第千二百五十八話 星々煌めき、雷轟く(八)
雷神の庭上空のみを覆っていたはずの雷雲が、急激にその勢力圏を拡大していく光景は、圧倒的としか言い様がないものだった。
急速に。加速度的に。瞬く間に。
それは、雷神の庭のみならず、黒禍の森、地霊の都の上空をも包み込み、ついには恐府の中心部さえもどす黒い雷雲で覆い尽くしてしまった。
雷雲は、轟々《ごうごう》と唸りを上げ、ただただ稲妻を降り注がせる。
雨は降らない。
降るのは、雷。
鳴るのは、大地。
凄まじい地鳴りもまた、恐府全域を飲み込んでいる。
「へえ、やるじゃないか」
「星象現界ってあんな風になるんだ……」
アザゼルが感心する声はあまりにも嘘くさかったが、マモンの反応は真に迫っている。研究者としての本能がそうさせるのか、それとも、〈強欲〉の性分か。いずれにせよ、マモンが興味津々に地上を覗き込む姿は、アスモデウスにとってはこの上なく愛おしい。思わず抱き寄せてしまったほどだが、それはそれとして、だ。
本題は、トールの星象現界に起きた変化。
それは、悪魔たちにとっても驚くべき出来事であり、故にマモンが子供のような反応を見せるのも無理からぬことだった。
「あら?」
「ん?」
アスモデウスの反応にマモンが目を向けると、彼の母なるものは、遥か頭上を見遣っていた。サタンの玉座である。
「サタン様は何処?」
アスモデウスの疑問は、その場にいた悪魔たち全員共通のものとなった。
「あーあ」
それは、いつからそこにいたのか。
影のように音もなく、闇のような静けさで、それはいた。あまりにも馴染み深く、あまりにも溶け込んでいるがために、気づくのが遅れたのか。それとも、完全に気配を絶つことができるのか。
いずれにせよ、それがこの場を訪れるのは、これが最初ではない。
サタン。
そして、ここは、恐府の中心。
恐王宮、恐王の座。
「トールが急成長を遂げちゃったね」
《成長……》
厳かな声が、幾重にも反響する。
男の声のようであり、女の声のようでもある。若く、幼く、老いさらばえた、複雑怪奇な多重音声。それが異なる口から同時に紡がれるが故に、不協和音を生む。決して調和することはなく、溶け合うことはない。
恐王の声の不愉快さは、どういう理屈なのか、サタンにもわからない。ただの声が、聞くものの神経を逆撫でにする力を持っているかのようだったし、心に染みこんでくるかのような厄介さを持ち合わせていた。
だが、サタンには、響かない。
《ありえぬ》
「事実だよ。トールは、彼は、成長した」
サタンは、恐王を名乗る鬼級幻魔、その異形を見つめていた。
異形。そう、異形だ。
幻魔は、すべて、人外異形の怪物だとされる。事実、霊級から妖級、そして鬼級の大半に至るまで、人間とはまったく異なる姿形をしているものだ。
霊級は実体を持たず、形も不安定だ。まさに霊そのものであり、幻魔として最低限の能力しか持たないのも、その不完全な誕生の経緯に原因があるのだろう。肉体を得るべく足掻き、藻掻き、されど失敗したが故に、不完全極まりないまま、生き続けなければならない。もっとも、その事実を霊級たちがなにか複雑な感情を抱いている節はない。
人並みの知性と想像力を併せ持ちながら、個性を持たないがために、己が生態に疑問を持たないのかも知れない。
獣級は、肉を得て、形を持ったが、その姿態はかつてこの世に満ちていた鳥や獣に近い。猛獣そのものの姿をしたものもいる。知性は、それら鳥獣とは比較にならないほど高度だが。
魔法を使うのだ。
人間並みかそれ以上の知性がなければ、どうなるものでもあるまい。
妖級ともなると、人間に近い姿態を取るようになる。人間のように五体を持つだけでなく、容貌までもが人間に近づくのだから、幻魔の根源がどこにあるのかわかるというものではないか。されど、異形であることに違いはない。妖級を見て、人間と見間違うことはありえない。断じて。
それほどまでに、妖級と人間の差違は大きい。
そして、鬼級。人間に酷似した姿形を取るものが大半だ。もはやほとんど人間と変わらず、身の丈までも人間の範疇に収まっている。だが、幻魔としての個性か特性か、どこかしら異形さを持っているのが、鬼級というものらしい。
オトロシャは、そんな鬼級幻魔の中にあって、特筆するべき異形の姿態を持つ。。
まず、巨躯である。
全長二十メートルほどか。この恐王宮がとてつもなく巨大なのは、オトロシャの巨体を収めるためなのは間違いなさそうだった。
その巨体は、人間に似ていなくもない。だが、頭や首、肩や腕、足に至るまで、あらゆる部位が人間の五倍あり、それらが複雑に絡まり合ったりして、異形の肉体を構成している。
神話や伝説から飛び出してきた怪物のように。
恐王宮と名付けられたオトロシャの住処は、その異形に相応しい作りをしている。それこそ、異形の肉の塊で組み上げられたようであり、肉の柱や肉の床、肉の壁、肉の天蓋がこの宮殿を形作っているのだ。ただの肉ではない。異形の肉。幻魔の肉体たる魔晶体を材料としていることは、サタンにはすぐにわかった。
この宮殿を作り上げるためにどれだけの幻魔が材料になったのか、想像もつかない。百万では足りないだろう。
一千万、いや、もっとかもしれない。
いずれにせよ、オトロシャは、己が宮殿のためにそれくらいの犠牲を強いることができるということだが、そんなものは、鬼級ならば当然かもしれない。
鬼級は、妖級以下の幻魔を自分と同じ生き物とは認めていない節がある。
鬼級と妖級の間には、隔絶した力の差があるのだ。それこそ、次元が違うといっても過言ではないほどの差。
故に、鬼級は妖級以下の幻魔を理解できないし、尊重しないし、同胞と認識することがない。
ただの兵隊であり、手駒であり、材料なのだ。
オトロシャにとっては、三魔将なる鬼級たちですら、そうに違いない。だが。
「トールは、成長してしまった。幻魔にあらざるべき成長を遂げてしまったんだよ」
《幻魔にあらざるべき……》
「そうだろう。ぼくたち幻魔は、生まれながらに完成した生物だ。完全無欠にして万能の存在。全知全能にもっとも近く、万物の霊長たるもの。それがぼくたち幻魔だ」
《笑わせる》
オトロシャの無数の目が、サタンを見据えている。幼い目、男の目、女の目、老いた目、異形の目――そのいずれもがサタンを睨み据え、その真意を探ろうとしていた。
言葉は、浮薄。吹けば飛ぶほどに軽く、力を持たない。
《全知全能とは、余のみのこと。余以外のすべては、無知無能。惰弱にして愚劣なるもの。余のみが、幻魔の中の幻魔にして、この魔界の覇者なるぞ》
「……だとすれば、トールはどうするのかな?」
サタンは、オトロシャの大言に付き合わず、問うた。
「トールは、成長してしまった。いまや彼は、ただの鬼級ではなくなってしまった。ぼくと同等とまではいわないけれど、きみに肉迫する力を得たのは間違いないんじゃないかな」
サタンの断言に、オトロシャが目を細める。
トールの星象現界・雷霆神宮殿が恐府全域を飲み込んだのは、成長の結果だ。生まれ持った能力がすべての幻魔にあるまじきことだが、事実は事実。否定できないし、覆すことのできない現実なのだ。
トールは、鬼級の中でも極めて強力な存在となった。
星将五人が力を合わせてもどうにもならなかったのは、当然の結果としかいえない。
いまのトールに敵う導士など、神木神威以外にはいないのだから。
《余に敵う、と?》
「どうだろうね。直接やり合ってみれば、わかるんじゃないかな」
《ありえぬ》
オトロシャは、一蹴する。
《あれが余に敵うことなど、ありえぬ。余は、恐王。この恐府の主にして、魔界の覇者なり。いかにトールが力を持とうとも、余に触れることも能わず》
「……まあ、それはその通りなんだろうけれどね。でも、オトロシャなんて奇妙な名前に拘るきみにとって、トールのような鬼級の存在は、致命的なんじゃないかな」
《致命的……》
「そうだとも。だって、きみは、本当は――」
《――サタンよ。敵対者よ。悪魔の王よ。汝は、なにを望み、なにを求め、なにを願う。何故、余の前に立ち、何故、余の不興を買う》
「前にもいっただろう。ぼくがきみに求めるのは――」
サタンは、オトロシャがついに本格的に反応したのを見て、内心苦笑するよりほかなかった。
オトロシャにとって致命的なものがなんなのか、わかってしまったからだ。




