第千二百七十三話 神流の火(八)
「反省し、心を入れ替えよう……」
ベルフェゴールの言葉に感情など籠もっているはずもなく、頭上に掲げられた右腕が鋭く振り下ろされると、猛然たる突風が幸多を襲った。幻魔が自省するなど考えられるわけもないし、この激戦の最中、そのようなことを口にするわけがない。
言葉は、真言。
魔法を発動するための儀式に過ぎず、空疎な言葉を並べ立てただけだ。
そう確信したのは、万里彩。
「昇蓮華!」
降ってくる突風に対し万里彩が放ったのは、上昇する激流。それはまるで大輪の蓮華のように花開き、咲き誇る。そして、幸多の頭上で黒き突風と衝突、爆散した。吹き荒ぶ水気と風気のせめぎ合いの中、幸多は、踏み出している。満身創痍だが、そんなことに構っている場合ではない。
魔法士ではないし、魔法の恩恵を受けられる身の上ではないのだ。治癒魔法を期待してはいけない。完全無能者だ。星将たちの極めて優秀な治癒魔法を受けることができないというのは、それだけで損失といえたが、どうしようもない。
こうして、生きてきた。
どれだけの大怪我をしても、どれだけの大病を患っても、生死の境をさ迷うような状態に陥ろうとも、魔法によって傷を癒やされることもなければ、病巣を取り除かれることもなかったし、命を救われるようなこともなかった。
いまや全人類がその恩恵を受けている魔法医療も、幸多にしてみれば大したものではない。最新型の医療機器も、幸多の肉体を完璧に治療するには程遠いのだ。それらは、魔法士のため――普通の人間のために研究され、誕生した技術や開発された機材の数々である。幸多の特異体質は、そうした人類の研究成果、英知の結晶を拒絶するものだった。
一方で、こうして今日まで生きてこられたのも、人類の知恵のおかげであることは否定しようがない。
どうにか生まれ落ちることができたのも、この魔界の環境に順応できるようになったのも、すべて。
(この力も?)
幸多は、全身を脈打つ青白い燐光が視界を掠めているのを認識していた。蒼煌練気は、全身の情報子を喚起し、総動員することによって身体能力を極限まで引き出す技だ。情報子と魔素の摩擦によって生じる青白い燐光が、体中、あらゆる箇所を巡っている。
網膜の内側にもだ。
火花が、散っている。
細胞という細胞が熱を帯び、血液が逆流し、沸騰し、最大限に活性化している――そんな感覚。
この情報子制御能力、源理の力は、幸多自身の生まれ持った能力なのか、それとも、幸多を生かすために注入された大量の超分子機械の機能によるものなのか、いまだ判然としていない。
超分子機械は、赤羽亮二の個人的な研究所で開発され、秘密裏に注入されたものだ。それが唯一幸多を生かす方法であり、この魔界に順応させるための手段であったというのに、なぜ、赤羽亮二が幸多の両親にさえ隠していたのかはわからない。
赤羽亮二は、幸多の両親にとって、いや、幸多自身にとっても救い主としか言いようのない存在だ。完全無能者として生まれ落ちた幸多がこの魔素に満ちた世界で生きてこられたのは、すべて、赤羽亮二の天才的な頭脳と発明のおかげであることは、だれにも否定のできない絶対の事実なのだから。
赤羽亮二でなければ、幸多を母胎から取り出し、生かすことなどできなかっただろう。生まれた瞬間、魔素圧によって肉体を破壊され尽くし、死亡したに違いない。だが、赤羽亮二の頭脳は、幸多を誕生させた。
その直後、幸多が閉じ込められることとなった小さな培養槽は、それこそ、体内に注入された超分子機械がその小さな小さな赤子の体をこの世界に相応しいものへと作り上げていく時間を稼ぐための代物だった。そして、あの培養槽から取り出されたとき、幸多は、本当の意味で誕生することができたのだ。
だから、超分子機械が注入されていたことが判明したあとも、幸多が赤羽亮二に感謝こそすれ、否定的な感情を抱くことなど一切なかった。あるとすれば、ただ、説明しておいて欲しかったということくらいだ。
その事実を知っていたからといって、幸多の人生になにか大きな変化があったかといえば、なかったはずなのだ。体内を巡る大量の超分子機械の存在を認識していたところで、幸多がそれを活用できるはずもなければ、恩恵は既に受けているのだから。
最初から、ずっと。
右手を握り締め、拳を作る。指の間から電光が漏れた。青白い光の粒子が、魔素との反発によってばちばちと音を立てる。
銃撃、砲撃、爆撃――銃神戦域の一斉射撃がベルフェゴールの生み出す大量の鏡像を破壊し続け、ベルフェゴールの攻撃魔法には、万里彩の星神魔法が対応する。いずれも強力無比な攻撃の数々。幸多の立ち入ることのできる領域ではない。
だが、征く。征かねばならない。
地を蹴り、飛び出せば、ベルフェゴールの懐に潜り込んでいる。一瞬。ほんの一瞬の出来事だ。
「いったはずだ」
ベルフェゴールの双眸が鈍い光を発し、幸多が繰り出した右腕があらぬ方向にねじ曲がった。蹴り飛ばされたのだ。
「猛省している、と」
さらに凄まじい衝撃が幸多の左脇腹を貫く。そのまま吹き飛ばされながら、肋骨が折れ、内臓がすたぼろになったことを認識する。だが、痛みはない。闘衣が痛覚を遮断してくれているからだ。闘衣が完全に失われれば、その機能も失われてしまう。そうなれば、最後だ。復活した痛覚がショック死さえ引き起こしかねない。
「幸多!」
叫びは、神流。
幸多への追撃として黒い突風を起こしたベルフェゴールに対し、大量の銃撃を浴びせて見せたのだ。銃弾が魔力体を撃ち抜き、爆散させれば、激流の渦が悪魔を飲み込む。万里彩の星神魔法・葵渦。
「うむ」
ベルフェゴールは、当然のように大気を逆巻かせ、万里彩の星神魔法を対処すして見せると、幸多がどうにか起き上がる様子を見た。ベルフェゴールの蹴りを食らって右前腕の骨は完膚なきまでに破壊され、左脇腹の傷口からは血が流れている。肋骨を粉砕、内臓も破壊した。
満身創痍どころの騒ぎではない。
瀕死の重傷。
それなのに、幸多は立っている。その目に宿るのは、ベルフェゴールへの明確な敵意であり、殺意だ。悪魔を斃し、滅ぼそうとする意志。どれだけ重傷であろうとも戦えるのであれば、問題はないといわんばかりだ。瞳の奥に情報子が輝いている。
星のように。
「サタン様が重要視されるだけのことはある……気に食わないが……」
とはいえ、だ。
「仕方がない。さっさと役割を果たそう……獄風」
ベルフェゴールは、左腕を掲げ、魔法を放った。前方広範囲を薙ぎ払う紫黒の暴風。当然のように万里彩が反応し、水の防壁を形成した。幸多を護るためだ。神流は鏡像に集中しなければならない。先程、ベルフェゴールに注意を割いたため、痛撃を食らってしまった。肩や太腿を撃ち抜かれている。幸い致命傷にはならなかったが、つぎはどうか。
一瞬でも気を逸らせば、致命的な結果になりかねないのは、だれもが同じだ。
ベルフェゴールですら、そうだ。
同じ土俵に立っている。
「まったく……困ったな……」
ベルフェゴールの、右の胸辺りの感覚が、ない。
見れば、僅かに抉れているのがわかる。情報の欠損によって生じた空白。魔晶体が傷つけられたのとはわけが違う。それは二度と復元することのできない、絶対の欠如であり、永遠の空白である。
今し方、幸多が全速力で殴りつけてきた、その結果だ。
ベルフェゴールは蹴り飛ばすことで対応したかと思えたのだが、幸多の拳がわずかに胸に触れていたようだ。拳に込められた情報子が、ベルフェゴールの情報構造体を破壊したのである。わずか一瞬。ほんの少し接触しただけだ。
だが、それが致命的だ。
これから先、ベルフェゴールが〈七悪〉に成ろうとも、この右胸の欠損が埋まることはない。
未来永劫、穴が空いたままだ。
幸多は――。
「それは……ずるいんじゃないか……?」
ベルフェゴールは、幸多の左脇腹の傷口が塞がっているのを見て、いった。ベルフェゴールの打撃も、当然、情報子が込められている。情報構造体を削り、その部分を永遠に失わせる攻撃。だが、幸多は、人間だ。高次情報知性体とでもいうべき悪魔や天使とは根本からして構造が違う。
故に、幸多の情報を削り取ることができない。
幸多が、悪魔と天使の天敵たりうる部分が、そこにある。




