第千二百四十話 風が吹く
「戦団の数少ない戦力をさらに分散させての大作戦が、これほど順調に進行するとは……まったく、人間の底力とは物凄まじいものだね」
「思ってもいないことをよくいうものねえ」
どす黒い異形の骨で組み上がった奇妙な形の椅子、その背もたれを抱えるようにして座るアザゼルの後ろ姿を一瞥して、アスモデウスはいった。アザゼルの翼は小さく折りたたまれていて、その後頭部もはっきりと見える。それでなにがわかるというわけでもないが。
ここは、闇の世界ハデス。
アーリマンの〈殻〉にして、〈七悪〉の拠点たるこの異空間に、サタン配下の悪魔たちが勢揃いしていた。
頭上には暗澹たる闇が覆い被さっており、その闇よりも深い光が、光源として降り注いでいる。それは、サタンの光輪が放つ光だ。黒い光輪が発する、昏い光。絶望的としかいいようのない光が、悪魔たちを包み込み、照らし出している。
ハデスの中枢たる憤怒の座に集うは、〈嫉妬〉のアザゼル、〈色欲〉のアスモデウス、〈傲慢〉のアーリマン、〈暴食〉のベルゼブブ、〈強欲〉のマモン、冠位なき悪魔タナトス、アスタロト、そして――。
「それがおれだからね。きみもそろそろわかってきた頃合いじゃないか、新入りくん?」
「……はぁ」
アザゼルから話を振られ、あからさまに困り果てたような反応を見せたのは、ついこの間、新たに加わった悪魔である。
名を、ベルフェゴール。
鬼級幻魔らしく人間に酷似した姿形をしており、白地に大小無数の黒い斑点が特徴的な衣を纏っている。性別でいえば男だが、悪魔に性別は関係ない。頭髪は黒く、目元まで覆い隠すほどに長い。その髪の毛の間から捻れた二本の角が飛び出しており、人外の怪物であることを主張しているかのようだった。後は、顔つきか。アザゼルへの反応に困ったような表情もそうだが、いまにも眠りに落ちそうな顔つきを常にしているのだ。いまだって、アザゼルが話しかけなければ夢の世界に旅立っていたに違いないとマモンが確信するほどだった。
魔軍に組み込まれたばかりで、幹部は無論のこと、主君までもがそこにいるというのに、とてつもない度胸というべきか。
「また新入りを困らせて。なにが楽しいのかしら。ねえ、マモン」
「……さあ?」
マモンは、隣のアスモデウスに引き寄せられて悪い気はしなかったものの、アザゼルとベルフェゴールについてはどうでもよかったので、無愛想な返事をしてしまった。アスモデウスが苦笑したのがわかる。
すると、アーリマンがアザゼルを睨んだ。暗黒の闇そのものの顔面に深い皺が刻まれているのが、なんとはなしに理解できる。
「……これが本当に人間のものだと思うのか? アザゼルよ」
「まさか」
アザゼルは、アーリマンの反応をこそ、嘲笑うようにいった。
「人間如きがこのような状況を作れるわけがないさ」
アザゼルの断定に、悪魔たちは異論を挟まない。
では、なにが人間の集団を、戦団の導士たちを、勝利へと邁進させているというのか。
恐府各所で繰り広げられている熾烈な戦いの光景を見つめながら、悪魔たちは、主を仰ぐ。
憤怒の座の中心にして頂点に君臨する悪魔たちの主は、ただ、まっすぐに戦場を見据えていた。
ロストエデンの天使たちは、遥か眼下にて繰り広げられている決戦を見守っていた。
鬼級幻魔オトロシャが〈殻〉恐府、その各地でいままさに行われている戦いは、人類の存亡を懸けた大作戦といっても過言ではあるまい。少なくとも、戦団史上最大の軍事作戦であることは間違いないだろう。
「たった、六千人。されど、六千人……か」
「そうだね。彼らは、現状出しうる限りの戦力を出した。六千人は、戦団における戦闘要員の半数なんだ。央都を護りながら、オトロシャの攻撃に対応しながら半数も出した。つまり、戦団は、この戦いにすべてを懸けているんだよ」
「だろうが」
メタトロンは、ルシフェルの目を見た。空の青さをそのまま封じ込めたような目は、透き通った鏡であり、メタトロンの、白銀の大天使の姿を映し出している。そしてそれは、メタトロンの目も同じことだ。
メタトロンの目には、黄金の大天使の、太陽の如き輝きが反射しているのだ。
互いに見つめ合い、意見を交わす。
いつものように。
「天軍は、なぜ、動かない。我々は人類の守護者ではないのか?」
「そうだとも。わたしたちは、人類の守護者だ。人類を滅びから護り、未来へと導くためにこそ、創造され、存在している。そのためにロストエデンはあり、天軍はある。わたしは、そのために天使たちを差配している」
「だが、動かない」
「……そうだね」
ルシフェルは、ガブリエルの魔法球を覗き込みながら、うなずく。その魔法球にこそ、恐府各地の戦闘模様が映し出されているのだ。人類の未来を懸けた大決戦、その戦いぶりたるや、凄まじいとしか言いようのないものだ。人類の天敵たる幻魔がむしろ圧倒され、蹂躙されている。
戦団側の損害は軽微で、オトロシャ軍の被害は甚大。
このまま戦団が勝利を掴むのも難しくないのではないか――というのは、極めて楽観的なものの見方であり、捉え方であろう。
メタトロンの言には、返す言葉もない。
「つまり、だ。人類は、滅亡の危機になど瀕していないということだよ」
「……それは理解しているが」
しかし、納得できるものでもないという事実もまた、メタトロンは抱え込まなければならない。
天軍の戦力が整いつつあるいまこそ、人類の守護者としての使命を果たすときなのではないか、と、思うのだが、しかし、そんなことをいったところで動くルシフェルではないということも理解しているのがメタトロンだ。
ルシフェルは、感情では動かない。
だからこそ、彼は天軍の指揮官であり、天使長を任されているのだ。
「ですが……彼は行ってしまいましたよ」
「うん?」
ガブリエルの言葉の意味がわからず、ルシフェルが小首を傾げた。そして、ロストエデンに確かにいたはずのもうひとりの熾天使が姿を消していることに気づいたのは、失態というほかなかっただろう。
ラファエルである。
ラファエルの目に映る世界は、魔界といわれるものだ。
かつて、ただ地球と呼ばれていた世界は、二度に渡る魔法大戦の果てに破壊され尽くし、幻魔に埋め尽くされたことで魔界の原型を作った。それはまさに原初の混沌とでもいうべき状態だったのかもしれず、魔天創世によって攪拌され、魔界が形成されていったのも道理だったのかもしれない。
魔天創世とは、二度目の天地創造だった――というのは、幻魔の考え方だろうが。
ともかく、地球は、幻魔の世界たる魔界へと変わり果てた。
幻魔を除く、生きとし生けるものが死滅し、空も大地も海も、なにもかもが死に絶えた世界。風は止まり、火は消え、水は澱み、大地は腐り、幻魔たちにとっての楽園ですらなくなったはずの世界。竜たちの息吹によってどうにか息を吹き返したものの、かつて人類が万物の霊長を自称し、君臨していた時代とは、人界とは、まるで異なる世界であることに間違いない。
ここに人類の居場所はない。
なのに、人間たちが戦っている。
「なぜ?」
ラファエルは、疑問を浮かべ、地上へ降り立つ。彼の周囲で暴風が渦巻き、飛来した魔法弾をすべて、弾き飛ばした。
オトロシャ軍の幻魔たちが、熾天使の降臨を目の当たりにし、攻撃してきたのだ。
「……当然か」
ラファエルの目に映るのは、魔界の一端。
恐府と呼ばれる〈殻〉の、黒禍の森と呼ばれる地帯であり、どす黒い異形の結晶樹が無数に林立する場所だ。そこには大量の幻魔が犇めいていて、人間たちと激闘を繰り広げていた。
人間たちの決死の大作戦は、天軍にとっても重要な戦いであるはずであり、天使として生まれ落ちた彼にしてみれば、協力せずにはいられなかった。
「なぜだ?」
ラファエルは、自問する。
「なぜ、この景色に見覚えがある?」
ラファエルの記憶に黒禍の森はない。つい先程までロストエデンにいて、遥か上空から地上の様子を見守っていたから、その情報だけはある。だが、その情報と、ラファエルの意識を駆け抜けた感覚は、一致しない。
魔晶体が、結晶構造が、情報子が、ざわめいている。
ふと気づくと、眼前に妖級幻魔フェアリーの群れが並んでいた。その周囲には既に無数の律像が浮かんでおり、大規模破壊魔法が発動寸前だということが理解できた。だが、その瞬間には、ラファエルの魔法は発動している。
「我が声は神の息」
風と音。
破壊の嵐が、フェアリーの群れを薙ぎ払い、黒禍の森を飲み込んでいく。




