第千二百二十八話 杖、掲げるとき
オトロシャ軍による央都への攻撃が始まって、一週間が経過した。
被害は央都全土に及んでおり、死傷者は千人を軽く越えていた。導士、市民に関わらず、だ。幻魔災害である。いつ何時どこでも起こり得るものであり、発生と同時に生じる被害を抑える方法はない。
予め市内全域の魔法防壁を張り巡らせることができれば、それも不可能ではないのかもしれないが、そもそもその前提が不可能といっていい。
四六時中、央都全土を覆う結界を構築し、維持し続けるためには、相応の人数が必要だ。それこそ何千人という導士を動員すれば、不可能を可能にすることもできるだろうが、その結果、幻魔討伐のための人手が足りなくなる可能性もある。
様々な可能性を考慮すれば、そのような力技に出られるわけもなかった。
戦団上層部が会議を開くのも当然の事態。
戦団本部本部棟大会議室に集まったのは、本部滞在中の数名の星将だけであり、それ以外の最高幹部は皆、出先から参加し、幻板越しに顔を並べていた。
葦原市の防衛任務を担当している軍団長たちですら、だ。
この非常時である。
軍団長とはいえ、戦団本部に腰を据えていられるわけもなかった。
「――オトロシャ軍による攻撃がこのまま長期的に続くようであれば、我が方の損害ばかりが増えることになる。無論、オトロシャ軍の兵力を削ってもいるのだが……総数が桁違いだからな」
とは、戦務局長・朱雀院火流羅。忌々しげに見据える幻板には、現在発生中の幻魔災害に関する情報が流れていた。いままさにオトロシャ軍による攻撃があったのだ。そして、それらに対応するべく、各軍団の導士たちが現地へと急行、戦闘を開始したという。
オトロシャ軍の総兵力は、五千万ほど。
以前、オベロンが戦団に提供した情報通りならば、だが。
霊級までも含まれた数とはいえ、とてつもない兵力であることはいうまでもない。
一方、央都の人口が百万人を越えたところに過ぎず、そのうち戦闘要員となれば一割にも満たない。当然だ。市民の大半は、戦闘訓練を受けていないのだ。生粋の魔法士であっても戦闘訓練も受けていないものが、戦力として数えられるはずもない。
学生時代に魔法の基礎を叩き込まれこそすれ、専門分野の魔法ならまだしも、幻魔との戦闘を想定した魔法を学び、鍛え上げるものなど、そうはいない。いたとしても、戦団が一般市民を頼るわけもないのだが。
また、霊級、獣級程度、恐るるに足らないというのは、導士目線での話だ。
霊級、獣級が突如として町中に現れれば、一般市民には為す術もないし、対応が遅れれば、被害は加速度的に拡大する。
散発的とはいえ、こうも継続的に戦力を送り込まれ、被害が増え続けている現状を鑑みれば、霊級、獣級といった等級は関係なしに人類にとっての脅威と見做すべきだ。
「この一連のオトロシャ軍による特攻戦術は、兵力差にものをいわせたものです。オトロシャにしてみれば、配下の幻魔がいくら死のうが関係ないのですから、それでこちらの戦力を減らし、士気を下げることができるのであれば、なんの問題もないのでしょう。むしろ、雑兵の存在に初めて価値を見出したしても、なんら不思議ではありませんね」
「うむ。鬼級とは、そういうものだな」
「そしてこれは、オトロシャが迂闊に動けないからこその戦術だということでもあります」
「オトロシャ自身が動けるのなら、わざわざこのような手間を取る必要がないものな」
オトロシャは、とてつもなく強大な力を持った鬼級幻魔だ。複数の鬼級幻魔を力で抑えつけ、従えているという事実があるだけでなく、広大な〈殻〉を持っていることも、それを証明している。〈殻〉の大きさが、殻主たる鬼級幻魔としての格を示しているといっても、過言ではない。
恐府は、央都近郊における最大規模の〈殻〉であり、その殻主たるオトロシャは、何十年も前から戦団がもっとも警戒していた鬼級幻魔なのだ。
そして、水穂市全域を一瞬にして制圧した精神魔法の凄まじさを目の当たりにすれば、その力に疑問を持ちようがなかった。
また、水穂市制圧がため、みずから出向いてきたという圧倒的な事実が、オトロシャがいま置かれている状況を示しているのだ。
「オトロシャは、能動的であり、積極的だ。目的を達成するためならばみずから動くことも辞さず、手段を選ばない。だが、短慮ではない。むしろ、思慮深く、長期的に物事を考えられる幻魔のようだ」
「だからこその、この一連の攻撃だろうな」
朱雀院火流羅の意見にうなずき、神威は、渋い顔をした。
人類は、央都は、いままさに絶体絶命の窮地に立たされている。
オトロシャ軍による特攻戦術は、この一週間、一日も休むことなく続いていた。当然、昼夜など関係なかったし、いままさに央都の各地で戦闘が行われているのだ。導士の勝利は疑いようがない。問題は、戦闘に伴う被害の拡大だ。
導士と幻魔の戦闘は、激しい魔法合戦だ。となれば、結界魔法によって戦場を形成したところで、被害を完全に抑え込むことなどできるわけがなかった。それでも、だれもがオトロシャ軍の攻撃による被害を減らすべく、死力を尽くしている。
それはつまり、導士たちが消耗を余儀なくされているということだ。
もちろん、各軍団全導士が常に任務に当たっているわけではない。交代制で、しっかりと休養を取らせてもいる。
だが、こうまで幻魔災害が頻発すれば、次第に消耗していくのは当たり前のことだった。
そしてそれこそが、オトロシャの狙いなのは火を見るより明らかだ。
「オトロシャの狙いは明らかだ。我が方が消耗し尽くし、恐府への牽制攻撃を取り止めさせることこそ、奴の目的だろう。恐府の安全を、殻石の無事を確保し、央都へ攻め込むために」
「……だとすりゃ、随分と暢気な作戦じゃねえか? 圧倒的な戦力差があるっていうんなら、もっと大量の兵隊を送り込んでくればいいだけじゃねえのか」
「そうだな。そのほうがこちらに大打撃を与えられるというもの。しかしこの一週間、オトロシャ軍が本格的に侵攻してくる気配はない」
「ああ。いまのところ、散発的な攻撃だけだ」
「……オトロシャが全軍を動かせないのは、当然のことだろう。オトロシャは、どうやら〈殻〉を確保を第一に考えているらしい。殻石化を解除すれば、我が方の牽制攻撃など無視できるのだが、それをせず、兵士を頼みとしていることからも間違いない。そうである以上、戦力の大半を動かし、〈殻〉を空にすることも望ましくないはずだ。それで戦団を攻め滅ぼし、央都を制圧することができるのだとしても、攻撃を受ける可能性が出てしまう」
「攻撃……なるほど」
神威の淡々とした説明に、美由理は納得した。
オトロシャは、巨大な〈殻〉の主だが、絶対者などではない。この魔界に数多いる鬼級幻魔の一体に過ぎず、その座は、常に脅かされているといっても過言ではないのだ。だからこそ、オベロンやトールといった鬼級を服従させ、腹心としたのだろうが、それで安心できるかといえば、そんなはずもない。
恐府の周囲には、多数の〈殻〉があり、それらは常に自分たちよりも強大な〈殻〉の隙を窺っているはずなのだ。
オトロシャが隙を見せれば最後、恐府は甚大な被害を受けることになりかねない。
故に、オトロシャは、恐府を動けないし、戦力を動かせない。
「だから、この特攻戦術で央都の安全を脅かそうって?」
「少しでもこちらの戦力を削りつつ、世情を不安定にさせ、人心を恐怖に陥れる――幻魔らしいやり口とはいえないが、まあ、考えられないほどじゃないな」
「うむ。そして、なればこそ、我々が動かなければならない」
神威は、前方に展開した幻板を睨み据えた。
そこに表示されているのは央都周辺の地図であり、それを一瞥すれば、葦原市の北東部に君臨する恐府の巨大さがわかるというものだった。恐府は、葦原市の二倍近くの広さを誇る〈殻〉だ。そこに五千万もの幻魔が犇めいていると考えられており、それらが人類生存圏に雪崩れ込んできた場合、戦団に為す術はない。
だが。
「オトロシャは、恐府を動けない。腹心たるオベロンを討たれたいま、我々の戦力を侮る素振りさえ見せなくなった。牽制攻撃部隊にすら慎重に対応しているのがその証だ。オベロン討滅以前には考えられないほどの慎重さは、油断すれば最後、己が首を絞めかねないことを理解しているのだ。そしてこの度の特攻戦術。オトロシャが人類生存圏制圧の野心を掲げ続けるというのであれば、我々も抗い続ける以外にはないし、それでも諦めないというのであれば、奴の心臓に杖を突きつけるだけのことだ」
「杖を突きつける……」
「そうだ!」
神威は立ち上がり、拳を振り上げた。
「我らは導士! 杖掲げる人類の導き手! 人類の未来に希望の光を灯すため、いまこそ、恐府を攻略する!」
神威の宣言は、大会議場とそれに連なるすべての場所、すべての空間に響き渡った。それを聞いていた戦団最高幹部のだれもが、決意と覚悟を改め、拳を握り締めた。
恐府は、央都にとって最大の敵といっても過言ではない存在だった。長らく沈黙を保っていたものの、そうした状態がいつまでも続くわけもないことはわかりきっていたし、いずれ攻め滅ぼさなければならないことも、だれもが理解していた。
央都近隣における最大の〈殻〉にして、最大の敵。
それが恐府であり、オトロシャなのだ。
そのオトロシャが目覚め、水穂市に降臨したあの日、戦団は、改めてその存在を認識した。
斃すべき、滅ぼすべき存在を。
そして、ついにそのときがきたのだ。




