第千二百六十八話 神流の火(三)
「あー……おれの名は……ベルフェゴール。覚えなくてもいいが……まあ……一応」
殊更気怠げに名乗ってきた鬼級幻魔は、ゆらりと傾くと、背中から一対の翼を生やした。巨大な翼は、蝙蝠の翼に似ている。羽根ではなく飛膜があるのだ。そして全体としてどす黒く、禍々《まがまが》しい。
まさに悪魔のような姿だった。
なぜ、そのような姿を見せつけてきたのか、幻魔の発言で理解できた。
「それと……おれは悪魔だ……」
「……悪魔がなぜここに?」
神流と万里彩の反応は、冷ややかだ。最初からわかりきっていたといわんばかりだが、その通りなのだから仕方がない。
ベルフェゴールと名乗った悪魔が模した流星の如き岩塊からは、サタンの固有波形が観測されていた。
故にこそ、神流と万里彩がここにいて、式守小隊以下、各小隊を下がらせたのだ。
雷雨降りしきる戦場への乱入者が悪魔だったというのであれば、星将以外に出る幕はない。
「さあて……? なんでだろうな……? おれにもよくわからないんだ……」
ベルフェゴールは、神流の問いにもうんざりしたよいうな表情を浮かべるばかりだった。だが、その魔素質量たるや絶大であり、圧倒的強者であることは疑いようがない。
鬼級幻魔であり、悪魔なのだ。並大抵の相手ではない。
対するは、星将二名。
この雷雲に覆われ、絶え間なく稲妻が降り注ぐ中、黒禍攻撃軍は、護りに専念しなければならず、杖長たちをここに呼び寄せるわけにはいかなかった。
そもそも、鬼級の相手は、星将と決まっている。星将が三名いて、ようやく対等に戦えるとされているのだから。
(足りない)
神流は、極めて冷静に彼我の戦力差を認める。
黒禍攻撃軍に編制された星将が二名だけなのは、黒禍の森の管理者たる三魔将が不在であり、補充されていないことが明らかだったからだ。とはいえ、黒禍の森を無視しては、他方面の戦力を増強させるだけのことだ。それ故、黒禍攻撃軍が編制され、二名の星将が割り当てられた。
その戦団の判断の正しさは、いまのいままで証明されていた。
雷神の庭は苦戦を強いられているとはいえ、五名以上の星将が必要不可欠だったのは間違いなかったし、地霊の都もいまのところ上手くいっている。黒禍の森も、これまではなにひとつ問題なかった。
現状、戦団は多大な出血を強いられているのだが、しかし、こうでもしなければどうにもならなかったのもまた、事実なのだ。
オトロシャによる央都への攻撃を耐え続けることは、導士にとってはともかくとして、市民にとっては耐え難い苦痛に違いない。ここのところ、央都市内を出歩く人の数が減っているのも当然であり、道理だ。いかに戦団が防衛網を強化しようとも、いつ何時、凶悪な幻魔災害が発生するのかわからないのであれば、家の中に引き籠もっておく以上に安心感を得られることはない。
無論、幻魔災害は建物を内外から破壊する場合もあれば、央都市内に絶対に安全な場所など存在しないのだが。
市民の心中を思えば、一刻も早くオトロシャを打倒したいと考えるのは、同士ならば当然のことだ。
なんとしてでも、状況を打開しなければならない。
そのためならば、多少の犠牲はやむなし――。
「なんでだっけかな……なんだったか……」
なにやら考え事をし始めた悪魔に対し、神流は、全火砲の照準を合わせた。星象現界・銃神戦域は、広範囲に展開する星域内に無数の銃火器を配置している。それら銃火器が撃ち出すのは、魔力体。いや、星神力体とでもいうべき星神力の塊であり、生半可な魔法とは比較にならない威力を持つ。
万里彩もまた、攻撃準備を終えている。絢爛豪華にして優美なる星装、その全身に咲き誇る花々が眩いばかりに輝き、律像を歌っていた。
無限に舞い散る花弁が、幾何学模様を描いている。
「あー……そうだ……サタン様からの御命令だ」
ベルフェゴールのだらけきっていた目が、突如として力を持った。
「〈七悪〉に成りたければ、星将を殺し、証を立てろ、と」
ベルフェゴールが、翼で大気を叩いた。強力な突風が巻き起こり、神流たちを襲う。が、そのときには、ふたりの攻撃は完了している。
銃神戦域による集中砲火と、木花開耶姫による星神魔法の多重発動。火線が集中し、爆撃が連鎖する中に凄まじい水流が渦を巻き、大洪水が一帯を飲み込む。水圧と爆圧。火と水。相反する属性の衝突は、さらなる破壊を引き起こす。
それは、神流と万里彩が編み出した戦法であり、ふたりが星象現界の使い手だからこそ為し得る技なのだ。
星神力の塊と星神魔法の衝突は、ただの魔法の衝突とはまるで異なる結果を生み出す。
それが、破壊の連鎖。爆砕の乱舞。天地崩壊とでもいうべき魔法現象。
「〈七悪〉に成る?」
「つまり、あれは〈七悪〉ではないということですわ」
「そういうことですね」
だからどう、ということではない。ただ、確認し合っただけのことだ。
ベルフェゴールは、サタンの手先であり、悪魔だ。悪魔は、ただの鬼級幻魔ではない。並外れた力を持っているだけでなく、普通の方法では斃すことができないとされる存在なのだ。
爆撃が止み、星神力の余波が流れていく。
すると、爆心地には、ずたぼろになった悪魔が立っていた。右腕や左肩を失った悪魔は、しかし、何事もなかったかのようにいってくる。
「この程度……どうということもない……」
そして、ベルフェゴールの魔晶体が瞬時に復元する様を、星将たちは見届けることはしなかった。
「でしょうとも!」
「わかっておりましてよ!」
神流と万里彩は、続け様に総攻撃を行った。一斉射撃と集中攻撃。またしても巻き起こる爆砕の乱舞。双極属性の反発が引き起こす大破壊は、黒禍の森全土を震撼させるほどのものであり、遥か頭上を覆う雷雲さえも消し飛ばすのではないかと思えるくらいだった。
だが、足りない。
爆撃が止めば、無傷のベルフェゴールの姿が、神流の眼前にあった。空間転移の如き速度による、一足飛び。超神速といっていい。
元より超高速戦闘が導士の基本だが、星将と鬼級の戦闘ともなれば、桁違いだった。超神速で飛び回るだけで、周囲に多大な影響を与え、破壊をもたらしていく。大気中の魔素が唸りを上げ、燃え上がる。
神流は、辛くも悪魔の蹴りを受け止めることに成功したものの、張り巡らせていた多重防壁が尽く破壊され、衝撃が腕を貫いた。右腕の肘から先が消し飛ぶ。肘から噴き出すのは、鮮血。血液中の魔素が燃え、その炎が星神力に火を点ける。爆発。ベルフェゴールの右足を根こそぎ吹き飛ばす大爆発は、神流自身にも大打撃を与えるものであり、危うく意識を失いかけたほどだ。
「自爆だなんて!?」
「それくらいの覚悟は必要でしょう」
「ですが――」
なんなのか。
万里彩は、全身に大火傷を負った神流を守るべく周囲に魔法壁を形成すると、全速力で治癒魔法を編んだ。さながら大輪の花の如き水の結界は、ベルフェゴールの接近を数秒、阻む。ほんの数秒、されど、数秒。星象現界の使い手には、十分すぎる時間。
「だるぅ……」
ベルフェゴールが水の結界を突破したときには、神流の回復は完了している。神流が、左腕を前面に差し出し、手のひらを開いた。ベルフェゴールは、警戒しつつも、突貫してくる。その横っ面をぶん殴ったのは、巨大な水塊。超魔素質量のそれは、もちろん、万里彩の星神魔法だ。
ベルフェゴールの頭部が半分消し飛び、そのまま、神流の視界から消えていく。が、神流は逃さない。目で追い、集中砲火の追撃を仕掛ける。無論、万里彩も攻撃の手を止めるはずがない。
あの一撃に満足することなどありえないといわんばかりに星神魔法を連発し、反発による大破壊を連続的に引き起こす。間断なく、一切の情けも、まったくの容赦もなく、ただ、苛烈に。
物凄まじい星神力の爆発の中で、それでも悪魔は生きている。魔晶体を徹底的に破壊されているのにも関わらず、不滅の存在であるかのようにして、そこにいる。爆心地に。爆発の中に。
『当然の結果ですね』
通信機に入ってきたのは、日岡イリアの声だ。
『悪魔を斃す方法は、現状、ただひとつだけ。それはお二方も御存知のはず』
「もちろんです」
「当然ですわ」
神流と万里彩は、イリアの質問に答えながら、悪魔が翼を大きく広げるのを見た。ベルフェゴールには、星象現界すら通用しない。
いや、通用はしている。
ただ、斃せない。
ただひとり、皆代幸多を除いては、だれにも悪魔を滅ぼせない――と、されている。
事実、今現在ベルゼブブと名乗る悪魔は、竜級幻魔オロチに消し滅ぼされたはずなのに、生きていた。バアル・ゼブルからベルゼブブへと名を変え、姿を変えてこそいたものの、本質に変化はあるまい。固有波形に変化はなく、故に同一個体であることは明らかだ。
怒り狂った竜ですら滅ぼせないのであれば、皆代幸多の異能に一縷の望みを託すしかないというのが、戦団最高会議の結論である。
そして、ベルフェゴールが咆哮したとき、青白い燐光が神流の視界を掠めた。




