第千二百七十四話 神流の火(九)
「大丈夫ですか? 皆代輝士」
「は、はい。なんとか……」
「……とてもそうは見えませんわね」
万里彩は、幸多のすぐ目の前に降り立つと、その様子に顔をしかめた。見るからに重傷なのだ。痛覚遮断機能のおかげでなんとかなっているだけで、本来ならば即時即刻、全力で回復に務めるべきだ。
万里彩は攻手であり、攻型魔法を得意とするものの、導士の務めとして全型式の魔法を修めている。普通ならばこの程度の傷など立ち所に癒やしてしまえるのだが、しかし、彼は例外である。
完全無能者は、直接的な魔法の恩恵を受けることができない。
たとえば、防型魔法による魔法障壁など、間接的に発生する魔法の恩恵は受けられるのだが、人体そのものに作用する魔法は、一切、まったくもって効果がないのだという。
いままさに万里彩が前方に構築した巨大な水の壁は、前者だ。幸多の肉体に直接作用しないが故に、彼の身を守ることができる。もっとも、そんなものは悪魔の攻撃の前に容易く破壊されてしまうのだが。
ないよりはましな、保険程度の防型魔法。
そして、その透明な水の壁の向こう側で、悪魔が立っている。二本の足で地上に立つ悪魔は、自分の右胸を見ているようだった。そこに穴がある。先程まではなかったはずの空白。悪魔の再生能力ならば容易く塞がってしまうはずの傷痕は、しかし、どういうわけか残り続けている。
「……皆代輝士の攻撃、通ったようですわね」
情報子とやらの性質はまだほとんど解明されておらず、技術局が全力を上げて研究中なのだが、悪魔や天使に効果的なのは確かなようだ。
星象現界、星神魔法による攻撃を受けても、竜級幻魔の攻撃を食らっても、決して滅び去ることはなく、再生し、復活する特異なる幻魔たち。幻魔の究極形、あるいは完成形とも呼べるような存在。そのようなものが、なぜ、いつ、何処で、どのように発生したのかもわからないし、どうして〈七悪〉が揃うまで人類殲滅に動き出さないのか、まるで理解できないが、それはいい。
重要なのは、決して滅ぼすことのできない存在ではないという事実だ。
ベルフェゴールの右胸の空白。
それこそが幸多の攻撃が通った証。幸多の情報子が、悪魔の情報子と衝突し、対消滅を起こした結果。
つまり、幸多は、対悪魔の切り札になり得る。
万里彩の確信は、神流の確信でもあった。
神流は、大量の鏡像に包囲されていた。神流を模した鏡像ばかりであり、それらは、個々に銃神戦域を展開している。ただし、鏡像の数だけ能力も低下しており、星象現界の規模もまた、遥かに小さなものになっていた。つまり、鏡像の半径数メートル程度の範囲が、それぞれの星域なのである。
近づかなければ、鏡像の星域に撃たれることはない――ということだが。
『数の多さは、そのまま力になる』
神流の脳裏を過ったのは、師の声。
(仰るとおりです)
神流は、ベルフェゴールが動き出すのを認めつつ、鏡像への斉射に意識を割かざるを得なかった。鏡像一体の戦闘能力は低くとも、黙殺できるほどでもないのだ。集中攻撃を受ければ、星将といえども大打撃を受けかねない。
そして、この大量の鏡像を相手にするのであれば、万里彩よりも神流が適任だ。互いに攻手であり、攻型魔法を得手としているが、中でも範囲攻撃は神流の得意分野だ。星域内の敵すべてを標的とし、同時に攻撃することを可能とする銃神戦域だからこそ、数千体はいるであろう鏡像をも圧倒できるのだ。
そして、万里彩ならば、幸多を補佐し、ベルフェゴール打倒の好機を作り出すことも可能に違いないという判断があった。
本来であれば星将ふたりでベルフェゴールを攻撃し、隙を生み出すべきだが、そういうわけにはいかない。
神流の鏡像は、無尽蔵に生み出され続けている。
ベルフェゴールの星象現界・堕落せよ我が世界は、いまもなお、稼働中なのだ。
(ですが、物量が物をいうのであれば、数が勝敗を決めるというのであれば、人類に未来はなし。そしてそれが厳然たる事実であるというのであれば、わたくしたちはなんのために戦っているというのでしょうか)
『――決まっている。未来のためだ』
(もちろん、わかっています、師匠)
神流は、脳内に響く神威の声に頷き、鏡像を撃ち抜いていく。鏡像は、神流を己が射程に収めるべく、全速力で接近しつつ、攻撃魔法を撃ち放ってくる。それら攻撃魔法は、神流が編み出したものとは違った。属性こそ同じ火だが、ただ火球を投げ放つだけのものや、熱線を照射してくるだけのものばかりだ。
鏡像は、完璧に再現しているわけではない。
見た目も、星象現界すらも再現しているが、それらはベルフェゴールが取得した情報に基づくものであり、未知の部分は再現されないようだった。
不完全かつ不安定な鏡像を相手に神流が出し抜かれる理屈はない。全銃口、全砲門から銃弾や砲弾を乱射し、並み居る鏡像を爆砕していく中、彼女が考えるのは、ベルフェゴールをどう出し抜くかということ。
ベルフェゴールは、一足飛びに大水壁を飛び越えたかと思うと、眼下の幸多に向かって魔法を放った。
「滅風」
無数の真空の刃が雨のように降り注ぎ、既に壊滅状態の大地をずたずたに切り裂いていく。その中に幸多も万里彩もいない。ベルフェゴールの視界を青白い燐光が掠めた。目で追う。
幻魔の目は、魔素を視覚的に認識するためのものだ。魔素は、動態魔素と静態魔素の二種類に分けられる。動態魔素とは、動的性質を多分に含む魔素のことであり、生物の肉体を構成する魔素はこれである。静態魔素は、静的性質、つまり非生物の魔素のことだ。
では、幸多はどうか。
幸多は、魔素を持たない。ベルフェゴールが幸多と認識する魔素は、彼が身に纏っている防具に宿る静態魔素である。
もっとも、幻魔本来の視覚ではなく、物質世界に対応した視覚へと切り替えれば、幸多の実際の姿を認識することも不可能ではなかったし、ベルフェゴールも瞬時にそのようにした。
でなければ、幸多を目で追うことなど不可能だ。
それほどの速度。
(いや……そんな馬鹿な……ありえないだろう……)
ベルフェゴールは、視界を掠めた燐光の源に幸多を発見し、彼が万里彩を抱えるようにしている様を目の当たりにした。万里彩の両腕が、こちらに伸ばされている。手の先に凝縮しているのは、超高密度の魔素。星神力。輝きは星々の如く――。
(成長しているとでもいうのか……?)
それも、急激に。
「天威白百合・繚乱」
万里彩の真言が星神魔法の発動を促したかと思うと、ベルフェゴールの意識を極彩色の洪水が飲み込んでいった。悪魔の肉体をも容易く打ち砕く、極めて破壊的で暴力的な洪水。空中で起こったそれは、周囲一体の魔素を掻き混ぜ、水気を増幅、何度となく渦巻いて破壊の連鎖を紡いでいく。
幸多の目は、まばゆい洪水の中に蠢く悪魔の姿を捉えていたし、その双眸が幸多だけを見据えているのも認識していた。
万里彩の必殺魔法が魔晶体を徹底的に破壊していくが、決定打にはなり得ない。そんなことは、万里彩にだってわかっている。
これは、ベルフェゴールの虚を突くための戦術に過ぎない。
なんとしでも虚を突くのだ。隙を作り、意識の外から攻撃を叩き込む。それも致命的な部分に、決定的な一撃を。そうでなければ、悪魔を滅ぼすには至らない。
そしてそれができるのは、この世でただひとり、幸多だけだ。万里彩は、幸多が全力を発揮できるための舞台を整えようとしているだけに過ぎない。
それは、いまではない。
この破壊の渦の中には、飛び込ませられない。
「絶風」
ベルフェゴールがその翼を最大限に広げ、旋風を巻き起こすことによって、天威白百合・繚乱から逃れると、その風の行く先を幸多へと向けた。だが、幸多には届かない。火線が遮ったのだ。
ベルフェゴールは、神流を睨み、その周囲で撃破され続ける鏡像にうんざりした。
無能な兵は、どれだけいても意味がない。




