第百二十二話 日常
翌日、七月二日の朝、幸多は予定より早く目が覚めた。
見慣れない天井が視界に飛び込んできて、ああ、引越をしたのだと思い出す。それからふと隣を見ると、統魔の寝顔があった。
(そういえば、そうだった)
幸多は、彼のあどけない寝顔を見つめながら、昨夜のことを思い出した。
真夜中のことだった。不意に部屋の扉が開いたかと思うと、統魔が幸多の隣に寝転んできたのだ。思わず目を覚ました幸多に対し、彼は一言こういった。
「眠れないんだ」
そういわれれば、返す言葉も見当たらない。
昔からそうだったからだ。
統魔は、子供のころから、寝付きが悪かった。しかし、特に眠れない夜も、幸多が添い寝をすることですぐに眠りに入った。どういう理屈なのかはわからないが、母がいうには、幸多がいると安心するのだろう、ということだった。
そういう話を思い出すと、統魔が幸多の引越に積極的だった理由の一つがそこにあるのではないか、と、思い至る。
幸多は、小さく微笑んで、寝台を抜け出した。
昨夜の内に探検した成果もあり、部屋の間取りはほぼ覚えていた。
幸多の部屋は、玄関から真っ直ぐ伸びた廊下のすぐ右手にあり、対面の部屋が統魔の部屋だ。統魔の部屋の扉が開きっぱなしなのは、彼が幸多の部屋に忍び込んできたときのままだからだろう。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
それから適当に見繕った朝食を口にしながら携帯端末でネット放送を見ると、今年の対抗戦を振り返る特集が組まれていた。
もう十日以上前のことだが、央都市民の間では、今もなお熱い話題として取り上げられているようだった。
それから部屋に戻り、服を着替えていると、寝台のほうで物音がした。もそもそと掛け布団の中から体を起こした統魔が、寝惚けまなこを擦る。
「なんだ? もう行くのか?」
「今日は学校」
「学校……そうか……」
統魔は、興味なさげにつぶやくと、再び布団の中に潜っていった。
七月。
夏も始まったばかりであり、気温は上がっていく一方だが、室内の温度は最新型の空調機によって二十六度に保たれていて、少し寒いくらいだった。統魔が布団に潜り込むのも、そうした理由からだろう。
幸多は、そんな統魔に笑みを投げかけて、部屋を出た。
普段より早い出発は、ここが葦原市の中心部であり、今まで天燎高校に通っていたミトロ荘とはまるで勝手が異なるからだ。
どこをどう進めば天燎高校に辿り着けるものなのか、まるでわからない。
そこで携帯端末を使い、空中に投影した幻板に地図を表示し、目的地までの道順を描き出させる。その道順通りに進めば問題ないということだ。
それでも時間的にどれくらいかかるものかわからないこともあり、普段より早く出発することにしたのだ。
天燎高校の制服に身を包み、手には鞄を持ち、腕には転身機を装着している。導士の必須道具である転身機は、どこにでも装着できるような作りになっているのだ。
早朝の空は、あざやかなまでの青さであり、爽やかさすら感じられた。まだ夏の暑さを感じるほどではなかった。
携帯端末に示されるままの道順を進めば、さほど迷うこともなく、天燎高校の校門が見えてきた。
ただし、校門前には学生一人いなかった。
時間は六時半。
少々どころか、かなり、いや、めちゃくちゃ早かった。
(ちょっと、心配しすぎたかな)
幸多は、内心苦笑しながら、開放されている校門の内側に足を踏み入れた。
そうしているうちに教師に呼びかけられたが、相手が幸多だと気づくと、むしろ教師のほうが恐縮したようだった。
幸多は、もはやただの学生ではない。
戦団の導士である。
故に、その扱いには、教師側も困り果てるほかないとでもいわんばかりだった。
幸多が天燎高校に在籍し続けることに関しては、教師たちの間でも大きな話題となった。理事長である天燎鏡磨は大いに喜んだというが、校長の川上元長以下の教師陣の大半にとっては、必ずしも喜ばしいことではなかった。
戦団の導士となれば、一般の生徒たちと同じ扱いをしていいものかどうか、判断に迷うところだからだ。
「同じで良いだろう」
理事長は、職員会議の場に現れると、事も無げに言った。
「彼が望んで在籍するというのだ。特別扱いを望んでのことではあるまい」
「それは……そうでしょうが」
校長は、理事長の威光の前に言い淀み、ついには口を閉ざした。それは確かにその通りなのだろうが、だからといって、戦団の導士様と学生たちと同じ扱いにしては、この現行秩序に対する反抗になるのではないか、と、教師たちは戦々恐々とする。
この央都、この人類生存圏における社会秩序の中心は、戦団だ。戦団こそが法であり理であり、秩序そのものなのだ。戦団あってこその央都であり、戦団あってこその市民の生活である。そうである以上、戦団の導士たちには便宜を図るというのが、賢いやり方だった。
それは、一般市民からすれば日夜央都の平穏を護ってくれている戦団の導士たちへのある種の恩返しでもあったし、そうすることで導士たちがやる気を出してくれるのであれば、安いものだった。
市民は、導士と持ちつ持たれつの関係でありたい。
対等とまではいかないにせよ、導士たちに無下にされることのない立場でありたいといのが、本音なのだ。
無論、人類復興を標榜とする戦団が、央都市民を無下に扱うことなどありえないこととはいえ、だ。それでも、関係性は良好なものでありたい、と思うことは、央都を生きる人々にとって当たり前の感情だった。
だから、生徒にして導士たる皆代幸多の扱いには、細心の注意を払うべきだ、と、教師陣は考えを一つにした。
そんな教師たちの考えに疑問を持つのは、小沢星奈くらいのものだった。
小沢星奈は、皆代幸多のひととなりをほかの教師陣よりも多少なりとも詳しく知っているつもりだった。担任として三ヶ月余り接してきたということもあるが、対抗戦部の顧問として、その練習の半分以上を見てきたという自負もある。
彼がどれほどの熱意でもって対抗戦に挑んでいたのか、星奈は、その眩いばかりの輝きを思い出しては、目が眩むような感覚に陥るのだ。
皆代幸多という一人の人間が、全生命を賭してでも優勝を勝ち取りたかったのは、導士として優遇されたいから、などという下卑た俗物的な考えからではないのは明らかだった。
そのことを職員会議で強く主張できなかったことを悔やんでいた星奈だったが、生徒の姿がほとんどない校内に幸多の姿を見つけて、思わず声を掛けてしまった。
「皆代くん、おはようございます。今日は随分と早いのね」
「おはようございます、小沢先生。昨夜引っ越したばかりだったんで、何時に出発したらちょうどいいのかわからなくて、早くに家を出たんですよ。そうしたら」
「早く着いてしまった、ということね。きみらしいわね」
「そうですかね」
「ええ。とっても」
星奈は、幸多の朗らかな笑顔を見るだけで、胸が熱くなるのを認めて、内心苦笑するほかなかった。対抗戦決勝大会に未だに囚われている央都市民は少なくないが、どうやら自分もその一人だった。昨年まで対抗戦に一切の興味も持たなかったのに、だ。
少しばかり関わったというだけで、これほどまでに心に残るものだろうか、と、不思議に思うが、対抗戦部の戦いぶりを目の当たりにすれば、当然のことだとも思い直す。
彼らは、まさに命を燃やすような戦いをして見せたのだ。
その結果、優勝した。
それは天燎高校始まって以来の快挙だった。
対抗戦を嫌悪し、忌避し続けてきた天燎高校にとって、永遠に縁のないものだと思われていた出来事だ。天燎高校史に燦然と輝く出来事であろうし、それまで対抗戦に興味を持っていなかった天燎高校の生徒たちも熱狂し、教師陣の誰も彼もが幻闘の最終決戦を熱く語り尽くすほどのだった。
今では、天燎高校の二連覇を懸けて対抗戦部に力を入れるべきではないか、という考えが主流になっているほどであり、対抗戦部に入部希望者が殺到しているという有り様だった。
これまで、対抗戦の時期にだけ作られ、対抗戦予選大会が終わるなり解散していた対抗戦部は、今大会の優勝を契機として、存続し続けることになるのかもしれなかった。
それもこれも、幸多率いる対抗戦部が優勝を飾ったからにほかならない。
しかし、幸多は、以前となんら変わらない様子で教室に向かっており、その颯爽と歩く姿には、相変わらずの穏やかさがあった。
そのことに星奈は、なんだか安心する想いだった。




