第千二百三話 新たなる始まりを(十五)
それがなんであるか、知らないものはいない。少なくとも、導士にとっては。もはや常識といっても過言ではない存在だった。幻魔。等級は鬼。しかしながら、それは幻魔としての等級の話であり、鬼級の中でも最上位に君臨する幻魔であると推定されている。
名は、サタン。
敵対者の名を持つ幻魔は、みずからを悪魔と名乗り、〈七悪《しちあk》〉なる悪魔の集団を率いていた。
そして、その姿は、どういうわけか、皆代幸多と同じなのだが、その理由はいまもなお不明のままだ。
体格、髪の色、顔の形――なにからなにまで皆代幸多と同じなのだが、一箇所だけ、明確に異なる部分がある。目だ。目の虹彩が、まるで違うのだ。
サタンの幻魔特有の赤黒い瞳に、流人の姿が映り込んでいた。これが、翡翠色の星装を纏う自分自身の姿を見る最初で最後なのだという確信が、流人の中に沸き上がる。
サタンこそ、死の形だ。
死が具体化したもの。滅びの具象にして、全ての終わり。揺るぎなき暗影――。
「サタン……!」
「そう、ぼくはサタン。そしてここは、墓穴の底だ。奈落の終点。死の谷の深淵。その意味がわかるかな?」
サタンは、皆代幸多の顔と声で、しかし傲岸不遜そのものといえるような仕草をすることによって、彼とは別の存在であることを主張していた。顔も体も声も、ほとんどすべてが皆代幸多と一致するのだが、態度だけは彼を模倣していなかった。できないのかもしれないし、していないだけなのかもしれない。
もっとも、流人にとってはそんなことはどうでもよかった。ただ、全身が強張り、動くこともままならないという事実にこそ、憤慨する。その怒りが熱となって体中を駆け抜けてもなお、金縛りに遭ったような感覚の中で、身動きひとつ取れない。
闇。
そう、膨大な闇が視界を埋め尽くしている。
サタンが現れ、つぎに起きたのがそれだ。それがなんなのか、まるでわからない。サタンの言葉から察するに、空間転移でも起きたのではないか。だとすれば、この上なく高度な空間転移魔法だろう。
魔法士《人間》が用いる空間転移魔法は、対象を指定座標へ転送するのが精一杯だ。
しかし、サタンは、自分自身と対象を含む空間そのものを任意の座標へ転送したようだった。でなければ、サタンの姿が流人の目の前にあり続けるはずがない。
「なぜ、どうして、といった顔をしているね。ぼくとしても、本当はこんなことはしたくなかったんだけどさ。仕方がないんだよ。きみは、いままさに人間の限界を超えた」
「な……に……?」
サタンの手が伸びてきて、流人の額に触れた。幸多と同じ大きさの手が、しかし、想像以上の大きさで、流人の頭を掌握する。その手の内の熱が、手のひらから額、頭頂部へと伝わった。それが痛みに変わるまで時間はかからなかった。
「ぼくはサタン。敵対者であり、裁定者。人類を、その魔法の在り様を監視し、審判するもの。そしてきみは、裁かなければならなくなった」
「裁く? おまえが?」
「そうだよ。きみは、良くやった。本当に、良くやった。たったひとりで鬼級幻魔を斃したんだ。だれも成し遂げたことのない偉業じゃないか。戦団史に、いや、人類史に残る偉業といっていい」
「は……」
サタンの手のひらから伝わってくる熱がもたらす痛みに顔を歪めながら、流人は、吐き捨てるようにいった。導衣の痛覚遮断機能が途切れたわけではないということは、全身が悲鳴を上げていないことからも明らかだ。なにかがおかしい。異常だ。が、そんなものは、この際どうでも良かった。
ここがどこで、自分がどのような状況に置かれているのかもまるでわからないが、ひとつだけ確かなことがある。
それは、サタンが間違っているということだ。
「あれで、自分ひとりで斃したなんて、口が裂けてもいえないだろ」
その言葉を真言として、あらん限りの力を解き放てば、流人の全身から翡翠色の颶風が吹き荒れた。サタンが思わず手を離し、距離を取るほどの暴風。それは速やかに渦を巻き、破滅的な竜巻となって流人の周囲を圧倒していく。
闇の世界を掻き混ぜ、混沌を攪拌していくかのように。
その威力、精度、範囲たるや、並の魔法ではない。星象現界なのだから、並の魔法と比べるのも馬鹿げているが、サタンが比較しているのは星象現界だ。星象現界の中でも、いま、流人が発動して見せているそれは、並外れたものだった。規格外といっていい。
人間の魔法士が持ちうる力を、人類の領分を超えている。
「照彦、神流、九乃一――皆がいたから、どうにかなったんだ。自分ひとりじゃ、オベロンに食い下がれたかどうか」
「……そうだね。それも認めてあげよう。でも、だからといって、きみを生かしてあげる理由はないよ。残念だけれど、それが決定だ。なにより、きみには可能性がある」
「これから死ぬ人間に可能性などあるものか」
「あるんだよ、それが。きみも知っているはずだ。ぼくがいったいどんな能力を持っているのか、戦団の導士なら、軍団長ならば、熟知していて当然だよね」
「サタンの……能力――」
流人がはっとしたのも束の間だった。
サタンの背後に黒い光輪が浮かび上がったかと思うと、その影のような光が流人を照らした。そして、流人の影が膨れ上がり、彼を飲み込んだのだ。神風の竜巻など、意味はなかった。そのすべてを一瞬にして飲み込んでしまったからだ。
「さようなら、相馬流人。ご苦労様、第一軍団長。きみは、きっと生まれ変わる。生まれ変われる。そのとき、相馬流人としての記憶もなにも持ち合わせていないけれど、でも、悲しむ必要はないよ。新たな使命が、きみを待っているのだから」
サタンは、己の影の中に消えた星将に向かってそのように告げると、視線を巡らせた。
闇の世界ハデス、その中心に位置する憤怒の座には、〈七悪〉に連なる五体の悪魔たちが控えていた。
「流人さん!」
「流人軍団長!」
「流人くん!」
三者三様の叫び声は、流人には届かなかった。それどころか、空中で途切れ、消え失せてしまったのではないかと思えた。
というのも、流人の背後に現れたサタンが、巨大な闇の球を生み出したからだ。そして、つぎの瞬間には暗黒球は消えて失せた。残されたのは、虚空。なにもない空白の領域。いや、違う。
残ったのは、女。
「あれは……」
「幻魔……それも鬼級だな」
「少なくとも妖級にはいませんね、あのような幻魔は」
無論、記録されていない新たな妖級幻魔が確認されたのだとしてもなんら不思議ではなかったが、妖級幻魔程度を一体、サタンが残していくはずもない。
故に、星将たちはそれを鬼級と断定した。
極めて人間に近い姿をしたそれは、やはり、妖級以上の幻魔であること間違いないだろう。その美しさたるや、天使の如くであり、背に生えた一対の翼は穢れなき純白だった。その姿を一目見れば、天使と見間違えても不思議ではない。だが、天使の象徴にして特徴たる光輪が見当たらず、目も赤黒い。天使といえば、幻魔らしからぬ蒼白い目の持ち主だから、それが天使ではないことは明らかだ。
整った顔立ちに黒い髪、肌は透き通っているように白かった。そしてその柔肌に纏うのは、竜を模したかのような鎧。手には、蛇を思わせる杖が握られている。
それは、ゆっくりと降下してくると、神流たちに向かって一礼した。
「初めまして、皆々様。わたくしの名は、アスタロト。サタン様が僕にして、悪魔が一。どうぞ、お見知りおきを」
恭しくも名乗ってきた悪魔は、しかし、その言葉をこそ真言としたようだった。凄まじい爆風が巻き起こり、その場にいた全員を派手に吹き飛ばしたのだ。
神流たちが張り巡らせた魔法防壁ごと、である。
「そして、どうか、お達者で」
アスタロトと名乗った悪魔は、満面の笑顔だった。
笑顔で、戦団の導士が黒禍の森から強制的に離脱していく様を見届けていた。