第千二百七十話 神流の火(五)
「聞いていた話とは随分違うな……」
ベルフェゴールが胸に手を当て、傷痕を確かめるようにしたのは、無意識の反応だった。相手が特異点であり、情報子を制御する能力を持っているのであれば、あの一撃が致命的な結果になる可能性も皆無ではなかった。だが、よくよく考えてみれば、武器を通して情報子を流し込んでくるような芸当がそう簡単にできるはずもなく、杞憂も甚だしい。
それ故、幸多が刀を振りかぶって突っ込んできたの見て、ほくそ笑んだというわけだが。
結果として斬られてしまった。
油断大敵。
しかし、それこそがベルフェゴールという悪魔の本質なのだから、如何ともしがたい。
「皆代幸多……」
悪魔は、上空からこちらを見下ろす幸多を見遣り、目を細めた。彼に関する情報は、長い間更新されていないのではないか。少なくとも、〈七悪〉が幸多と直接やり合ったのは、数ヶ月も前のことだ。その間、彼が成長しない理由はない。
人間であり、戦団の、戦闘部の導士だ。
幻魔との戦いを生業とするものたちの成長速度たるや、並の人間と比較していいものではない。ましてや、成長しない完成した生物である幻魔の視点からでは、想像を絶するほどのものであるはずだ。
「敵に値する……か。邪風」
全周囲、あらゆる方向、あらゆる角度から飛来する銃弾の雨に対し、ベルフェゴールは自身を中心とする青黒い竜巻を起こすことで対処した。が、直後、逆回転の渦潮が竜巻を飲み込み、相殺する。水飛沫が視界を彩り、幸多が眼前に突っ込んできていた。
「だが」
またも刀を振り翳す幸多に対し、ベルフェゴールの左足が閃く。超神速の一閃。幸多の右腕に直撃し、青白い火花が散った。情報子の衝突。幸多の体があらぬ方向へと吹っ飛んでいくも、またしても水の壁が彼を抱き留める。
星将たちは、幸多を支援することに全力を尽くすつもりのようだ。それはそうだろう。悪魔を滅ぼす手段を持たないただの人間では、どう足掻いたところで時間稼ぎが関の山だ。そして、解決策のない時間稼ぎにはなんの意味もない。
であれば、わずかでも存在する可能性に賭けるべきだ。
それがたとえ、天から垂らされた蜘蛛の糸の如き、か細い希望であったとしても。
爆撃が、ベルフェゴールの動きを封じた。四方八方から絶え間なく飛来する銃弾や砲弾の雨霰。その間隙を縫うのは、水撃。いずれも星神力の塊であり、強力無比な攻撃であることは疑いようがない。
ベルフェゴールですら、まともに食らえばただでは済まない。
「面倒だが……仕方あるまい……〈七悪〉に成るためだ」
ベルフェゴールはつぶやき、律像を展開した。想像力の具現たる魔法の設計図が幾重にも紡がれ、複雑に変化していく。その間も星将たちの攻撃は途切れることはなかったし、幸多も飛びかかってきていた。
幸多は、ついに裂魔改を捨てた。
なぜ裂魔改を握り締めていたのかといえば、現状、源理の力を叩き込むには、近接戦闘にならざるを得ない。その場合、なにかしらの得物を用いるというのが普通の考えだ。だが、悪魔を相手にするのであれば、そうした考えに囚われるべきではなかった。
折られた腕の骨は、源理の力で固定した。完治したわけではない。が、痛覚を遮断しているため、痩せ我慢をする必要もない。痛みを感じなければ、骨が折れていようともなんの問題もないのだ。動けばいい。戦えればいい。叩き込めれば、それだけでいい。
少なくとも、この戦闘が終わるまでは、だが。
分厚い水壁を蹴り、ベルフェゴールとの距離を詰める。神流と万里彩の星象現界によって彩られる戦場のど真ん中へ。爆撃が大地を穿ち、水柱が無数に立ち上り、風圧がなにもかもを吹き飛ばす、狭間。律像が視界を満たす。複雑怪奇にして多層構造の律像。
「星象現界!」
「ああ、そうだ……これは……星象現界」
ベルフェゴールは、告げ、真言を発した。
「堕落せよ我が世界」
幸多が猛然と繰り出した拳は、しかし、ベルフェゴールに届かなかった。星象現界の発動と同時に生じた衝撃波が幸多を吹き飛ばしたからだ。そんな幸多を受け止めたのは、神流。神流の目は、ベルフェゴールの足元からせり上がってくる物体を見ていた。莫大極まりない星神力の結晶たるそれは、とてつもなく巨大なソファであり、ベルフェゴールはそれに腰を下ろし、ふうと息を吐いた。翼を折り畳みながら、敵を見回す。
「これで……ゆっくりできるというもの……」
ベルフェゴールは、あくびすらもらしながら、いった。彼の玉座は、彼の想像力の産物だ。星象現界である。魔法の元型たる〈星〉の具象。つまり、この惰眠を貪るためのソファこそが、彼の魔法の元型であり、彼の本質そのものなのだ。すべてがふかふかで、身も心も包み込むような、座り心地どころか寝心地抜群のソファ。腰を下ろしただけで、ベルフェゴールの意識が溶けてしまいそうになるほどだった。
神流と万里彩は、顔を見合わせた。ベルフェゴールの星象現界があまりにも戦場に不釣り合いであり、それに腰を下ろした悪魔がいまにも眠りこけそうな反応を見せたからだ。神流たちを敵と見做していないのではないか。
少なくとも、全力で殺しにかかってきているようには思えない。
「神流様!」
「ええ、わかっています!」
声を掛け合い、すぐさま悪魔への攻撃を再開する。そのソファが星象現界だということは間違いない。発動の瞬間から現在に至るまで、ベルフェゴールの魔素質量は何倍にも膨れ上がっている。元より星将たちとは比較しようがないほどに膨大な魔素質量が、だ。いまや、神流たちは、魔素質量だけで圧倒されかねない。
魔素質量の差が、戦力の差だ。
星象現界を発動したベルフェゴール一体で、黒禍攻撃軍が全滅してもおかしくないのではないか。
雷魔将トールによって五星将が倒れたいま、こちらも同じ憂き目にあってもおかしくはない。
とはいえ、攻撃の手を止める理由にはならない。
「幸多。あなたがこの戦闘における唯一の勝ち筋です。わたくしたちがなんとしてでも好機を作ります」
「頼みましたわよ、超新星」
「はい!」
幸多は、神流と万里彩が同時に飛び出すのを見届けた。
神流は、星域による絨毯爆撃のほか、星神魔法を連発することで、ベルフェゴールに攻撃する隙を与えまいとしていたし、万里彩も同様だ。星装を纏うことによって増大した力のほとんどすべてを攻撃に割り当て、破壊力抜群の星神魔法を乱打している。
銃撃、砲撃、爆撃――銃神戦域が織り成す攻撃の数々が乱舞する中、火炎魔法と流水魔法が激突し、反発によって起こる大破壊の連鎖が、ベルフェゴールの存在座標を破壊し尽くしていく。
だが。
「無駄だ……なにもかも無駄なんだ……よしたほうがいい……ただ、力を失うだけだぞ……」
ベルフェゴールは、ただ、ソファに在った。いつの間にかソファの上に寝転がり始めた悪魔は、優雅で安穏たる時間を過ごし始めていた。銃撃も砲撃も爆撃も、数多の星神魔法も、頬を撫でる微風のようなものだ。
星象現界は、発動した。
彼は、もはや見守るだけで良かった。ただ力を失い続けるものたちが足掻く様を見ているだけでいい。なにをする必要もない。これ以上の力の浪費は必要ではないのだ。既に、十二分に浪費しているのだから。
そして、爆撃が止んだ。星将たちの攻撃が、だ。
ベルフェゴールの視界を満たす爆煙も、星域を流れる微風によって流されていく。
「これは……」
「星象現界の能力でしょうね」
神流は、万里彩が絶句するのを受けて、告げた。
神流たちが攻撃の手を止めざるを得なかったのには、理由がある。
彼女たちの目の前に敵が現れたからだ。
「これが……星象現界……」
幸多もまた、目の前に立ちはだかった敵によって、ベルフェゴールへの接近を阻まれていた。
まるで鏡を見ているような気分だった。ただし、どす黒い鏡だ。鏡像を正確に映し出しているのではなく、暗い影を落とし、真っ黒に染め上げたかのような、そんな状態。
神流には神流の、万里彩には万里彩の、そして幸多には幸多の鏡像の如き魔力体が立ちはだかったのだ。
「たかが鏡像と侮るなよ……いや……まあ……侮ってくれても構わないが……痛い目を見るのは……おまえたちだからな……」
ソファに寝っ転がった悪魔は、まさにだらけきった様子でいった。その口振り、態度は、勝利を確信しているのは間違いなさそうであり、自分の星象現界に限りない自信を持っているようだった。
実際問題、ベルフェゴールの星象現界・堕落せよ我が世界は、凶悪無比には違いなかった。
というのも、神流が動くと、鏡像も動き、銃神戦域が銃撃を浴びせれば、神流もまた、銃弾に撃ち抜かれたからだ。
鏡像は、星象現界すらも完璧に再現しているようなのだ。
「神流様」
「わたくしは、大丈夫」
神流は、自身の傷を簡易魔法で癒やしながら告げると、ベルフェゴールに視線を移した。そこで、鏡像が自分からは動かないことを確認する。
とはいえ――。
(厄介な星象現界であることに違いはありませんが……)
どこかに突破口はあるのか。




