第千二百七十二話 神流の火(七)
「鬼級一体とはいえ、相手は悪魔。本来ならばわたしか火倶夜のどちらかが救援に向かうべきだが……」
「状況が許すのなら、そうね。あなたの意見は採用されるべきだし、望み通り、あなたが向かうべきなのよ」
「望み通り?」
「じゃない?」
「……状況は、許さない」
「そうよ。だから、こんな軽口だって叩いている場合じゃない」
「わかりきったことを」
「わかってるわ。わたしは、あなたのお姉ちゃんだもの」
「なにを――」
『魔素質量の爆発的な増大を確認! 鬼級です!』
美由理が思わず顔をしかめたとき、情報官からの警告が脳内を貫いた。凶悪な地鳴りが響き渡る中、足元の地中から鋭利な岩石が無数に突き上がってくる。凄まじい魔素質量。強大無比な魔力の胎動。破壊的としか言いようのない攻撃魔法――鬼級幻魔の攻撃なのだから、当然だろう。
ふたりは、辛くもその場を飛び離れ、難を逃れたものの、周囲一帯が壊滅した。地霊の都、その複雑怪奇としか言いようのない都市構造そのものに致命的な打撃が叩き込まれたのではないかと思うほどの大魔法だった。
ただし、人間の魔法技量ならば、だが。
鬼級幻魔にしてみれば、児戯に等しいのではないか。
「うふふ……姉妹愛だの家族愛だの、愛が好きよねえ、人間って。なんの意味もなく、形もなければ価値もないものに縋るのって、最高に無様って感じだけれど、でも、それが人間っていうものよね。そのまま神にでも縋りついて死に絶えればいいのに」
それは、遥か高みから見下ろすようにして、いった。
人間に極めて酷似した姿態を持つ幻魔。鬼級幻魔である。人間の美的感覚を以てしても美しいといっていい容貌の持ち主であり、小顔で、高身長。長く艶やかな黒髪、透き通った白い肌は透明感があり、切れ長の目は禍々しい紅が、唇には朱が差している。身に纏うのは絢爛豪華な衣。無数の帯が、その膨大な魔力に揺れていた。
それが、この恐府東部に横たわる地霊の都の領主たる、地魔将クシナダであることはだれの目にも明らかだった。
クシナダに関する情報は、オベロンから提供されている。オトロシャに支配され、戦団と接触することによって内情を探ろうとしたオベロンは、そのために必要な情報を提供していたのである。その情報の大半が真実であるということは、今作戦の中で明らかになっていった。恐府の構造、各方面軍の実情、三魔将の外見、能力――オベロンが戦団にもたらした情報のほとんどすべてが正しかったのだ。
オトロシャに操られていたはずのオベロンが、オトロシャに不利な情報を流す理屈はないし、戦団側がその情報の真偽を確かめる術も存在しない以上、偽の情報が多分に混ざっていたとしてもおかしくはないはずなのだが、そうではなかった。
オトロシャが戦団を見くびっていたからなのか、余程、己の力に自信を持っているからなのか。あるいは、その両方なのか。
いずれにせよ、戦団は、この大作戦の最中、オベロンの情報の価値を改め、恐府各地に展開中の各軍の戦術に大いに活用することとした。
そうした情報のひとつが、三魔将最後の一体、地魔将クシナダの外見と能力だ。地魔将というだけあって、地属性を得意属性とする鬼級幻魔であり、事実、その周囲には地気が満ちていた。
これは、雷魔将トールの星象現界・雷霆神宮殿がその影響範囲を恐府全域にまで広げ、破壊的な稲妻の雨を降り注がせることによって、地霊攻撃軍を防戦一方に追い込んでいるまさにそのさなかの出来事である。
クシナダは、トールの星域が拡大したことを好機と見たのだろう。
実際、地霊攻撃軍は、トールの星域とクシナダ軍の挟撃ともいうべき苦境を耐え凌ぐ必要があり、護りを固めていた。トールの雷雨が止まない限り、攻勢に転じることはできない。そのような行いは勇気などではありえず、無為無策の自殺行為にほかならない。故に防型合性魔法を張り巡らせ、防御陣を敷いていたのだが。
そんな状況下、クシナダが登場したとあれば、戦況がさらに悪化するのは当然の結果だった。
地霊攻撃軍は、第一、第七、第十の三軍団から選りすぐりの導士が集められている。が、最高戦力たる星将は、第七軍団長・伊佐那美由理、第十軍団長・朱雀院火倶夜の二名だけだ。
第一軍団長・相馬流人が戦死したばかりだ。第五軍団のようにつぎの軍団長が抜擢されておらず、副長の一色雪乃が代行を務めている。一色雪乃の実力は、副長を任されているだけあって極めて優秀だが、星将には程遠い。
美由理と火倶夜とともにクシナダに当たるには、あまりにも物足りないのだ。
故に、クシナダに対応するのは、美由理と火倶夜のふたりだけにならざるを得ない。
副長や杖長たちには、地霊攻撃軍の護りを固めてもらうという重要な役割があり、死傷者をひとりでも多く減らすためにこそ、彼らに踏ん張って貰わなければならない。
無論、美由理たちも、だ。
しかも、幸多を黒禍の森へと送り届けたばかりだ。悪魔ベルフェゴールを斃すには、どう足掻いても幸多の力、異能が必要だからだが、美由理としては気が気ではなかった。とはいえ、目の前の鬼級を捨て置くことなど、万が一にもあり得ない話だ。そんなことをすれば、地霊攻撃軍が全滅する可能性がある。
火倶夜は、戦闘部最高火力と謳われる、戦団最高峰の攻型魔法の使い手だ。火倶夜の星象現界・紅蓮単衣鳳凰飾は攻撃特化の星装であり、鬼級幻魔にも十二分に通用する破壊力を誇る。
いままさに、火倶夜の攻型魔法が火を噴いていた。文字通り――。
「紅翼天翔!」
全身から紅蓮の炎を噴き出し、凄まじい速度でクシナダへと突貫した火倶夜は、まさに燃え盛る火の鳥そのものだった。大気中の魔素を灼き尽くし、火気を膨大化させ、すべてを圧倒していく。
美由理の視界が紅く塗り潰される寸前、クシナダが目を見開いたのが見えたほどだ。
それほどの大火力が炸裂し、超爆発が起こるも、クシナダを滅ぼすには足りないのだろうという確信が、美由理にはあった。
雷雲が唸り、稲妻が雨の如く降り注ぐ。
美由理の背後に浮かぶ白銀の月が、輝きを増した。
鏡像は、万能でもなければ、付け入る隙がないではなかった。
というのも、ベルフェゴールが鏡像を増やし続けた結果、一体一体の能力が極端に落ち始めたからだ。
鏡像が二体だったときには相殺し合っていた星象現界の攻撃だが、いま現在、神流のほうが圧倒的に上回っているのだ。一体に攻撃を集中させるまでもなく、全周囲への斉射だけで鏡像を制圧できている。
神流の星域が、ベルフェゴールの生み出す大量の鏡像を撃滅し続けているのである。
それによって生じるのは、万里彩が自由に動けるという状況。
神流の星象現界・銃神戦域は、空間展開型。この広域に構築された魔法の結界は、範囲内の敵味方を識別し、敵だけを自動的に攻撃し続ける優れものだ。そこに術者の、神流自身の意志が加われば、鬼に金棒である。神流の斉射は、つぎつぎと出現する鏡像が攻撃に転じる間も与えず、撃ち抜き、破壊していく。
そうなれば万里彩に出る幕はない。
万里彩は、幸多の支援に専念すればいいというわけだ。
そのためにこそ、神流が率先して鏡像の制圧に乗り出したというわけなのだが、示し合わせたわけではなく、まさに阿吽の呼吸だった。常日頃、意見を戦わせ、修練をともに繰り返してきた星将だからこその、言葉を必要としない戦術の構築。
ベルフェゴールとの戦いは、如何にして幸多をぶつけるかだ。
星象現界も星神魔法も、悪魔型幻魔であるベルフェゴールには、通用こそしても、決定打にはならない。致命傷どころか掠り傷にすらならないといっていい。悪魔を滅ぼすには、現状、幸多の異能・源理の力に頼らざるを得ないのだ。
青白い燐光を帯びた幸多が神速で飛び回る様は、彼が美由理との訓練で培ったものなのだろうことは想像に容易い。身体能力ではベルフェゴールのほうが上だが、しかし、幸多が食い下がれているというのは驚きを禁じ得ない。
彼は、魔法不能者だ。しかも、魔法の恩恵をほとんど受けることのできない、魔素を持たざる完全無能者なのだ。
これまで数多の幻魔を撃破してきたという事実だけでも驚嘆に値するのだが、万里彩の目に映る彼は、鬼級とも戦えている。食い下がっている程度ではあるが、戦闘にはなっている。
つまり、戦力として十分に数えることができるし、当てにしてもいいということなのだ。
「茜波!」
万里彩は、突風によって吹き飛ばした幸多への追撃を行おうとするベルフェゴールに向かって、多重の波を起こした。茜色の津波は、ベルフェゴールの進路上に突如として出現し、悪魔を飲み込もうとする。
「まあ……なんだ……」
ベルフェゴールは、表情ひとつ変えない。つまり、気怠げで、憂鬱そうな顔のまま。
「おれが悪かったよ……」
ベルフェゴールが軽く右手を掲げると同時に律像が輝き、破壊的な竜巻が生じた。それは茜波を巻き上げ、渦潮の如く天高く聳え立つ。風気と水気の衝突に、上空から降りしきる稲妻が激突し、大爆発が起こった。
「おまえたちを侮りすぎた……」
ベルフェゴールの反省の弁は、当然ながら、万里彩は聞いていなかった。
万里彩が見たのは、幸多。
幸多の全身を覆っていた鎧套が剥がれ落ち、その下に纏っている闘衣すらも傷だらけという有り様だった。そして、その全身に走る青白い電光のようなものが、情報子とやらの輝きなのだろう。
それこそが、希望。




