第千二百二十二話 九月機関の子供たち(五)
「初めて本物の空を見たとき、心が洗われる感覚に襲われたのをいまもはっきりと覚えているよ。なんの誇張もなければ、大袈裟な表現でもない。それがそのときその瞬間のわたしの本心で、わたしは、この空の下で生きていたいと思ったんだ」
そのように語る静馬の脳裏に浮かぶのは、数十年経ったいまも色褪せない空模様。
魔暦百八十二年、地上移住計画にやっとの想いで参加することができた彼は、意気揚々《いきようよう》と大昇降機に乗ったものだった。そのときの高揚感たるや、ネノクニの閉塞感を一瞬にして吹き飛ばすものであり、未来への希望に満ち溢れたものだった。
それがたとえ絶望的な現実に叩きのめされようとも、そのときの気持ちは、嘘ではない。
地上移住計画は、統治機構が一部の市民にのみ情報を開示し、募集していたものであり、募集に引っかかったということは、合格する見込みがあるということだ。そしてそれは、統治機構にも央都政庁にも期待されている証明である――そんな与太話を信じたわけではないが、静馬は、地上移住計画の概要を聞いた瞬間、即座に応募を決めたものだった。
そして、当選した。
ゆっくりと地上へ向かっていく大昇降機の台座の上で、次第に膨れ上がるのは興奮と期待、そしてわずかばかりの不安だった。
「不安? なんで?」
「期待外れだったらどうしよう――そんな馬鹿げた不安だよ。きっと想像力が豊かすぎるんだ。だから、そんなことに不安を抱く」
静馬は、子供たちに言い聞かせるようにして、微笑する。きっと、ふたりにも思い当たる節があるに違いない。それは間違いなく、魔法士ならばだれにも当てはまることだからだ。
魔法士には、想像力が必要不可欠であり、極めて重要なものだ。優秀な魔法士ならば尚更であり、戦団の導士になるほどの人間ならば、いわずもがなだろう。
想像力こそが、魔法の源なのだから。
「まあ、そんな不安は、空を見たときに吹き飛んだんだよ。そして、この空をいつまでも眺めていたいと思った」
それが最初。
高砂静馬にとってのすべての始まりといっても過言ではない。
それから静馬は、戦団に入った。
静馬は、既にネノクニにおいて、生命技術の分野で名を知られ始めていた。故に戦団が彼を欲したのであり、静馬としても願ったり叶ったりだったから、戦団からの勧誘に即断即決で応じている。
地上は、統治機構の管轄外、戦団の領土である。表向き、央都政庁が統治者の顔をしているものの、戦団こそが真の支配者だという事実は、公然の秘密だった。
戦団に関わるということは、つまり、地上の現在、そして未来に深く関与できるということにほかならない。
ましてや、生命技術ならば、なおさらだ。
「得意の分野で戦団に関われるんだ。それに越したことはないだろう?」
そして、静馬は、戦団技術局の一員となり、日夜働き続けた。あくる日もあくる日も、技術局の導士として、技術者、研究者として、命を削り続けたのだ。
そんな彼が戦団を離れる決意をしたのは、魔暦百九十四年のことである。
「わたしが戦団で働いたのは、八十二年から九十四年までの十二年ほど。その間、わたしなりに戦団に貢献したと自負しているよ」
魔導強化法を始めとする様々な生命技術の根幹部分に関わり、それらが正しく評価されたからこそ、戦団上層部も彼を引き留めるのに必死だった。戦団上層部は、静馬を中心とする生命技術部門の設立すら考えているといい、それによって彼が戦団に所属し続けてくれることを望んだ。
しかし、彼は、そうした手を振り払い、戦団を辞した。
「戦団を辞めた理由は、戦団ではわたしの夢を叶えられないと踏んだからだよ」
「夢?」
「そう、夢。夢は、大切だ。夢こそ、人間を突き動かす原動力であり、想像力の根源といっても過言じゃない。つまり、魔法士にとっての力の源でもあるということだね」
「夢……」
真白は、静馬の言葉を反芻するようにして、胸に刻みつける。夢。当然だが、初めて聞くことばでもなければ、めずらしい概念でもない。だれもが夢のために生きていて、夢のために死んでいく。
こんな世界でも――いや、こんな世界だからこそ。
皆、夢を胸に抱き、命を燃やす。
そうでなければ、生きていくこともままならないのではないか。
「わたしの夢は、きっと、戦団に否定される類のものだった。たとえば、生命倫理に抵触するような技術は、戦団は忌み嫌うからね。神木神威複製計画や伊佐那麒麟複製計画を推し進めておいてなにをいうのか、と思うだろうが、組織とはそういうものなんだ。戦団という組織の中枢に深く食い込んでいるのであればともかく、そうでないのなら、人道に外れたものは排除されるしかない。それがたとえ、人類の未来を切り開く技術であったとしても、だ」
「……ん?」
「どうしたの?」
「あ、いや……所長は、戦団を退職したんだよな? だったらなんで、複製計画について知ってるんだ?」
「あ……」
黒乃は、真白の疑問を聞いて、あんぐりと口を開けた。いわれてみれば、確かにおかしい。
静馬は、技術局の高級技師だった人間だ。戦団上層部と関わりを持つくらいだから、それなり以上に戦団に詳しく、機密情報を持っているのは当然として、秘されるべき暗部に触れている可能性すらある。
それこそ、神木神威複製計画や伊佐那麒麟複製計画の存在がそうだ。
となれば、記憶の封印処置が行われて然るべきではないか。
戦団を退職することは、自由だ。導士の権利として認められているし、戦団側も無理強いして止めることはない。どれほどの功績を積み重ね、能力を発揮していようとも、本人が戦団を辞するというのであれば、止められないのだ。
ただし、退職時に記憶の精査が行われ、外部に漏らしてはならない機密情報が確認され次第、封印処置が行われるという決まりがある。
これも、戦団が長年、組織として堅牢で在り続けられている秘訣のひとつだろう。
「……記憶はね、封印されたんだよ。当然だ。わたしは、戦団の機密に触れすぎた。ノルン・システムも随分と活用させてもらったし、部外者が知ることのできない様々な情報を知った。だから、わたしの記憶の中で、戦団の機密に関するすべてが封印されたわけだ」
「だったら、どうしてそれを知ってるんだ? おかしいじゃないか」
「うん……」
「封印されるのがわかっていたからね。色々と手を打ったんだ。でなければ、戦団を辞める理由がない。戦団で得た知識、技術を外で発揮するためにこそ、退職するんだからね」
静馬は、手を打ったとはいったものの、その内容について説明することはしなかった。そこが本題ではない。どうにかして戦団の警戒網を潜り抜けた、それだけの技術力があったということがわかってもらえれば、十分だった。
九十九兄弟は納得してくれないかもしれないが、仕方がない。
大事なのは、ここからだ。
「そして、わたしは晴れてただの人間になった。央都の一市民にね。そんなわたしがすぐさま立ち上げたのが、九月機関だ。九十四年の九月に立ち上げたから、九月機関。安直だろう」
「安易すぎ-」
「わかりやすくていいと思うけど……」
「そうだね、わたしもそう思うよ。わたしとしては、名前はどうでもよかったんだ。大切なのは、中身だ。九月機関がなにを研究し、なにを作り上げるための研究機関なのか。なぜ、戦団を辞めてまで、外部に研究機関を立ち上げたのか。全財産を擲ったのか。そこだろう」
「全財産を……」
「擲った?」
「技術局の高級技師だったからね。まさに高給取りだったわけだけれど、戦団で働いている間は、お金を使うということがなかった。暇がね。だから貯まりに貯まったお金を、すべて、活動資金にしたんだよ。それくらいの覚悟と決意が必要だと判断したわけだ」
静馬は、九月機関総合研究所の土地を買い取ったときのことを思い出した。
当時は大和市が開発中だったということもあり、土地は有り余っていた。故に必要なだけの土地を手に入れるのに大した手間はかからなかった。戦団の人間が静馬の周辺を嗅ぎ回っていることは知っていたが、そんなものは当然のことだと理解してもいた。
戦団を退職し、新たに研究所を作ろうというのだ。
それが戦団の敵になるとは思ってもいないだろうが、気にならないはずがない。徹底的に調べ上げ戦団に利する存在ならば利用し、害する存在ならばそれ相応に対処する――それが戦団のやり方だったし、静馬自身、そのような方法で戦団の敵を秘密裏に処分してきている。
だから、静馬は、戦団の手のものを放置した。静馬が戦団の敵になるつもりがなかったから、というのも大きいが。
「そして、九月機関総合研究所が誕生したけれど、まあ、当初は人手不足でね。できることは限られていたよ」
だが、それでも、自分の城を持つというのは、充実感があった。
それまでの戦団の一研究者、一技術者としての日々も満ち足りたものであり、なんの不満もなかったのだが、夢を叶えるにはなにもかもが物足りなかったのも事実だ。
九月機関に集まったわずか数名の研究者たち。
されどそこには、無尽蔵の夢があり、希望がある。
「それでも、わたしは嬉しかった。これでわたしの夢を推し進めることができるんだ、とね」
完成した総合研究所の外観を目の当たりにしたとき、静馬の胸中に満ちたのは、限りない熱意と無尽蔵といっても過言ではない希望だった。
夢が、確かに動き出したのだ。