第千二百二十九話 非常事態
『戦団は、ここ最近央都各地で頻発している幻魔災害が、鬼級幻魔オトロシャの攻撃であることを公表しました。この発表が意味するところは、オトロシャ
が央都侵攻を諦めておらず、それどころか本格的に制圧に乗り出した可能性を――』
『このたびの戦団の発表を受け、央都市民の間では大きな混乱と動揺が広がっており、一刻も早い事態の収拾を――』
『恐府の制圧を優先するといっておきながらこの体たらくは、さしもの戦団も判断を誤ったというほかありませんが――』
「……どこもかしこもこのニュースばっかだな」
圭悟が殊更に苦い顔をしたのは、蘭の携帯端末が出力する幻板を眺めながらのことだ。天燎高校の教室には、休憩時間にも関わらず、ほとんどの生徒が残って、皆が同じように携帯端末と睨み合っている。それが央都市民にとって当然の反応だということは、圭吾にだって理解できる。
それは、いま現在央都が直面し、つい先ごろ戦団が公表したこの非常事態にこそ、原因がある。
戦団による発表は、央都非常事態宣言とでもいうべきものだった。
連日連夜、央都市民を震え上がらせている幻魔災害が、オトロシャなる幻魔の軍勢の手によるものだということが明らかにされたのだ。
オトロシャ。
人類生存圏に隣接する最大規模の〈殻〉恐府の支配者たる鬼級幻魔。その名は、オトロシャによる水穂市侵攻によって知れ渡り、まさに恐怖の代名詞となっていた。
恐府は、央都がその産声を上げたときから、常に傍にあった。それこそ、五十年もの長きに渡り、央都の傍にありながら、鋼のような沈黙とともにあったという。無論、沈黙しているからといって警戒しないわけにはいかないし、戦団は常に注視し、戦力を割り当てていたのだが。
オトロシャが遥かなる沈黙を破り、人類への宣戦布告の如き行動を取れば、戦団も黙ってはいられない。
対応しなければ、ならない。
そして、実際に恐府への攻撃を行い、これによってオトロシャの腹心を討ち滅ぼすことに成功したという。
つまり、戦団は、オトロシャ軍に痛撃を与えているのだ。
ならば、この非常事態は、オトロシャ軍が痛みを覚えていることの証明なのではないか。
オトロシャ軍による散発的な攻撃は、市民の日常生活を脅かし続けている。同時多発幻魔災害ともいわれるそれらは、央都各所に被害を与えただけでなく、多数の死傷者を出しているのだ。
だからといって、市民が日常生活を止めることなどできるわけもなければ、避難所に閉じ籠もっていられるはずもない。
央都の日常は、幻魔災害とともにある。
もちろん、これほどまでに幻魔災害が頻発したことなど央都の歴史上なかったことなのだが、それが市民の生活を変える理由にはならない。
戦団が防衛体制を見直し、常に導士たちが見守ってくれており、幻魔災害による被害が減少傾向にあるという事実も、市民が日常生活を続ける理由にはなるが。
そんな中にあれば、万が一の事態に備え、集団行動を心がけるのも当然といえるだろう。
万が一、この場で幻魔災害が起きたとしても、全員で対応すれば、避難するまでの時間稼ぎくらいはできるはずだったし、ここのところ、そうした訓練を受ける機会が増えていた。
市民は、導士に比べれば間違いなくか弱い存在だが、決して無力ではない。
皆、魔法士なのだ。
戦闘用の魔法を覚え鍛えるのは余程の物好きだけだが、それ以外の魔法――たとえば、身を守るための魔法などは、子供のころから学び、覚えるものである。
自衛用の魔法も集団で用いれば、幻魔から逃げる時間を稼ぐくらいはできるはずだったし、そのための訓練を受けている。
いま巷を騒がしているニュースは、他人事でもなんでもない。
「そりゃそうでしょ。ここのところ、毎日だもん」
「それも央都中ところ構わずですわ」
「この間なんて、天燎高校の校庭にも現れたって話だもんね」
「屋上をぶっ壊したのは草薙真って話だがな」
「幻魔を斃すための必要経費よ」
「わかってるっての」
真弥に突かれて、圭悟は眉根を寄せた。なにも草薙真を詰ったわけではない。むしろ、彼のおかげで被害を最小限に食い止められたという話なのだから、賞賛こそすれ、非難する理由はなかった。
妖級幻魔ヴァルキリーが校庭に現れ、それを草薙小隊が討伐したという報道があったのは、つい先日のことだ。
そのニュースを見れば、央都のどこにも絶対的に安全な場所なんて存在しないだろうという絶望的な事実を再確認したものだが、そんなことは、市民のだれもが理解しているはずだった。
央都は、地上の、魔界の中にある。
人類生存圏と銘打っているものの、楽園でもなければ安全圏などでもなく、いつ何時、幻魔に攻撃されるのか、幻魔の大群が押し寄せてくるのかわかったものではない場所なのだ。実際、何度となく幻魔災害に見舞われ、幻魔の大軍勢が攻め寄せてきたこともあった。
とはいえ、これまで市内に発生した幻魔災害というのは、ここ最近の同時多発幻魔災害とは規模も頻度も異なるものであり、被害も微々たるものだった。
いま、市民が不安を感じるのも無理のない話なのだ。
圭悟たちも心のどこかに不安を感じているからこそ、こうして四人で集まり、話し合うことで気を紛らわせている。
『戦団は、この非常事態に対し、オトロシャの〈殻〉恐府を制圧することによって解決すると宣言していますが、いかがでしょう?』
『当然の判断でしょうね。この同時多発幻魔災害がオトロシャ軍の幻魔によるものだというのであれば、原因を取り除く以外に終息させる方法はありませんから。それになにより、戦団は恐府を制圧することを最優先目標として掲げていたわけですから――』
ネットテレビ局の報道番組は、戦団の発表に対する議論を白熱させていくが、圭悟たちは、この不安定な日常をどうやってやり過ごし、乗り越えていくべきか、そのことばかり考えていたし、そうしている間に休憩時間が終わった。
(同時多発幻魔災害……)
担任の小沢星奈が教室に入ってきても、圭悟の頭の中はそのことで一杯だったが、授業が始まれば、次第に意識の奥底へと追い遣られていった。
黒木法子は、葦原市の町並みを見ていた。
央都葦原市東街区篠原町。
天燎高校の屋上から見渡す景色は、いままでとなんら変わらないものだ。
ここのところ、央都四市の各所で同時多発的に幻魔災害が発生し、いまや全市民が恐怖や不安と戦いながら日常生活を送っているのだが、一見しただけではそうした市民感情というのはわかるはずもない。
それでも、彼女は葦原市を見ている。市民の生活を。ひとびとの日常を。
「法子ちゃん、授業、始まってるわよ?」
我孫子雷智が声をかけてきてもなお、法子のまなざしは遥か前方に向けられていた。東街区篠原町に立ち並ぶ人家には、幻魔災害の被害は見受けられない。だからといって安堵などできるわけもなかったし、むしろ、つぎこそは篠原町で幻魔災害が発生するのではないかと考えてしまうのが人間の心理というものだろう。
いままさに、央都のどこかで幻魔が暴れ回っているとしても、なんら不思議ではない。
「わかっているよ、我孫子雷智」
「……いいの?」
「いいさ」
「そう」
雷智は、それ以上なにもいわなかった。なにもいわず、法子の隣に立ち、彼女と同じように町並みを眺める。
「これで見納めというわけでもないのだがな」
「ええ。これから先、何度だって拝めるわよ」
「ああ。何度だって」
法子は、無意識に握り締めていた拳を解き、雷智の手を握った。雷智が握り返してくれれば、法子は、ようやく表情を緩める。
「ヒーローごっこは終わりだな」
「うん」
法子の一言に雷智は静かにうなずいた。
法子の決めたことだ。雷智に異論はなかったし、異存もなかった。雷智にとって法子は半身以外のなにものでもなく、彼女の決断は、自分の決断と同義なのだ。
だから、これで見納めという彼女の気分も理解できる。
一般市民の目線で見るのは、間違いなくこれが最後なのだ。
導士になるということは、きっと、そういうことに違いない。
戦団は、常に人手不足であり、人材不足だということは、周知の事実だ。公然の秘密であり、市民にすら知れ渡っている由々《ゆゆ》しき問題だ。だが、解決策はない。
なんといっても、人類そのものの数が少ないのだ。常に存亡の危機に瀕しているのが人類であり、その総数たるや、たった百三十万人程度に過ぎない。
無論、それは戦団が把握している人数に過ぎず、地球のどこかに何百万人、何千万人と生き残っている人間がいたとしてもおかしくはないのだが、期待はできないだろうという認識こそ、正しいものの見方というものだ。
そもそも、地球の何処かにいるかどうかもわからない生き残りを当てにすることなどできるわけもないのだから、端から勘定に入れるべきではない。
頼りになるのは、いま、共に生きているひとびとだけである。
そんな百三十万人の中から二万人ほどが戦団の導士となり、人類生存圏防衛と拡大のために戦っているわけだが、人口比でみれば、決して少なくはない。
が、圧倒的に少ないという意見もまた、事実だ。
故に戦団は、常に人員を募集しており、優秀な魔法士と見れば即座に勧誘していた。
法子が幼少期から戦団に目を付けられていたのは有名な話だったし、雷智もまた、同じだった。
そして、ついに法子が戦団の勧誘に応じる決断をしたのは、この非常事態を直視したからにほかならない。
「ごっこは辞めて、本物のヒーローになろうか」
法子は告げ、雷智を見た。ふたりは見つめ合い、笑い合った。
自分たちの馬鹿げた青春時代は、これで終わりだ。
導士になれば、青春だのなんだのいっていられなくなるのだから。




