第千二百二十一話 九月機関の子供たち(四)
考え抜いた結果、彼は、最初から話すことにした。
高砂静馬の最初とは、やはり、この世に生まれ落ちた日になるだろう。
「わたしが生まれたのは、魔暦百六十年三月二十一日。ネノクニで、だよ」
つまり、現在彼は六十二歳ということになるのだが、一見しただけではそれとはわからないくらい、健康的で若々しい外見をしていた。それは、静馬自身が一番理解していることであり、だれもが認めている事実だ。
そして、それはなにも彼だけの特別な事情ではない。
旧時代とも呼ばれる魔法の存在しなかった時代では考えられない血色の良さ、皺の少なさ、目の鋭さ――全身に漲る生気が、齢六十を越えた人間と思わせなかった。もちろん、その感覚は、旧時代のことをよく知らなければ持ち得ないものであり、魔法時代に生まれ育った現代人には当たり前のものに過ぎないのだが。
静馬も、同じだった。
中年だろうと老人だろうと、いつまでも若々しく健康的な肉体を維持し続けられるのが魔法社会であり、そこになんら疑問を抱いていなかったし、むしろ当然のこととして受け止めている。
魔法の発明と開発、普及と蔓延は、人類全体を魔法士へと生まれ変わらせ、結果、だれもが斧手の生命力を増幅させることに成功したのだ。
それはきっと喜ばしいことだったはずだ。
だれもが当然のように魔法を学び、当たり前のように習得するのが魔法時代だ。呼吸をするように呪文を紡ぎ、言葉をかわすように魔法を唱え――全身を絶え間なく循環する魔素が、体中の細胞という細胞を活性化させ、命を輝かせるのだ。
さらに魔法による様々な分野の発展、発達が、人間の寿命を延ばしていったことも忘れてはならない。
もっとも、寿命がどれだけ伸びようとも、だれもが容易く百年生きられるようになろうとも、魔法の万能性に溺れたものたちによる暴走は食い止められなかったし、挙げ句の果て、地球全土に壊滅的な被害をもたらし、悲劇的な末路を迎えることになってしまったのだから、なんともいいようがないが。
ともかく、だ。
「生まれ育ったのは、ごくごく普通の家庭だった。父も母も平凡なひとで……だから、きっと幸福だったんだろう」
「……なんだか曖昧な感じ」
「子供のころの記憶は、妙に曖昧なんだよ。哀しいかな、父の顔も、母の顔も思い出せないんだ」
「おれたちも……だよな、黒乃」
「あ、うん……そうだけど……」
黒乃が真白に対して、渋々同意したのを見て、静馬は、目を細めた。もしかしたら、黒乃はなにか感づき始めていたのかもしれず、であれば、ちょうど良い機会かもしれなかったからだ。
これから彼らに語ることは、その出生に関わることだ。
「――両親との想い出はこの際どうでもいいんだ。大事なのは、わたしが大人になってからだよ」
「大人になってから?」
「地上奪還作戦が結構されたのは、わたしが十歳のときだ。当時のわたしには、それがどれほど重大なことだったのか、まるで理解できていなかった。周りの大人たちは、きっと理解し、だから興奮していたのだろうし、成功を祈っていたのだろうけれどね。子供のわたしには、ヴァルハラゲームがしばらく見れないという事実のほうが大きかったかな」
「ヴァルハラゲーム?」
「いまでいう幻闘のようなものだよ。ネノクニの全市民が熱狂していたほどだから、幻闘とは比較にならない中毒性があったのは間違いないね」
「へえ……」
「ちなみに、だ。地上奪還作戦の主要人員は、ヴァルハラゲームの参加者だったんだよ」
「総長閣下とかが?」
「うん。神木神威の勇姿は、いまも思い出せるよ。若々しく、荒々しく、そして、神々しくすらあったな。彼が一番人気だったのも頷けるというものさ」
話が逸れ始めたことに気づいた静馬は、小さく咳払いして、軌道修正を図った。ヴァルハラゲームの話題になると、つい興奮してしまう。子供の頃の記憶が蘇り、感情が熱を帯びるのだ。
「まあ、なんだ。ヴァルハラゲームの主役たちを総動員し決行した地上奪還作戦は、成功した。ここからが、問題だった。地上奪還作戦は、統治機構が主導し、地上奪還部隊に実行させたものだ。成功し、地上の一部を人類の手で取り戻せたのなら、その土地は、統治機構のものになるはずだ。奪還部隊は、統治機構の兵隊に過ぎないのだからね」
「そりゃあまあ……そうだよな」
「うん」
真白も黒乃も、その点に関しては異論はない。
無論、なぜ、地上の土地が奪還部隊のものになったのかについては、央都の常識として知っているし、奪還部隊が統治機構を見限った理由も納得のいくものだったから、統治機構の肩を持つようなことにはならない。むしろ、地上奪還部隊にこそ同情し、統治機構の悪辣さに憤りすら覚えるものだ。それが戦団による思想教育の結果なのだとしても、現在の統治機構がそうした戦団の考えを否定することもなければ、意見することもない以上、事実ではあるはずだ。
そして、過去の過ちを認められる統治機構だからこそ、戦団と良好な関係を結べているに違いない。
「統治機構と奪還部隊の間でなにか問題が起きて、険悪どころか一触即発といった事態になっていたことを知ったのは、もう少し後になってからだった。当時は、なにがなんだかわからなかったな。本当に地上奪還作戦が成功したのかどうかすらね」
つまるところそれは、ネノクニにおける情報源が統治機構だけであり、統治機構による情報統制が完璧だったからにほかならない。
ネノクニ市民は、統治機構というフィルターを通した限りなく濾過された情報だけを摂取していたのである。故に、統治機構の一方的な主張を鵜呑みにし、奪還部隊の裏切りにより地上の土地が占拠されてしまったと信じていた。
そう、ネノクニの人々は、奪還部隊を敵と見做してすらいたのである。
「奪還作戦が成功し、奪還部隊が人類復興隊と名を変え、央都の建造を始めたという話が入ってきたのは、ようやく、統治機構と地上の間で交渉が持たれてからのことだったんだ。そして、双方の同意により、地上移住計画が始まった。まったく……ネノクニの一般市民にはなにがなんだかわからなかったというのが正直な話だよ」
嘆息とともに静馬はいった。統治機構と奪還部隊の間でなにが起きたのか、当時の市民には明らかにされないまま、両者の間で和議が結ばれたのだ。市民たちには、やはり、統治機構によって濾過された情報しか落とされてこないため、全貌どころか輪郭すらも把握できなかった。
そして、地上移住計画。
元より千人にも満たない超少数精鋭だった地上奪還部隊は、地上奪還作戦の死闘の中でかなりの数の戦死者を出していた。生き残ったのは、およそ五百人。そのうち、戦闘要員は百人ほどであるといい、後方支援部隊のほうが数多く生き残ったということだった。
その五百人あまりで、リリスの〈殻〉バビロンの跡地を開拓し、央都を基礎から作り始めたというのだから、凄まじいとしか言い様がない。それこそ、統治機構への怒りを原動力としていたことはいうまでもないし、だからこそ結束し、だれもが命を燃やしたのだろうが。
もちろん、それではまったく手が足りないから、忌み嫌っていた統治機構と交渉を持ったのであり、地上移住計画が立案されたというわけだ。
もっとも、ネノクニ三十万市民のうち、地上に移住できるのは限られた一部の人間だけだった。
当然のことだ。
地上は、魔界である。
魔天創世以来、数倍から数十倍に増大した魔素濃度は、旧世代の人間では耐えられず、触れた瞬間、魔素圧によって肉体そのものが崩壊してしまうということがわかっていた。
異界環境適応処置を施術された新世代の人間でなければ、地上に順応することはできない。
異界環境適応処置が発明されたのは、魔暦百四十六年頃のことだが、実際に施術されたのは選ばれた一部の人間だけだった。その最初期の実験体が、神木神威を始めとする地上奪還部隊の戦士たちであり、その成功を受け、広く行われるようになった。
ただし、秘密裏に。
統治機構は、異界環境適応処置を最高機密とし、戦団がその存在を明らかにするまで隠し続けていた。
公開主義的な戦団とは正反対ともいえる統治機構の秘密主義は、長らくネノクニの支配者として君臨し、なにものにも侵されざる聖なる領域であったことに由来するのだろう。そして、だからこそ、戦団の台頭によってその力を失い、情報を開示していかなければならなくなったのだろうが。
それは、それとして。
「地上移住計画は、順調だったらしい。当時十代の子供のわたしには知る由もなかったから、伝聞に過ぎないがね」
そんな静馬だったが、長ずるにつれて、色々な情報が耳に入ってきて、地上に興味を持つようになった。ネノクニの閉鎖的な環境は、彼の好奇心を満たすにはあまりにも物足りなかったし、息が詰まりそうだったのも事実だ。
地上に出て、空を見たい。
本物の空には、無限の広がりがある――そんな話を地上移住者の声として聞いたからだ。
「地上に出れば、いまのこの鬱屈した感情を吹き飛ばすことができるんじゃないか。子供の考えることだ。どこまでも幼稚で、浅はかだろう」
「そうかな……」
「おれは、そうは想わないけど」
「……きみたちは、優しいね」
静馬は、我が子たちの気遣いに微笑んだ。真白も黒乃も、静馬の側に立って、物事を考えてくれている。
これから突き付けなければならない事実を胸の奥に仕舞い込みたくなるくらいだ。
だが、と、彼は胸中で頭を振る。
これからのことを考えれば、いま話しておくべきだった。