪れたのは、静寂。限りなく無音に等しい状況。その中に現れるのは、異形の怪物。
異形。
そう、異形だ。
全長三メートルほどか。ぼさぼさの頭髪は全身を覆うほどであり、その中から突き出す二本の角は、体積の半分に等しいほどに巨大で、捻れ曲がっている。筋肉質な全身には白黒の斑点模様が浮かび上がっており、背中からは三対六枚の翼が生えていた。その翼のひとつに穴が空いているが、幸多が付けた傷痕であろうことは疑うまでもない。
右胸にも、同様の穴がある。情報の欠損を示す空洞。永遠に埋めることのできない絶対の空白。
つまり、人間に極めて酷似した姿形をしているという鬼級幻魔の特徴を否定するかのような姿形のそれが、ベルフェゴールの変異したものだということだ。
美形とすらいって良かった顔立ちも、伝承上の悪魔そのものの異形と化しており、全体として怪物めいていた。鼻息も荒く、それだけで周囲の大気が唸りを上げた。
「あれは……ベルフェゴールの本当の姿とでもいうのでしょうか……?」
「いえ……おそらく、星象現界でしょう」
神流は、万里彩の疑問に静かに告げた。
「それも、星髄に至った――」
ふと、脳裏を過るのは、過去。
自分が〈星〉を視たのは、いつだったか。




